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それから一週間が経ち、レリアは「月読みの祈り」の初日を迎えた。
聖堂で夕食後の祈りを終え、一度部屋に戻る。男子修道院の聖務日課が終わると、いつもは鳴らない鐘が鳴らされる。それを合図に部屋を出て、一人で聖堂へと向かう。
中庭にも回廊にも、修道女の姿はなかった。食事や聖務日課の免除で顔を合わせる時間が以前よりずっと減っていたこともあり、女子修道院においてレリアは空気のような存在になっていた。ローズやアイリスはたまに顔を合わせるとレリアに話しかけたそうにしていたが、周囲の修道女の存在に気兼ねしてちらりと視線をよこすのみ。実際に話しかけてくるのはルネだけだった。
ルネは以前にも増してレリアの身を心配するようになっていた。健康面というより、やはりシルヴァンとの関係を気にしているようだった。
「油断は禁物よ。優しいふりをしておいて、いつ牙を剥くかわからないわ」
忠告に感謝しながらも、レリアは「知らない」ことに対して恐ろしさを感じた。ルネからしたら、シルヴァンは獣のような危険な存在でしかない。彼の「知」への思いなど、知る由もないのだ。
知る努力ができる環境になればいい、と思った。リュックが言うように、戒律を見直す機会を作ってもいいのかもしれない。同じ壁の中にいながら出方を伺ったり牽制したりする必要のない、互いを信じ合える穏やかな環境になってほしい。
聖堂では、シルヴァンに言われた通り、消灯の鐘の後も祈りを続けた。聖堂には大きな薔薇窓があるが、ステンドグラスであること、足場もない高い位置にあることから、そこから聖堂の中を覗くことは難しい。正面入り口および男子修道院側の扉には鍵がかかっているし、女子修道院の扉を含めて中を覗ける小窓もない。ひざまずくレリアの姿も、床に置いた手燭の火が消えたかどうかでさえ、外から伺い知ることはできない。
消灯後、三十分ほど祈りを続けてからレリアは自室へと戻った。休み休み、そして形だけの祈りではあったが、膝は裁判の日と同じように痛んだ。
シルヴァンの計画の開始は、二日目の祈りからだ。
初日と同じように手燭を置いてひざまずいていたレリアの耳に、こつん、という硬い音が届いた。
それを合図に立ち上がり、祭壇の奥にある地下聖堂の階段に向かう。下を見ると、階段の先にほの赤い光が見えた。
周囲を見回してから、そっと階段を下りる。柱の陰に、ランタンを持ったシルヴァンが立っていた。人差し指を唇の前に立てると、ついてこい、と顎で示す。
地下牢の格子を通り過ぎ、棺の並ぶ空間を進む。シルヴァンは一つの石棺の前で立ち止まると、慎重にその蓋をずらした。思わず飛び退きそうになるが、中に遺体はなかった。敷かれた布をどかすと、人ひとりがやっと通れるほどの穴があった。
シルヴァンが足を踏み入れる。穴は腰の高さほどの深さらしい。しゃがむようにして中に入ると、レリアに手を差し伸べた。少し戸惑ったが、この状況で戒律を気にしていても仕方がない、とレリアはその手を取り、同じようにして中に入った。
穴の先には、数段の階段が続いていた。それが終わると、石壁のトンネルが現われた。これがシルヴァンの言っていた「地下通路」だ。
シャトロワ修道院には、二百年ほど前に作られた地下通路がある。有事の際の避難通路として建設され、その存在は院長・副院長のみに伝えられてきたのだが、三十年ほど前に修道士により発見されて以降、修道女との密会などに利用されるようになった。そのため、地下聖堂にあった二つの入口が埋められることになったのだと言う。それぞれの入口は、女子修道院の食堂、男子修道院の地下書庫へ通じるようになっていた。
しかし、男子修道院側の通路に至る入口はもう一つあった。それがあの棺だ。地下通路の建設当初には存在しなかったものだが、後に秘密裡に増設されたらものしい。
地下通路の天井は、背伸びをして手を伸ばせば届きそうだった。下は踏み固められた土だ。
ランタンを持つシルヴァンの背中にひっつくように、身を縮めながら進んでいく。聖堂から新月館まで、こんなに距離があっただろうか。そう思い始めた頃、前方に古めかしい扉が現われた。
扉を開け、中に入る。入口は半分ほど何かに遮られていた。体を縦にしてくぐると、それが書棚の背であったことがわかった。
扉を閉めると、シルヴァンは書棚を動かした。普段はこうして扉を隠しているらしい。地下書庫は、写本室長以外の入室は禁じられている。院長や副院長でさえシルヴァンの許可を取らなければ入れない空間にある隠し扉なら、誰かに見つかる可能性はほぼないだろう。
でも、とレリアは机にランタンを置いたシルヴァンに声をかけた。
「いいんですか。こんなこと、してしまって」
「こんなこと、とは?」
「月読みの祈りの最中に聖堂から抜け出して、こんな時間に書写作業をすることです」
修練女が男子修道院の領域にいること、そして労働時間でもないのに修道士と二人きりで密室にこもることについては、はっきりと口に出せなかった。そんなことを言えば、シルヴァンを男性として意識していると誤解されかねない。
「おまえが望んだことだろう」
「確かにそうですが、少し後悔しています。もし誰かに知られたら、終わりです」
「われわれのどちらかが口外しない限り、知られる可能性はない。月読みの祈りの最中に聖堂に近づくだけでも懲罰房行きだ」
「懲罰房?」
初めて聞く単語にレリアは首をかしげた。シルヴァンが説明したところによると、赤薔薇館、白薔薇館にそれぞれ設けられている地下牢と地下室は併せて「懲罰房」と呼ばれているらしい。自分がいた地下室が懲罰房だったことを知り、レリアは思わず乾いた笑いをこぼした。
「これも奉納書を完成させ、聖女祭を成功させるためだ。時間が惜しい。さっそく始めるぞ」
「はい」
机には、レリアのための簡易的な書写台やインク瓶、羽ペンが用意されていた。シルヴァンの対角線の位置に座り、書きかけの羊皮紙と向き合う。
原書をもう一度確認し、レリアは作業を始めた。
シルヴァンの言う通りだ。今は余計なことを考えず、奉納書に全力を注がなければならない。奉納書の完成は最低条件であって目的ではない。まずはここを乗り越えなければ、シルヴァンの望む未来には到達できない。
そこまで考えて、はたと気づく。
いつの間にか、シルヴァンの望む未来がレリアの望む未来にもなっていた。幼い頃に助けてもらったベルナール師と再会したい、という気持ちは確かにある。改めてお礼を言って、あの時の写本もできればもう一度見せてもらいたいし、旅の話も聞きたい。
けれどそれ以上に、シルヴァンの喜ぶ顔が見たいと思った。シルヴァンの求める「知」がどんなものなのか知りたい。なぜそこまで知にこだわるのか、彼の横に並んでともに同じものをめざすことで、彼を理解したい。
写本室で書写を続けていきたい。それはシルヴァンの存在がなければ、出てこなかった言葉かもしれない。シルヴァンは、レリアに写本や書写の世界を教えてくれた。新しい居場所と、新しい世界の見方を与えてくれた。虫だった自分を人間にするための手助けをしてくれた。そして何より、自分のために命を賭けてくれた。
シルヴァンの計画に乗った背景には、彼と過ごす時間を増やしたいという気持ちも多分に含まれていた。そばにいると安心できるし、落ち着く。女子修道院で心休まる場所は自室くらいだったが、この薄暗い地下書庫は自室以上に気持ちが凪ぐ。
やがて一葉出来上がり、シルヴァンに差し出す。すぐに二葉目に取り掛かろうとしたレリアに、シルヴァンは声をかけた。
「オーレリア、という単語にだけ独特の癖があるな」
どきりとして、「すみません」とうつむく。修道院に来る前も来た後も、自分の名前を書く機会はそう多くなかった。おそらくこの名に感じている重みが字に表れてしまったのだろう。
「この程度、全くかまわない。私がおまえでもこうなるだろうしな」
そうして「調査前」の箱に羊皮紙を入れる。
「それは……どうしてですか?」
「自分と同じ名前の聖女が祀られている修道院。そんな想像をしただけで気が滅入るというのに、この壁の中ではささいなことがやたらと大きな意味を持ってしまうからな。聖女と同じ名を持つ少女が、五百年の節目を迎える聖女祭直前にここシャトロワにやってくる。そこに意味を見出し、運命だの何だのと言い出す輩もいるだろう」
マザー・クラリスの顔が思い浮かび、レリアは小さくうなずいた。
「だが、名前は名前。単なる記号だ。必要以上に気にすることはない」
「でも、名前だけでなく、髪や目の色まで同じなんですよ。名前は確かに記号かもしれませんが、聖女の名となると違います。彼女はカノンに物語が載っていて、祭壇画にもなっているんです。オーレリアという名前は、何者でもない私にはやはり重すぎます」
「オーレリアでもレリアでも、私の見ているおまえは変わらない」
そう言ってシルヴァンは羽ペンを置いた。レリアをじっと見つめると、静かに目を細める。
「裁判のときのおまえは言葉こそ必死だったが、その表情はどこか投げやりだった。肉体は生きようとしているのに、心がそれをあきらめているようだった。何かを望むことすら自分には許されていないと言いたげな、この世界に居場所はないと悟った人間の顔だった」
そこで言葉を止め。視線を机に落とす。
「昔の自分を見ているようだった。だから、黙っていられなかった」
うつむいた表情が一瞬、ひどく頼りないものに見えた。瑠璃色の瞳を上げると、シルヴァンはインクで汚れた指をそっとレリアのほうへと伸ばした。
「だが、今のおまえは違う。おまえは今、ここにいる。そして、私の中にもいる」
その言葉と同時に、頬にかすかな感触があった。ほとんど触れるか触れないかというところで止められた手が、遠慮がちに引っ込められる。
「本当のおまえは、おまえ自身に守られている。だから、心配するな」
瑠璃色の瞳に、揺らめく蝋燭の炎が映った。
レリアは初めて、名前を呼んでほしいと思った。「おまえ」ではなく「レリア」と呼ばれたいと、ほんのり熱くなった頭の中で呟いた。
ぎこちなく羽ペンを持ち上げると、シルヴァンは羊皮紙に目を落とした。
「おしゃべりが過ぎたな。作業を続けるぞ」
「あの」
捕まえるように言う。この会話の時間を、まだ終わりにしたくなかった。
「あなたは、ここに来る前は、何をしていたんですか」
昔の自分、という言葉が引っかかったままだった。目の前の修道士と自分は、何もかもが違いすぎる。ずっとそう思っていただけに、シルヴァンが自分の中にかつての自分自身を見ていたことがどうにも信じられなかった。
「何もしていなかった」
レリアに横顔を見せるように顔をそむけ、シルヴァンは続けた。
「生きているとも言えない状態だった。そこを、クロードに助けられたんだ」
思いがけない返答に、レリアは一呼吸分だけ迷った。
意を決して、どういうことですか、と問おうとしたとき、大沈黙の鐘が鳴った。
シルヴァンはふっと息をつくと、レリアを見た。
「どうする。もう、終わりにするか」
鐘を意に介さずに声を発する彼に、レリアは「いえ」と首を振った。
「まだやれます」
大沈黙の最中に声を出したのは初めてだった。破れば七日間の沈黙が言い渡される決まりだ。
再び羊皮紙と向かい合いながら、彼のことを知る機を逃したのを残念に感じつつも、もしかしたら鐘に助けられたのかもしれないとも思った。生きていない状態。助けられた。その言葉だけでも、レリアの想像を超える経験をしてきたのだろうと察せられた。
人は、外から見ただけではわからない。けれど、彼のそばにいると安心できるのは確かだ。
戒律、修道院内の政治、好奇な視線や嫌がらせ。そんなもののいっさい届かない地下書庫の中で、レリアは無心に文字を書き続けた。
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