「いやあ、怖かったですよ、マザー・クラリス」

 レオンが長机の前で言う。その隣では、リュックが籠から出した羊皮紙の枚数を数えていた。

 午後の作業を始めてしばらくすると、レオンとリュックがやってきた。レリアは食事と会話ですっかり温かくなった体で奉納書の書写を続けていた。心なしか、午前よりも文字を書く速度が上がった気がする。

 先日行われたマザー・クラリスによる聞き取り調査には、レオンも参加していた。初めて足を踏み入れた赤薔薇館は白薔薇館よりも内装が豪華だったとか、赤毛の修道女(おそらくルネのことだろう)が声は優しいのに視線がきつくて怖かったとか、ひとしきり感想を述べた後、ロジェからクラリスについて問われたのだ。

「アゼリカが手に入らないときは、直談判に行ってやりたいと何度か考えはしましたけどね。あの迫力を前にしたら、何も言えないどころか、その場から動けなくなりそうでしたよ。怖かったなあ、ほんと」

「薬草園から調達させてくれという話か? それは無理だろう」

 羊皮紙を受け取りながらシルヴァンが言う。

「薬草園のアゼリカをインクの原料に使うことなど、彼女は絶対に認めないだろう。聖女オーレリアが薬草係だったことと結びつけ、薬草園を聖域と考えているはずだ」

「薬草園の薬草は、インクではなく薬草として務めを果たすために生まれてきたのです、とか言いそうだよな」

 羽ペンを動かしながらロジェがそう言ったとき、

「話し合いはしたんですか?」

 落ち着いた声が響いた。会話を聞きながらも作業に集中していたレリアは、初めて聞く声に思わず振り返った。

「リュック。おまえも、マザー・クラリスの聞き取りに呼ばれたんだろ。怖くなかったのか?」

「畏怖は感じました」

 表情がないまま、リュックは答えた。

「ですが、はじめから可能性を否定して対話を忌避していれば、何も変わらないのではないでしょうか」

「おぉ、なかなか言うね」

 エリクがシルヴァンから新たな羊皮紙を受け取りながら言う。

「確かに、リュックの言う通りだ。だが、ここには歴史というものがある。シャトロワ修道院だけでなく、マザー・クラリス個人にも同じように歴史がある」

 そう言うと、遠くを見るような顔でシルヴァンは続けた。

「二十年ほど前のことだ。ブラザー・クロードによる写本購入や書写費用が男子修道院の財政を圧迫した結果、女子修道院に融通を頼む事態となった」

「何しろ、聖女の修道院だからね。女子修道院は寄進も多いし、広大な荘園も所有してる」

 エリクが付け加える。

「当時の女子修道院長は写本事業に理解を示してくださったが、会計係と供給係を兼務していたマザー・クラリスはその頃から男子修道院を快く思っていなかったのだろう」

「二十年間も、ですか?」

 リュックが訝しげに言う。

「先代の院長に対する不満も大きかったのだろう。六年前に院長となられてからは、己の信念を貫いていらっしゃる。それがたまたま、われわれにとっては少々不都合なものだったというだけの話だ」

「わかりません」

 リュックがシルヴァンをまっすぐに見た。

「生活空間を分ける必要があるのはわかります。ですが同じ壁の中にいるのに、なぜ聖務日課も別々に行うのでしょうか。村の教会では、男も女も関係ありませんでしたよ」

 視線がシルヴァンに集まる。柔らかな笑みを唇に浮かべると、彼は告げた。

「村は修道院と違って、戒律は存在しないからな」

 戒律、と聞いて、ルネの言ったことを思い出す。

 修道士と修道女の身体接触の禁止も戒律のひとつだ。他の修道会においては、会話や視線を合わせることすら禁じられているところもあるという。

 ここは、そうでなくてよかった。確かに男女の別はあるが、同じ人間同士だ。会話すらできないなんてあまりに窮屈すぎる。

 食事どきのシルヴァンとの会話を思い、レリアは小さく震えた。その震えは、これからも食事のたびに彼と会話ができるという喜びと、もし会話が禁じられたらと想像した結果の絶望によるものだった。

「では、戒律を変えたらどうですか」

「リュック、そのへんにしておこうよ」

 レオンに言われ、リュックは写字生たちを振り返ってから「すみません」とシルヴァンに頭を下げた。

「戒律を変えるのは、薬草園からインクの原料を調達するよりもはるかに難しいだろうな」

 シルヴァンの言葉を最後に、会話は終わった。リュックはうつむいたまま、レオンとともに螺旋階段を下りていった。


 それから数日が経過した。食事のたびに交わす会話で、レリアは少しずつシルヴァンのことを知ろうと努めるようになった。

「室長は、ここに来てどれくらいなんですか?」

「十三のときだから、今年で十年だ。写本室長になってからはまだ二年だな」

 修道院に来る前のことや、入った理由については話そうとしなかった。それもいつか知ることができるんだろうか、と思いながら、レリアは彼の写本への思いについて知るために質問を重ねた。

「ブラザー・クロードもですが、室長はどうして新月館の発展を目指しているのですか?」

 奉納書に集中すべき時期に、「知の交換」のためにサー・ヴィレムから依頼を引き受ける。そんなことをしてまで新月館の写本を増やそうとするのは、この修道院のためなのだろう、となんとなく思っていた。だが、初めて地下書庫にレリアを連れてきたときの柔らかな表情を思い出すと、どうもそうではないような気がしてならなかった。

「トラド一の蔵書量の図書館を作り上げ、ここシャトロワの名を国中に轟かせるためだ。言ってしまえば、マザー・クラリスと同じだな」

「では、修道院のためなんですね」

 少し意外に思いながらそう答える。するとシルヴァンはふっと笑った。

「それは建前だ。クロードも私も、ある人物をシャトロワに呼ぶという目的がある」

「ある人物?」

「遍歴修道士のベルナール師だ」

 レリアの脳裏に、くたびれた黒いローブの人物が浮かんだ。幼い頃自分を助けてくれた、遍歴修道士。

 彼の名前は、結局わからずじまいだった。名乗られたこともなければ、だれかが彼を呼ぶ場面も見たことはない。レリアは必要があれば「おじさん」と呼びかけていた。

「その、ベルナール師というのは……」

「各地で様々な知を集めながら自身で著作も行う、博学の士だ」

 そう言うと、シルヴァンは立ち上がって書庫に向かった。戻ってきたときには、青い革表紙の写本を手にしていた。

「これはクロードが大枚をはたいて手に入れた、ベルナール師の著作だ。東方の医術についての解説書で、現在は禁書扱いとなっている」

「禁書?」

 そんなものを簡単に見せてしまっていいのか、と思ったが、シルヴァンは躊躇することなくページをめくった。裸の人体図や薬草の絵とともに、細かな楷書体が並んでいるのが見える。

「実に興味深い内容だ。ベルナール師はリーヴェ教の枠を超え、ただひたすら知を追い求めることに命を賭けていらっしゃる。噂では、何度も危ない目に遭って命を落としかけているそうだ。高価な写本を持ち歩いているのだから、当然かもしれないな」

 シルヴァンは写本を閉じると、革表紙を静かにさすった。

「羨ましい。私には、それはできない。ベルナール師を追って旅に出たいと何度も思ったが、写本室長を任されている限りそれは無理だ。私は写字生たちに必要とされているし、私自身も彼らを必要としている。何より、私には役割がある」

「役割?」

 思わず反応すると、シルヴァンは目を細めて続けた。

「私の役割は、知を集め伝えることだ。その『知』の中には、ベルナール師の知も含まれている。新月館がトラド一の図書館になれば、ベルナール師も知を求めてきっとここに来てくださる。そうすれば教えを乞える。私は、いつかその時が訪れるのを、ここでずっと待っているつもりだ」

 レリアはシルヴァンの横顔を見つめた。新月館の発展のむこうには、知という目的があった。それを知ると、今度はどうして彼がそこまで知にこだわるのかを知りたくなってくる。

 尋ねようと口を開いたとき、シルヴァンがレリアに顔を向けた。

「そうだ。これも、おまえに聞きたいと思っていたんだ。裁判のとき、遍歴修道士の話をしていたな。彼の名前は?」

「それが、名前はわからないんです」

「そうか」

 シルヴァンは少しがっかりしたような表情になった。

「では、彼が持っていたという、題名のない写本について詳しく知りたい。異端の文言以外、他にどんなことが書かれていたんだ?」

 アリスのことを思い出しながら、レリアは答えた。

「なるほど。甘い葡萄酒に気をつけろ、本を開けば世界も開く……このあたりは、アルノルド皇国に伝わる言葉だな」

「そうなんですか?」

 アルノルドといえばラファエル司教代理の出身国だ。

「警句やことわざのようなものだ。そのまま、甘い誘惑に気をつけろ、知識は世界を広げる、といった意味だが、異端の聖句とともに並んでいたのは妙だな」

「気に入った言葉を書き連ねたものなんでしょうか」

 レリアは、長机に置かれたままの禁書に目を向けた。シルヴァンの手がどけられた革表紙。その型押し文様を見て、あっと声が出た。

「これ、同じです。あの本と、同じです」

 三つの円が重ねられたような、不思議な記号。それはまさしく、あの遍歴修道士が持っていた、題名のない写本のものと同じだった。

 それを聞いたシルヴァンは、「まさか」と目を見開いた。

「それは、熊の文様だ。ベルナール師が著書につける印だ」

「熊?」

「『ベルナール』は、熊のように強く勇敢である、という意味なんだ」

 レリアは、呆然と写本を見つめた。あの遍歴修道士が、シルヴァンの尊敬するベルナールだったとは。

「私は……ベルナール師がいなければ、きっと死んでいました。私が今ここにはいるのは、ベルナール師のおかげです」

 シルヴァンは額に手を当てて固まっていたが、やがて唇を震わせて言った。

「ベルナール師が、レリアをここによこしてくれたというのか……」

 運命。そんな言葉が、一瞬頭をよぎった。

「その写本のことを、詳しく教えてくれ」

 シルヴァンがレリアに顔を近づけた。

「内容だけでなく、段組みや挿画、文頭装飾文字まで、覚えていることをすべて。ベルナール師のことだから、単なる警句集ではないはずだ。きっと何か、隠されたしかけがある」

「しかけ、ですか?」

「ベルナール師は、著書に暗号のような遊びを入れるのを好む。この写本の最後には数字の羅列がある。これは書籍暗号になっていて、該当ページの指定された文字を並べることで秘薬の調合法が現われる仕組みになっている」

 なるほど、とレリアは納得した。関連性のない言葉が並んだだけのあの本には、動物の修道士や司祭の挿絵が描かれていた。内容と関係のなさそうなあの挿絵は、今思い返せばかなり不自然だ。

「わかりました。絵も、細かいところまで描いてみます。でも……」

「もちろん、聖女祭が終わってからでいい」

 シルヴァンの中では、聖女祭は無事に終えられるものと決まっているらしい。レリアは首を振った。

「終わったら、神判があります」

「それについては、クロードとともに司教代理に審理の中止、もしくは再びの延期を願い出る計画で動いている。また、最悪の事態に備えて、悪魔の血についての調査研究も進めている」

「研究?」

「悪魔の血の成分分析と、飲んで助かった者と死んだ者の記録の調査だ」

 シルヴァンが後ろの机を振り返った。そこに積まれた資料らしきもの山に、レリアは目を丸くした。ひそかにそんなことまでしてくれていたのか、と胸の奥が熱くなる。

「今のところ、収穫はあまりない。ひとつ言えるのは、助かった者は全員、拒絶反応を起こすように即座に悪魔の血を吐き出しているということだけだ」

「吐き出す? 飲んですぐに、ですか」

 言いながら、ラファエル司教代理の声がよみがえってくる。

 ――悪魔に魅入られた君の体は、喜んでこの毒を吸収して、死に至るんだ。だから『悪魔の血』っていうんだよ。

 罪人は吸収し、そうでなければ拒絶する。同じ植物の抽出液なのに、飲む者によってなぜそうした違いが出るのか。

「体質、でしょうか」

「そうでないと願いたいが……神判までには、絶対に助かる方法をつきとめてみせる。だから、心配するな。ベルナール師の書の再現は、すべてが終わってからでいい」

「でも、さすがに奉納書の書写が終われば、私がここに出入りする意味はなくなります。本の内容を再現したとしても、室長に見せる……会うことは、できなくなります」

「問題ない。聖女祭が成功すれば、おまえの存在は奉納書の書写を行った修練女として広く伝わる。書写を続けさせることはシャトロワにとって利にはなるが害にはならない。司教代理には、そのあたりも含めて嘆願するつもりだ」

「書写を、続ける?」

 思いもしない未来の可能性に、レリアの思考が止まった。

「意外か? もとより、私はそのつもりでいた。おまえは?」

「それは……」

 できれば、そうしたい。けれど、そんなことが許されるのだろうか。聖女祭や神判の問題がなくなれば、レリアの書写作業への参加にも意味や目的がなくなる。

「ここを虫籠にするかどうかは、おまえの意思ひとつにかかっている。そして私から見て、おまえは虫ではない。信仰心はなくとも、書写を通じて祈りの喜びを得ることができる立派な修練女だ」

 僧居たシルヴァンの顔をレリアは震える思いで見つめた。養母の声が、目の前のシルヴァンの微笑みで塗りつぶされていくようだった。

「私も、書写を続けていきたいです」

 満足げにうなずくシルヴァンを前に、レリアは笑みをこぼした。不思議な気持ちだった。現実は問題だらけだということは頭ではわかっているのに、シルヴァンさえそばにいてくれれば何でもできるような気がしてくる。

「では、努力を続けよう。まずは奉納書、そして聖女祭だ」

「はい」

「私も引き続き悪魔の血の調査を続ける。実は、リュックにも協力を求めるつもりだったんだが、先の一件でどうも嫌われたらしくてな。視線すら合わせてもらえなくなってしまった」

「リュック?」

 首をかしげたレリアに、シルヴァンはおや、という顔になった。

「言っていなかったか。おまえの神判の前日に裁判があっただろう。リュックは、あのときの被告――粉屋の親子の、息子のほうだ」

 裁判でのラファエルの言葉を思い出す。父親は死に、息子は助かった。確かに彼はそう言っていた。

「そうだったんですね……知りませんでした」

 それなら、あの無表情にも納得がいく気がした。父の死を間近で目撃し、修練士になるほかなかった少年。シルヴァンに意見できるようになるくらいには元気になった、と捉えていいのだろうか。

「そうだ。そろそろ、『月読みの祈り』が始まる時期だな」

 シルヴァンに言われ、「ええ」とうなずく。

「月読みの祈り」とは、奉納役に課せられた仕事のひとつだ。新月から次の新月までの一か月間、通常は自室で行う「就寝前の祈り」を聖堂で行うという儀式である。身を浄める意味があり、聖女祭に限らず女神への奉納の役を担う者は必ず行う定めになっていた。

「消灯時間に関係なく祈りを続けられるうえ、月読みの祈りが行われている間は聖堂への立ち入りどころか、扉に近づくことすら禁じられる。好機だと思わないか」

「好機?」

 どういうことですか、と問う前に、シルヴァンが声を落として言った。

「おまえが望むなら、その時間を書写に回すことができるぞ。どうする?」

「え?」

 ぽかんとしたレリアに、シルヴァンは不敵な笑みを浮かべた。

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