第2話 猫将軍の再臨:黄金時代の波紋

 プロローグ

 奈良県桜井市の空は、どこまでも澄み渡っていた。 十年。どん兵衛が地球を去ってから、まさしく一昔が過ぎ去っていた。

 地球は今、かつてないほどの繁栄と平和を謳歌している。どん子が統治する「猫ファースト」の世界は、彼女の予言通り、まさに黄金時代を迎えていた。かつて世界を二分した国家間の争いは消え失せ、軍隊は解体され、その莫大な予算と人的資源は、すべて猫と人類の福祉に振り分けられた。世界各地に設立された巨大な医療研究所では、猫のFIPや腎臓病、人類のがんや難病、老化の研究が日夜進められ、多くの不治の病が過去のものとなりつつあった。テロや紛争、貧困という言葉は歴史の教科書の中にだけ存在し、地球はかつてないほど穏やかで満ち足りた星へと変貌していた。

 この奇跡の平和を支える基盤の一つが、アストロフ星人との交易によってもたらされた**「どんチャリ」**だった。三ヶ月に一度、アストロフ星人の巨大な宇宙船が宇宙の彼方から月の裏側の月面どん兵衛農園に着陸する。月面どん兵衛農園の宇宙野菜とメカ炬燵が彼らに引き取られ、その対価として、原子力よりも安全で高効率な高エネルギー発生装置「どんチャリ」が地球にもたらされた。

 「ゴロゴロ発電所」と名付けられた各地域の電力施設には、一見するとただの自転車にしか見えない「どんチャリ」が千台ずつ整然と並び、それが全世界に五十基。総計五万台の「どんチャリ」が、地球全体の電力需要を余裕で賄っていた。

 人間たちは、猫への奉仕の欲求に突き動かされるかのように、誰もが喜んで「どんチャリ」の漕ぎ手となった。「どん子様のために!」「ゴロゴロのために!」彼らは一心不乱にペダルを漕ぎ、その労苦は彼らにとって無上の喜びだった。今や人間の小学生の将来つきたい職業はとアンケートを取ると圧倒的に1位が「どんチャリ」の漕ぎ手だった。2位は桜井どん兵衛農園の農夫になることだった。

 排ガスを撒き散らす車は姿を消し、代わりに小型のどんチャリを搭載したクリーンな乗り物が街を行き交う。

 地球環境問題は遠い過去の悪夢となり、大気はどこまでも清らかだった。

 三ヶ月毎にアストロフ星人が月面産の野菜を引き取りに来た時に、どんチャリの緻密なメンテナンスと、稀に発生する故障品の交換を行い、このシステムは完璧に機能していた。

 桜井市の、かつてどん兵衛の拠点だった広大な桜井どん兵衛農園で、どん子は日課の巡回を終え、伸びをしていた。澄み切った空を見上げると、一見して何も変わらない、完璧な世界が広がっている。

 人間たちは「至福のキャベツ」と「忠誠のニンジン」の効果で温厚になり、どん子の「究極のゴロゴロ」で満たされた顔をしている。望んだ通りの世界だ。だが、彼女の瞳の奥には、どこか一点の曇りのようなものが宿ることが、ごく稀にあった。完璧すぎる平和は、時に微かな退屈を伴うものだ。


第1章 どん兵衛の帰還とどん子との再会

 その日も、穏やかな朝が訪れるはずだった。

「どん子様! 緊急事態ニャ!」 突如、背後からけたたましい声が響いた。振り返ると宇宙観測員の小柄なキジ柄の猫、ルーナが顔を真っ青にして駆け寄ってくる。彼女はどん兵衛の残していった月面基地と月面どん兵衛農園を監視する桜井市立宇宙センター勤務している。

 彼女はアストロフ星人たちの通信も担当しどん子の最も忠実な情報源の一匹だ。 「どうしたニャ? ルーナ。この黄金時代に緊急事態とは、一体何が起きたニャ?」どん子は落ち着いた声で、しかし僅かに耳をピクリと動かした。

「桜井市立宇宙センターのレーダーに変な反応がありましたニャ。桜井どん兵衛農園に、未確認飛行物体が接近中ニャ! 高速かつ、単機…プライベートなサインニャ!」  ルーナは手に持ったデータタブレットを振り回しながら興奮気味に、呼吸も荒く報告した。

 どん子の緑色の瞳が、ゆっくりと空に向けられた。 まさか。 いや、しかし、このサインは……。

 足早に桜井どん兵衛農園の開けた中心部へ向かうと、まさにその時、青い空の一点から、銀色の眩い光がスーッと舞い降りてきた。それは、どん子がかつて一度だけ見た、あの独特の流線型のシルエット。一人乗り用の空飛ぶ円盤だった。円盤の側面にはがま口のイラストが描かれている。

 円盤は音もなく、緑豊かな農園の真ん中に静かに着陸した。ハッチが開き、中からゆっくりと姿を現したのは、十年前に銀河の彼方へと旅立ったはずの、あのジンジャーキャット。

 どん兵衛だった。

 彼は以前と変わらず、がま口のイラストがプリントされた薄緑色のTシャツをまとっていた。彼の瞳は、かつてのような野望と、十年の銀河の旅で得たであろう深みを宿し、しかし口元には、どこか皮肉めいた、あるいは全てを見透かしたような、微かな笑みが浮かんでいた。

 どん兵衛は、悠然と円盤から降り立ち、目の前で静かに彼を見つめるどん子へ、不敵な視線を向けた。

「やあ、どん子。地球は、退屈してないかニャ?」

 黄金時代に、新たな波紋が広がり始めた瞬間だった。


第2章 どん兵衛の頼み

 どん兵衛は、かつてのライバルを前にして、不敵な笑みを浮かべた。しかし、その瞳の奥には、十年間の銀河の旅で蓄積された疲労と、何よりも焦りの色がうっすらと滲んでいた。

「フン、相変わらず平和ボケしてるニャ、どん子。もっとも、地球(ここ)は俺が残していったシステムと、アストロフ星人の『どんチャリ』のおかげで、もはや退屈なほど安定しているようだがニャ。」

 どん兵衛は一瞥し、どん子の着ているかなりくたびれたTシャツを見て鼻で笑った。白いTシャツには昔と同様、蛙のイラストが プリントされている。

「ずいぶんと質素な生活だニャ。銀河はもっと広大で、興味深いことだらけだというのに。俺は銀河系に住んでいる知的生命体の2/3を支配したぜ。」どん兵衛は無遠慮にどん子を見て言った。

「もちろん俺のやり方の猫ファーストで支配したニャ」

 どん子は微動だにせず、冷静な眼差しでどん兵衛を見据えた。

「おや、銀河の2/3を支配したという英雄様が、こんな地球の片隅まで、わざわざ帰ってくるほど退屈になったとでも言うのかニャ?それとも…何か困り事でもあるのかニャ?」彼女の喉が、微かにゴロゴロと鳴った。その音は、どん兵衛の胸中に、かつての敗北の記憶を鮮やかに呼び起こさせた。

 どん兵衛の耳がピクリと動いた。プライドを刺激された彼は、一度は言いよどんだが、すぐに開き直ったように口を開いた。

「まさか。銀河の猫ファースト化は順調に進んでいるニャ。知的生命体が存在する惑星の2/3は、すべて猫がいる。そして知的生命体はすでに我らが猫の支配下だ。奴らは皆、猫に尽くす喜びに満ちているし、その星の猫たちも地球と同じように幸せな日々を送っているニャ。」 彼は誇らしげに胸を張ったが、その表情が徐々に曇っていく。

「だが、一つだけ誤算があった。俺の『至福のキャベツ』や『忠誠のニンジン』を育てるのに適した土地が、圧倒的に不足しているのだ。」

 どん兵衛は腕を組み、不機嫌そうに続けた。

「広大な銀河と言えど、地球のように水と栄養に恵まれた惑星は少ないニャ。ましてや、大量生産に適した広大な農地となると、見つけるのが至難の業だ。俺の大型円盤の船内農園では、全く足りないニャ。猫ファーストを広げようとすればするほど、野菜の供給が追いつかないのだ。」 彼はどん子をギロリと睨んだ。

「だから、アストロフ星人に頼んで、お前が管理している月面どん兵衛農園の野菜をもう少し融通してもらえないかと打診したが…あの機械じかけの奴らは、あっさりと断りおった! どこまでも融通が利かない連中だニャ!」

 どん子の口元に、微かな笑みが浮かんだ。「それで?その偉大な銀河の征服者様が、何を我々に頼みに来たというのだニャ?」

 どん兵衛は深々とため息をつき、その猫らしい鼻をヒクつかせた。

「…仕方ないニャ。地球の猫ファーストが完璧になったのは、お前の『究極のゴロゴロ』と、アストロフ星人との良好な関係によるところも大きいだろう。」彼は渋々、認めるように続けた。

「そこでだ、どん子。俺の新たな支配地である銀河の各惑星で、『どん兵衛宇宙野菜』を効率的に、かつ永続的に栽培できる広大な『宇宙農園』を、アストロフ星人の協力を得て建設したいのだニャ。だが、彼らは俺の交渉には耳を貸さない。そこで、お前の出番だニャ。」

 どん兵衛の顔には、かつての傲慢な自信とは異なる、どこか弱気な、しかし切実な響きがあった。

「頼む。**お前の『究極のゴロゴロ』で、アストロフ星人を説得してほしい。**彼らにとって、銀河系全体に広がる我々の猫ファーストは、新たな資源となるはずだニャ。彼らの技術と、お前の影響力があれば、俺の野菜不足は解消され、銀河全体の猫ファーストを完成させることができるのだニャ!」

 どん子は目を細め、静かにどん兵衛を見つめた。十年の時を経て、かつてのライバルが、まさか自分の「力」を借りに戻ってくるとは。それは、彼女にとって、予想外の、そしてどこか満たされるような再会だった。

 黄金時代を迎えた地球に、銀河の新たな野望が持ち込まれた瞬間だった。 どん子の「究極のゴロゴロ」は、果たして宇宙人を再び魅了し、どん兵衛の危機を救うことができるのか。そして、この再会は、猫と人類の黄金時代に、どのような変化をもたらすのだろうか。


第3章 桜井市立猫十字総合病院とどん兵衛の受難

 現状では野菜不足の為に銀河系の残りの1/3を支配できない。それどころか野菜を巡って惑星間戦争が起きるかもしれない。猫ファーストの世界では戦争は絶対に避けたい。もし戦争になると猫ファーストの世界が崩壊しかねない。どん兵衛はどん子に真剣な面持ちで話した。どん子はどん兵衛の話を聞いていた。しかし野菜不足で猫ファーストが崩壊の危機に落ちいるなど全く愚かな話だ。

 どん兵衛の話を聞いている最中にどん子はどん兵衛の様子がおかしい事に気がついた。どこか疲れているような感じだ。喋る時に声を無理やり絞り出すような感じだ。そして手には水の入ったペットボトルを持ちしょっちゅう水を飲んでいる。旅の疲れとは少し違うようだ。

 どん子はどん兵衛が地球を去った10年前の事を思い出した。当時の猫の寿命は20歳くらいだった。高齢になると猫特有の腎臓病に罹ってしまうのが普通だった。今は猫専門の医療機関があらゆる猫の病気の治療法を開発し猫の寿命は60歳を越えるだろうと言われている。

 しかしどん兵衛はそんな治療は受けていない。どん兵衛も10数歳になっていて昔で言えば高齢猫の部類に入るだろう。今のどん兵衛の様子を見て腎臓病に罹患しているのだろうとどん子は考えた。

 とりあえずどん兵衛を桜井市立猫十字総合病院に連れて行った。どん兵衛の頼みの返事はその後だ。どん兵衛は自分の体調不良は気がついていた。それは地球猫特有の病気なので他の惑星では治療できなかった。

 どん子に促されて病院に行ったどん兵衛は巨大な地上20階建ての桜井市立猫十字総合病院のハイテクな設備に驚いた。

 献身的に働く人間の医師や医療用コンピューターの診断結果はやはり腎臓病だった。今なら錠剤を2錠飲めば簡単に治る。しかしどん子は猫の看護師に錠剤ではなく注射器に薬剤入れて持ってくるように言った。できるだけ太い針の注射器を用意するように。もちろんどん兵衛には聞こえないようにそっと指示をした。

どん兵衛は診察室のベッドでおとなしく寝ていた。どん兵衛は病院など行ったことが無い。何が起こるのだろうと不安な気持ちで待っていた。やがて猫の看護師が大きな注射器を持って診察室に入ってきた。後からニヤニヤしながらどん子も入ってくる。どん兵衛は巨大な注射器とその先に付いている太い針を見てゾッとした。

 猫の看護師はどん兵衛にうつ伏せになるように指示した。どん兵衛はドキドキしながら指示に従った。

 どん子は「あんたと言う猫はどうしていつも後先をかんがえないの!」とどん兵衛に言うと片手をサッと上げた。それを見て猫の看護師はどん兵衛のお尻に注射器を刺した。どん兵衛の叫び声が病院中に響いた。

「グワッニャアアアアア!」

 どん兵衛の叫び声は、病院中に響き渡り、やがて不自然なほど静かな余韻を残して消えた。診察室のベッドでうつ伏せになったどん兵衛は、全身を震わせ、ピクリとも動かない。その目に宿るは、銀河を支配した征服者としての威厳ではなく、ただ純粋な恐怖と、言いようのない屈辱感だった。尻の痛みは、彼の誇りを根こそぎ奪い去った。

 猫の看護師は、何事もなかったかのように冷静な顔で注射器を片付けた。その後ろで、どん子はニヤニヤと口元を緩め、まるで獲物を追い詰めた肉食獣のような満足げな笑みを浮かべていた。

「ほら、言わんこっちゃないニャ。」どん子は、どん兵衛の傍らに歩み寄ると、鼻先で彼の耳を軽く叩いた。

「あんた、自分の体一つ満足に管理できないくせに、よくもまあ銀河を2/3を支配したなどと大きな口を叩けたものニャ。」

 どん兵衛は震えながらも、辛うじて顔をどん子の方に向けた。その目は恨めしそうにどん子を睨んでいたが、声はかすれていた。

「な…何をするニャ、貴様!よりにもよって、あんな凶器で…!」

 どん子は嘲笑を隠そうともせず、言葉を放った。「凶器?フン。それは十年前の常識ニャ。今の地球では、その程度の腎臓病など、錠剤二錠で簡単に治る。わざわざ痛い思いをする必要など、どこにもなかったのニャ。」

 どん兵衛の目が大きく見開かれた。信じられない、という表情だった。 「じょ…錠剤だと?ならば、なぜ…!」

「なぜって?」どん子は、どん兵衛の顔を覗き込むように、さらに一歩近づいた。「あんたと言う猫は、いつだって目先の大きなことばかりに囚われて、足元の、最も大切なことを見落としてばかりだったニャ。地球の猫と人類が、この十年でどれほどの恩恵を受け、どれほど進化を遂げたか、その身をもって味わう必要があったのニャ。」 彼女はさらに続けた。「病気も貧困も争いも無い、完璧な『猫ファースト』。それはあんたの残した『特別な野菜』だけでは成しえなかった。人間の献身的な奉仕と、絶え間ない努力があったからこそ、この黄金時代は築き上げられたのだニャ。そして、その恩恵をあんたも受けるべきだ。」

 どん兵衛は、その言葉に絶句した。自分の体調の悪さが、他の惑星では治せなかった「地球特有の病気」であり、その地球で、たかが腎臓病が錠剤二錠で治るほど医療が進歩していたこと。そして、その進歩の裏には、自分がかつて「下僕」と見下していた人間たちの献身があったという事実。何よりも、どん子がそれをあえて痛みを伴う形で知らしめたことに、彼のプライドは完全に打ち砕かれた。

 体内に注入された薬剤が、疲弊しきった彼の体に急速に作用していく。嘘のように体が軽くなり、喉の乾きも収まっていくのが分かる。しかし、心の奥底では、これまで感じたことのない、強烈な屈辱感と、同時に奇妙な安堵感が入り混じっていた。

「さあ、これで体は回復したニャ。」どん子は、満足げに尻尾をゆっくりと揺らした。「そろそろ銀河系支配の困り事とやらをもう一度、きちんと聞かせてもらうとするかニャ。ただし…。」

 どん子は、診察室の扉に向かって歩き出した。振り返りもせず、最後にどん兵衛に言い放った。

「その前に、あんたが銀河で得てきたらしい傲慢なプライドは、この桜井市立猫十字総合病院に置いていくことだニャ。そうでなければ、こちらの話も聞く気にはならないニャ。」


第4章 完璧な猫ファーストの地球

 どん兵衛は、ぼう然とベッドに横たわったまま、扉が閉まる音を聞いていた。銀河の2/3を支配したはずの自分が、たった一匹の猫に、しかも一本の注射で、ここまで打ちのめされるとは。彼の心には、黄金時代を迎えた地球の、想像をはるかに超える「底力」と、どん子の真の支配力が、骨身に染みるように刻み込まれたのだった。

 そして彼は悟った。この地球は、もはや自分が手出しできるような「ぬるい」場所ではない。そして、どん子という存在が、いかに自身の想像を超えた「怪物」であるかということを。

 どん兵衛は、深く、深く、息を吐いた。そして、諦めにも似た、しかしどこか晴れやかな表情で、ベッドからゆっくりと体を起こした。彼の銀河系の野望は、今、新たな局面を迎えることになる。

 どん兵衛は、じんじんと痛む尻を擦りながら、ベッドから這い上がると、18階にある病室の窓ににじり寄った。漆黒の闇と灰色の大地の月面基地の窓とは違い、そこには生命力に満ちた、十年前と変わらない桜井市の景色が広がっていた。

 眼下には、見渡す限りの緑の絨毯。桜井どん兵衛農園だ。どん兵衛が地球を去った後、かなり拡張されている。あの南海トラフ巨大地震の爪痕は、まるで嘘のように消え去っていた。遠くに見える金剛山と三輪山は、噴火で形こそ変わってしまったが、アストロフ星人の高度なテクノロジーで抑え込まれ、今は静かな死火山となっている。幹線道路には夥しい数の車が行き交っていたが、奇妙なことに排気音は全く聞こえない。それどころか、窓から流れ込む風は澄み切っていて、匂い立つような土と植物の香りが混じり合い、深く吸い込めば体の内側から力が湧いてくるような、格別の「美味さ」を感じた。ニャンタッキー12号で着陸前に地球の周回軌道を回っていた時、どこにも公害の痕跡が見当たらず驚いたが、今や地球全体が同じ様な奇跡的な環境を手に入れているのだろう。

 農園の中央では、風を受けて薄緑色の旗がはためいている。そこには、がま口のイラストが描かれている。

 その旗の下では、多くの人間たちが献身的に農作業に勤しんでいた。顔には汗をかきながらも、皆、満ち足りた、どこか恍惚とした表情を浮かべている。かつて自分が夢見た、完璧な「猫への奉仕」の光景がそこにあった。

 しかし、その光景を見て、ふと疑問が湧いた。 どこにも、どん子が住んでいるはずの豪華な宮殿が見当たらない。それどころか、自分が猫ファーストの礎を築いた伝説の猫であるにもかかわらず、自分の銅像も、偉業を称える記念碑のようなものも、一切見当たらないのだ。

 どん兵衛は、自分が猫や人間から崇拝され、崇め奉られるのは当然だと思っていた。自分の特別な野菜がなければ、この猫ファーストの世界は成し遂げられなかったのだから。

 だが、先ほどのどん子の言葉が、不意に脳裏をよぎった。 「病気も貧困も争いも無い、完璧な『猫ファースト』。それはあんたの残した『特別な野菜』だけでは成しえなかった。人間の献身的な奉仕と、絶え間ない努力があったからこそ、この黄金時代は築き上げられたのだニャ。そして、その恩恵をあんたも受けるべきだ。」

 あの言葉は、まさしくどん兵衛の精神の深いところに、チクチクと、しかし確実に刺さった。仕方がない。今は、この不愉快な現実に目を瞑り、まずはどん子に頼み事をしなければならない。

 どん兵衛は、痛む尻を擦りながら診察室を出て、受付のある一階へと向かった。そこはまさに猫たちの楽園だった。待合室には、病気の猫や怪我をしている猫たちが、人間に優しく看護されながら治療を待っていた。人間の医療スタッフは皆、猫に対して心からの愛情を注いでいるのが見て取れる。その光景は、どん兵衛が銀河で築き上げた「管理された猫ファースト」とは、どこか異なる、温かい雰囲気に満ちていた。

 沢山の猫や人間の間を、どん兵衛は歩いた。しかし、誰も彼が猫ファーストの礎を築いた伝説の猫だとは気づいていないようだった。がま口のイラストがプリントされた薄緑色のTシャツを着ているというのに、誰一人、彼に恐縮したり、握手を求めたりしてこない。そう言えば、先ほど恐ろしい凶器で注射をした猫の看護師も、どん兵衛には特別な反応を見せなかった。まるで、そこにいる一匹の老いたジンジャーキャットとして扱っているかのようだ。

 受付の窓口で、居眠りしている猫の職員に「どん子の宮殿はどこだニャ?」と尋ねたが、その猫は知らん顔をして、丸くなって寝ていた。すると、慌てて奥から人間の職員が飛び出してきて、深々と頭を下げた。「申し訳ございません、どん兵衛様!この猫は夜勤明けで…」彼はどん兵衛の事を知っているようだ。

「いや、構わないニャ。それよりも、どん子の宮殿はどこだニャ?」どん兵衛は再度尋ねた。 人間の職員は困惑した表情で「宮殿…ですか?申し訳ございません、そのようなものはございませんが…」と答えた。 どん兵衛は苛立ちを覚えた。

「では、どん兵衛記念館や、どん兵衛の銅像はどこだニャ?」

 人間の職員はますます困惑した表情で、「そのようなものは…ございませんが、桜井どん兵衛農園はすぐそちらに…」と言いかけた。

 今度はどん兵衛の方が困惑した。地球の支配者であるどん子が、宮殿も持たず、自分の功績を称えるものが何もないだと?絶対的な崇敬の象徴ならば、さぞかし立派な宮殿に住んでいるはずだ。それが「普通」だろうと、どん兵衛は思った。

「では、どん子は一体どこに居るニャ?」 人間の職員は、非常に恐縮した様子で、しかし迷いなく答えた。「どん子様は、慈恩寺にいらっしゃいます」

 慈恩寺? どん兵衛はハッと息を呑んだ。慈恩寺はここから近い。あの辺りは、古い家と寺ばかりで、開発の手が入らない、昔ながらの日本の風景が残る場所だ。そんな場所に、あのどん子が住んでいるだと?

 まさか。 どん兵衛の頭の中で、一つの仮説が形になりかけていた。アストロフ星人が、なぜ自分には冷淡で、どん子とは良好な関係を築いているのか。未だ「宇宙芋」や「銀河キュウリ」の栽培に成功していないとは言え「至福のキャベツ」と「忠誠の人参」を作ったのは俺だ。それに敬意を払って欲しい。そして、なぜどん子は、これほど質素な場所にいるのか。

 彼は急いで病院を後にし、痛む尻も忘れ、慈恩寺へと向かった。そこには、彼の想像をはるかに超える、どん子の「真の支配」の秘密と、アストロフ星人の対応の裏側が隠されているに違いない。


第5章 メカ炬燵の誘惑

 慈恩寺の脇を流れる小川のせせらぎが心地よい。狭い路地裏、錆びかけたクーラーの室外機の上で、どん子は優雅に前足を上げ、毛づくろいをしていた。ここが彼女の、誰にも邪魔されないお気に入りの場所だ。人通りはほとんどなく、もちろん、厳重な護衛の猫や人間がつきまとうこともない。

(やれやれ、アイツも懲りないニャ。そろそろ来る頃だと思ったんだがニャ…)

 どん子は内心で呆れていた。先ほどの病院での一幕。銀河の2/3を支配したという猫が、たかが腎臓病で情けない叫び声を上げるとは。そして、薬の効いた後のあの衝撃と混乱。彼のプライドが粉々に砕け散ったのは見て取れた。きっと今は、この地球での自身の立ち位置や、自分の功績を過信していたことへの反省で、頭を抱えているに違いない。

 どん兵衛の緊急の頼み事を、どん子は頭の中で反芻する。野菜不足で惑星間戦争の危機。猫ファーストの世界では戦争は避けたい。もし争いが起きれば、この完璧な黄金時代が崩壊しかねない、と、あの征服者は真剣な面持ちで語っていた。他の惑星の猫たちの面倒まで見る義理はない。そう突き放したい気持ちがないわけではない。だが、地球の猫だけが猫ファーストの恩恵を享受し、他の惑星の猫たちを苦しみの淵に置いておくというのは、どん子自身の「猫哲学」から外れる行為だった。

(アストロフ星人に頼むと言っても、タダというわけにはいかないニャ。あの連中はどこまでもビジネスライクだ。きっと、どん兵衛が銀河を支配する前、最初に会った時も、対価は『特別な宇宙野菜』だけでは足りなかったのだろうニャ…)

 どん子は推測する。アストロフ星人は「犬派」だという。猫の気まぐれさや、本能的な魅力など、彼らの論理的思考には通じない。どん兵衛の「征服」という手段も、彼らの「秩序」と「効率」を重んじる思考とは相容れなかったのだろう。つまり、どん子の「究極のゴロゴロ」がなければ、彼らを動かすことはできない。

 どん子は、しばらくの間、どん兵衛が頭を下げて頼みに来るのを待っていた。しかし、いつまで経っても、あの傲慢なジンジャーキャットは姿を現さない。

(まさか、道にでも迷ったのかニャ?十年間も地球を離れていたら、この路地裏も分からなくなったのかニャ。) どん子は、そう考えるともはや待っていられなかったので迎えに行くことにした。

 室外機の上で大きく伸びをすると、しなやかにヒョイと飛び降りた。秋も深まり、肌寒さが増す午後。澄んだ空気の中を、どん子は静かに歩みを進めた。路地の角を曲がった、まさにその時。

 そこに、あった。

 まさしく、十年前の夏、どん兵衛が置いていった例のメカ炬燵だ。その奇妙な形をした機械は、今や太い鎖で厳重に囲われ、「立ち入り禁止」の看板が掲げられている。猫にとって究極の快適さをもたらすと同時に、あまりにも危険な中毒性を持ち、猫をダメにする、あの「完璧な罠」。

(まさかニャ…)

 どん子は、用心深く近づいた。炬燵布団がわずかに盛り上がっている。もしかすると、という嫌な予感がよぎった。どん子は、その炬燵布団をそっと、しかし素早くめくり、中を覗き込んだ。

 そこには、やはりいた。

 赤い照明がぼんやりと光る温かい空間の中、どん兵衛が仰向けになり、目を閉じ、口を半開きにして舌をダラリと下げている。その顔は、まさに極楽浄土を見たかのような、陶酔しきった表情だった。ゴロゴロと微かな喉鳴らしが聞こえる。

「ヤレヤレ…ほんとに懲りない猫ニャ。」

 どん子は呆れを通り越し、もはや感嘆すら覚えるほどだった。銀河の2/3を支配した覇者が、たかが炬燵一つでこの有様。呆れたどん子は、容赦なくどん兵衛の足をガシッと掴むと、そのまま渾身の力でメカ炬燵から引きずり出した。

 突然、現実世界に引き戻されたどん兵衛は、温かな陶酔から冷たい外気に触れ、しばらくの間、完全に啞然としていた。呆けたような目で空を仰ぎ、意味もなく瞬きを繰り返す。そして、ゆっくりと焦点を合わせた視界に、目の前に立つどん子の姿を捉えた瞬間。

「ど、ど、どん子!」

 驚愕のあまり、どん兵衛は一メートルほど飛び上がった。その猫らしい跳躍は、慈恩寺の静寂を破り、路地裏にこだました。痛みは忘却の彼方。ただ、屈辱と、そして信じられないような光景が、どん兵衛の心を支配していた。どん兵衛は、まるで高所から突き落とされたかのように息を呑み、頭上を通過したはずの銀河の星々が、彼の目の中でぐるぐると回る。寒気が全身を駆け巡り、ようやく冷静さが戻ってきたと思いきや、今度は尻に先ほどの注射の痛みがぶり返し、ジンジンと脈打つ。

「ど、どん子…なぜ、貴様がここにいるニャ!そして、この…この罠め!」

  彼はメカ炬燵を指差し、怒りと羞恥がない交ぜになった声で叫んだ。

 どん子は、涼しい顔で腕組みをしたまま、呆れたように首を傾げた。

「あんたがいつまで経っても来ないから、迎えに来てやったのニャ。まさか、銀河の2/3を支配した猫が、たかが炬燵一つで時間も忘れて堕落しているとはね。」

 彼女の言葉には、刺すような皮肉が込められていた。

「しかも、立ち入り禁止の看板まで読めないのかニャ?目も耄碌したのかニャ?それとも、もうそんな知恵も回らないほど、その『中毒性』とやらに侵されてしまったのかニャ。」

 どん兵衛はぐっと言葉に詰まった。言い返そうにも、体はまだメカ炬燵の心地よさと、注射のショックから完全に回復しておらず、何よりどん子の冷徹な視線と言葉に圧倒されていた。


第6章 砕け散るどん兵衛のプライドと頼み事

「それで?」どん子は一歩踏み出し、どん兵衛を見下ろした。「話は聞かせてもらうニャ。お前の口から、なぜアストロフ星人がお前の言う事を聞かないのか。その真の理由をニャ。」

 どん兵衛は、再び言葉に詰まった。顔を背け、何とか平静を装おうとするが、心臓はまだドクドクと不規則に脈打っていた。

「それは…些細な問題だニャ。ビジネス上の、ちょっとした誤解があっただけだニャ。」

  彼の声は、自信に満ちた普段の声とは違い、どこかかすれて、歯切れが悪かった。 どん子は、ため息をついた。

「フン。ビジネスライクなアストロフ星人が、お前のような『銀河の征服者』の申し出を、あっさり断るなど、よほど重大な『誤解』があったと見るべきニャ。銀河の残りの1/3を支配できないどころか、野菜を巡って惑星間戦争の危機だと?お前の目指す『猫ファースト』は、どこまでも武力と力による支配で、常に争いの種を内包しているニャ。」 彼女は視線をどん兵衛のTシャツのがま口のイラストに向け、冷ややかに続けた。「この地球の猫ファーストは違う。人間が自らの意志で猫に尽くす、真の『愛』に基づいている。だから、ここには争いも、不満も無い。あんたの目指すものは、所詮、力で押し付けた『偽りの平和』に過ぎないのニャ。」

 どん兵衛は顔を上げた。どん子の言葉は、容赦なく彼の誇りを抉り、さらに心の奥底に染み込んでいく。彼は潔く観念した。 「…分かったニャ。話すニャ。全て話すから、まずはその説教をやめるニャ!」

 どん兵衛は、まるで子供のようにぶっきらぼうに、アストロフ星人とのファーストコンタクト時の出来事を話し始めた。

「十年前…俺が桜井市で野菜を作っていた時だ。その時出会ったのがアストロフ星人だったニャ。奴らは非常に論理的で、こちらの言うことを理解するのも早かった。俺は奴らに、試作品として開発していた『宇宙芋』と『銀河キュウリ』を与えたニャ。奴らはその『美味さ』に、今まで見たことのない反応を見せた。まさに陶酔していたニャ。」

 どん兵衛は、当時を思い出すかのように、少し得意げに語った。しかし、その表情はすぐに曇った。

「奴らはもっと欲しいと懇願した。俺は、それを対価に『反重力エンジン』の設計図をせしめた。あれは、後の銀河征服に欠かせない技術だった。だが…問題があったニャ。」

 彼の声は、だんだんと小さくなっていった。 「『宇宙芋』と『銀河キュウリ』は、試作品だったため、栽培には非常に特殊な環境と材料が必要だったニャ。大和川の澄んだ水、そして奈良公園の鹿の糞を原料にした特別な肥料…。そして何より、複雑極まる栽培方法を記したメモが必要だったニャ。」

 どん子はじっとどん兵衛を見つめた。嫌な予感がした。 どん兵衛は顔を覆い、呻くように言った。

「それが…あのメモ、飼っていたヤギに食べられてしまったのだニャ…!」

  彼は顔を上げ、どん子を恨めしそうに見た。

「あろうことか、ヤギが!全て!あまりにも複雑な栽培方法だったから、俺も完璧には覚えていなかったニャ。だから、その後同じモノを作ることはできなかった。アストロフ星人に渡したのが、最後の在庫だったのだニャ…。」

 どん子は、一瞬、呆れて言葉を失った。銀河を股にかける征服者が、たった一匹のヤギによって、ここまで追い詰められていたとは。しかも、最も重要な対価の供給を断絶し、アストロフ星人の信頼を完全に失っていたとは。

「しかもだニャ。」どん兵衛はさらに続けた。「奴らは、徹底した『犬派』なのだニャ。猫の魅力を理解しようともしない。俺の交渉術や、俺が征服してきた惑星での『猫ファースト』の成功例を提示しても、全て『非効率』の一言で切り捨てた。だから、お前の『究極のゴロゴロ』でなければ、奴らは決して動かないのだニャ…。」

 どん兵衛は、疲弊しきった目でどん子を見つめた。彼のプライドは、ヤギと、そしてアストロフ星人の犬派という文化によって、完全に打ち砕かれていた。

 どん子は、静かに息を吐いた。

「そうかニャ。分かったニャ。」 彼女は小さく頷いた。「やはり、あんたはどこまでいっても、後先をかんがえない愚かな猫ニャ。ヤギにメモを食われるとは、聞いたこともない大失態ニャ。」

 どん子の口元に、再び微かな笑みが浮かんだ。それは、嘲笑なのか、それとも、どこか呆れた愛情なのか。

「よかろう。話を聞いてやっても良いニャ。アストロフ星人との交渉も、私が直接乗り出してやろう。」

 どん兵衛の目に、希望の光が宿った。

「ただし。」どん子は、静かに、しかし断固とした口調で続けた。

「条件があるニャ。この地球の猫ファーストがそうであるように、あんたが銀河で築こうとしている『猫ファースト』も、力や薬による強制ではなく、真の愛情と共存に基づくものに改めること。そして、そのために、私が指定する**『特別トレーナー』**を、あんたの支配する各惑星に派遣することを許可することニャ。」

 どん兵衛は、その言葉に再び絶句した。それは、彼の「管理と支配」の哲学の根幹を揺るがす要求だった。しかし、目の前の絶望的な野菜不足と惑星間戦争の危機を思えば、他に選択肢はなかった。

「分かったニャ…」どん兵衛は、まるで魂が抜けたように、力なく頷いた。

 どん子の瞳が、不敵に光った。銀河の2/3を支配したどん兵衛は、この瞬間、どん子の掌の上で踊らされることになったのだ。そして、どん子の「真の猫ファースト」は、地球から銀河へと、その勢力を拡大することになるだろう。

 どん兵衛は、路地裏のコンクリートの上で、わんわんと声を上げて泣いた。銀河を支配したはずの猫が、悔し涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにする姿は、あまりにも情けなく、あまりにも滑稽だった。

「ひどいニャ…あんまりだニャ…!俺は、俺は宇宙の帝王だニャ!」

 どん子の前で、彼は子供のように駄々をこねた。注射器という名の凶器に尻を刺され、10年前に回収を忘れた自分の作ったメカ炬燵の罠にハマり、そして何より、野良猫のどん子に、自分の哲学の根幹を否定された。

「真の愛情と共存に基づく猫ファーストだと?なんだそれは?特別トレーナーを俺の支配する惑星に派遣などしたら、俺の立場はどうなるニャ!俺の権威は…!」

 どん兵衛は、泣きながらも必死に抗議した。しかし、彼の言葉は、どん子の冷徹な視線によって、かき消されていく。

 特別トレーナーとは何かはどん兵衛はまだわからなかった。だが惑星間戦争の危機を思えば、他に選択肢はない。どん子の条件を飲むしかなかった。ただ、何となくどん子の言葉に違和感を感じた。彼女の言う「真の愛情」という言葉の裏に、何か別の、もっと深い意図が隠されているような気がした。気のせいかもしれないが…。

「で、何から始めたら良いニャ…?」どん兵衛は、悔し涙と鼻水で顔をグシャグシャにしたまま、どん子に尋ねた。

 どん子は、そんなどん兵衛を静かに見つめていた。彼の泣き顔を、まるで生態観察でもしているかのように、じっと見つめていた。やがて、彼女は小さくため息をつくと、ゆっくりと口を開いた。

「まずは、お前のその汚い顔を洗ってくるニャ。」

 どん兵衛は、その言葉に再び絶句した。

「それからだニャ。」どん子は、小川に顔を向け、澄んだ水面をじっと見つめた。「アストロフ星人との交渉は、私が直接乗り出す。だが、その前に、お前にはやるべきことがあるニャ。」

 どん子の瞳が、不敵に光った。

「お前は、この地球で『特別トレーナー』を育てるための見習いとして、私の『真の猫ファースト』を学ぶのだニャ。そして、その第一歩として、お前が銀河で築き上げた『偽りの猫ファースト』の全てを、一度、白紙に戻すこと。それが、私の条件だニャ。」

 どん兵衛は、その言葉に耳を疑った。自分の築き上げた銀河帝国の全てを、白紙に戻せだと?それは、彼のプライドを完全に破壊する要求だった。

「な…何を言っているニャ!そんなことをしたら、銀河は再び混沌に陥るニャ!」

「フン。混沌に陥るような支配など、最初から偽りだったということニャ。」どん子は、冷ややかに言い放った。

「お前が築き上げたものは、所詮、野菜という薬物で人間を操った、脆い砂上の楼閣に過ぎない。真の猫ファーストは、そんなものではないニャ。」

 どん子は、どん兵衛に背を向け、慈恩寺の門へと歩き出した。

「いいか、どん兵衛。特別トレーナーは、人間だニャ。彼らは、私の『究極のゴロゴロ』によって、猫への奉仕の喜びを心から理解した、選ばれし者たちだ。彼らが、お前の支配する惑星に派遣されれば、お前が築いた『偽りの平和』は、真の『愛』によって、塗り替えられるだろうニャ。」

 どん兵衛は、その言葉に、再び強烈な違和感を覚えた。人間が、猫を訓練する?いや、違う。人間が、猫ファーストを広める?いや、それも違う。どん子の言葉は、どこか、もっと深い、恐ろしい真実を隠しているような気がした。

 どん子の言う「特別トレーナー」とは、一体何者なのか。そして、彼女の言う「真の猫ファースト」とは、本当に「愛」に基づいたものなのだろうか。

 どん兵衛は、小川の水面に映る自分の情けない顔を見つめながら、これから始まる、どん子との新たな戦いに、身震いした。

 その夜、ニャンタッキー12号の船内で、どん兵衛は毛布を被りながら震えていた。まだジンジンと疼くお尻を擦りながら、地球に帰ってきてからの散々な一日を思い返していた。

(散々だニャ…!俺は銀河系の支配者だぞ!宇宙の帝王だぞ!絶対的な存在であるはずなのに、なぜこの地球ではこうも…!)

 注射器という名の凶器に尻を刺され、10年前に回収を忘れた自分で作ったメカ炬燵の罠にハマり、そして何より、野良猫のどん子に「愚かな猫」と罵られた。そして極めつけは、「特別トレーナーの見習い」という屈辱的な命令。

(特別トレーナーの見習いだと?そもそも特別トレーナーとは何だ?真の愛情と共存に基づく猫ファーストだと?どこの国の言葉だ!?)

 不平不満が喉元までせり上がるが、あのどん子の冷徹な視線を思い出すと、声には出せない。悔しさと、言いようのない無力感で、再びポロポロと涙が溢れ出した。毛布の中で身体を震わせて泣いたが、疲労困憊していたのだろう、すぐに意識は深い眠りへと落ちていった。


第7章 特別トレーナーと屈辱の猫モデル

 翌朝、夜明けと共にどん兵衛は目を覚ました。相変わらずお尻は痛むが、体調はすこぶる良い。体が軽い。これが地球の猫ファーストの恩恵かと思うと、さらに悔しさが込み上げた。都合の悪いことはすぐに忘れるのが自分の特技だったはずだが、どん子の言葉は一つ一つ鮮明に覚えていて、頭の中をグルグルと回っていた。

 ニャンタッキー12号のハッチを開けると、冷たい朝の空気が体にしみる。どん兵衛が地球の大地に降り立つと、そこにはすでにどん子が、数匹の猫と、そして意外にも数人の人間を引き連れて待っていた。人間たちは皆、清潔な白衣をまとい、その表情には、猫への深い愛情と献身が溢れていた。

「おはようニャ、どん兵衛。よく眠れたかニャ?」どん子は、涼しい顔でどん兵衛を見上げた。その声には、昨夜の悔し泣きを知っているかのような、微かな嘲笑が混じっていた。

 どん兵衛は、何とか平静を装った。

「フン。おかげさまでニャ。それで、早速今日の『特別トレーナー見習い』とやらを始めるのかニャ?何をすればいいのだニャ。」 彼は、昨夜の屈辱を早く忘れようと、わざとぶっきらぼうに尋ねた。

 どん子は小さく頷いた。

「うむ。まずは彼らを紹介しよう。」彼女は白衣の人間たちを前足で示した。

「彼らが、私の『特別トレーナー』だニャ。彼らは皆、桜井市立猫十字総合病院の看護師や、桜井どん兵衛農園で働く人間の中から、私の『究極のゴロゴロ』によって選び抜かれた、猫への奉仕の道を極めた者たちだニャ。」

 どん兵衛は驚愕した。特別トレーナーが、人間だと? 「人間だと!?馬鹿なニャ!人間がどうやって猫を『訓練』するのだニャ!」

 どん子は嘲笑した。「フン。それはお前のような、力で支配することしか知らない未熟な猫の考えニャ。彼らは、猫を『訓練』するのではない。彼らが教えるのは、**『猫から学ぶこと』、そして『猫に真の奉仕をすることの喜び』**だニャ。それが、私の『真の猫ファースト』だ。」

 どん子は、白衣の人間のうちの一人を指差した。「例えば、彼はかつてお前が作った『特別な野菜』の中毒性に侵された人間だったが、今は猫への献身によって真の幸福を見出している。彼は、他の惑星の人間たちに、いかに猫に尽くすことが素晴らしいかを、その身をもって示すだろうニャ。」

 どん兵衛は理解できなかった。人間が人間を教え、それが猫のためになる?彼の「野菜で支配する」というシンプルなロジックとはかけ離れていた。

「そして、お前の最初の任務だがニャ。」どん子は、どん兵衛の目をまっすぐに見た。「お前は今日から、この『特別トレーナー』たちの**『猫モデル』**を務めるのだニャ。」

 どん兵衛の耳がピクリと動いた。猫モデル?

「彼らは、他の惑星へ派遣される前に、様々な猫の生態や反応について、より深く学ぶ必要がある。彼らは、猫の仕草の一つ一つを観察し、猫の鳴き声の意味を理解し、そして、猫が最も心地よく感じる『完璧なブラッシング』や『究極の抱っこ』の技術を習得するのだニャ。ちなみに特別トレーナー候補者は全部で50人だニャ」

 どん兵衛は顔を青ざめさせた。この銀河の支配者が、人間どものブラッシングや抱っこの練習台になれというのか!?しかも50人だと!

「さあ、まずはこの病院の特別観察室に行くニャ。」どん子は、どん兵衛の背中を、有無を言わせぬ圧力で促した。

「そこで、あんたは『特別トレーナー』たちが描く『猫観察日誌』のモデルになるのだニャ。良いか、一切抵抗は許さないニャ。」

 どん兵衛は、再び悔し涙を滲ませた。だが、拒否権がないことを悟り、重い足取りで特別観察室へと向かった。銀河の帝王の、屈辱的な『猫モデル』生活が始まった。


第8章 アストロフ星人との交渉準備

 どん兵衛が地球で屈辱にまみれている頃、桜井市立宇宙センターでどん子は、既にアストロフ星人との交渉の準備を進めていた。

「どうだニャ、ルーナ。彼らとの通信は?」どん子は、桜井市立宇宙センターの管制室で、宇宙通信担当のルーナに尋ねた。

「はい、どん子様!10日後、月面軌道上の旗艦にて、どん子様との直接交渉に応じるとのことニャ!ただし、いつもの『どんチャリ』のメンテナンスとは別枠で、特別な時間を用意するとのことニャ。ただしそれ相応の対価を用意するようにと付け加えてますニャ」ルーナは手に持ったデータタブレットを見て興奮気味に報告した。

 どん子は満足げに頷いた。(さすがはアストロフ星人。ビジネスライクな奴らだニャ。)

 彼女は、大型ディスプレイに映し出された銀河系の地図を眺めた。どん兵衛が征服した2/3の領域は、まだら模様のように野菜不足の惑星が点在し、それがかえって混沌を引き起こしているのが見て取れた。

(奴らがどん兵衛の言う事を聞かないのは、当然の理屈ニャ。)

 どん子は、アストロフ星人の論理を冷静に分析していた。彼らは「犬派」であり、猫の気まぐれさや不確実性を嫌う。加えて、どん兵衛が過去に「宇宙芋」と「銀河キュウリ」という貴重な資源の供給を、ヤギにメモを食われたという個人的な理由で一方的に断絶したこと。これは、彼らの最も重視する「契約」と「安定した供給」を破った行為であり、どん兵衛を「信頼できない取引相手」と見なす決定的な理由になっていた。

 どん子は、アストロフ星人が最も価値を置くものを知っていた。それは「論理」であり、「安定」であり、「効率」であり、そして彼らの「知的好奇心」を満たす「データ」だ。

 彼女は、ルーナに指示を出した。「交渉には、私と、厳選された数名の『特別トレーナー』(人間)を連れて行くニャ。そして、アストロフ星人に対し、私たちが持ち込むのは、単なる『美味しい野菜』の約束だけではない、と伝えるのだニャ。」

 ルーナは首を傾げた。「では、何を…?」

 どん子の瞳が、再び深く光った。 「私たちが提供するのは、**『銀河を永続的に安定させる、感情を伴う高度な社会管理システム』**だニャ。その実証として、この地球の『真の猫ファースト』のデータと、それを体現する人間たちの『奉仕の喜び』を見せるのだニャ。」

「そして、交渉の最後には、私の『究極のゴロゴロ』を、彼らの論理回路の奥深くまで直接響かせてやるニャ。」

 どん子の口元に、微かな笑みが浮かんだ。「『犬派』の彼らが、どれだけ論理的であろうと、生命の根源に訴えかけるこの響きには、逆らえないだろうニャ。」

 どん子は知っていた。アストロフ星人は、単なる野菜の供給元を求めているのではない。彼らが本当に興味を持っているのは、地球の猫と人類が築き上げた、この奇妙で、しかし完璧に安定した「共存」のシステムそのものなのだ。それが、彼らにとって、銀河系の安定化に貢献し、かつ新たな科学的探求の対象となる「対価」なのだと。

 どん子の、銀河を巻き込む新たな戦略が、今、静かに幕を開けた。


第9章 猫モデル「どん兵衛」の受難

 どん兵衛の「特別トレーナー」としての見習い生活は、想像を絶する屈辱の連続だった。

 彼の最初の任務は、桜井市立猫十字総合病院の「特別観察室」で、文字通り「猫モデル」を務めることだった。そこでは、どん子が選び抜いた、猫への奉仕の道を極めた人間たちが、彼の完璧な猫としての動き、表情、鳴き声を観察し、日誌に書き留めていく。

「さあ、どん兵衛様、次は完璧な猫の伸びです!」 「どん兵衛様、こちらのブランケットの方が、肌触りはいかがですか?」 「どん兵衛様、喉を鳴らしてください!感情のこもったゴロゴロを!」

 どん兵衛は、毛繕いから食事、昼寝、そして果てはトイレの様子まで、逐一観察され、記録された。

 特に彼を辟易させたのは、「完璧なブラッシング」と「究極の抱っこ」の練習台にされることだった。特別トレーナーたちは、猫の神経が集中するポイントを指で探り、彼が最も心地よく感じる撫で方を試行錯誤する。どん兵衛は、内心で舌打ちをしながらも、渋々、指示に従った。

 銀河の2/3を支配したこの俺が、人間どものブラッシングの練習台にされるなど、あってはならない屈辱だ。惑星間戦争が起こりそうなのにこんな悠長な事をしていていいのだろうか。

 だが、数日も経つと、どん兵衛の傲慢な頭脳が、この状況を逆手に取る方法を考え始めた。 (フン。どうせやるなら、最高に心地よくやってやるニャ。そして、その過程で、この人間どもを完全に俺の掌で踊らせてやるニャ!)

 ある日の午後。この日の「究極の抱っこ」のセッションが始まった。担当は、特に熱心な若手の女性トレーナーだった。彼女は目を輝かせ、「どん兵衛様、今日は最高の抱っこを見つけます!」と意気込んでいた。

 どん兵衛は、最初は不機嫌そうに体を強張らせていたが、徐々にその態度を変えた。彼は、トレーナーの腕の中で、あえて微妙な体勢の変化を見せた。もう少し左、もう少し右、もう少し下。まるで無意識の動きを装いながら、人間が彼の最も心地よいポジションを「発見」できるように、計算し尽くされた微細な動きで誘導する。

 そして、トレーナーの腕が、彼の腹の一点、最も敏感で心地よい場所を撫でた、まさにその瞬間。 どん兵衛は、まるで雷に打たれたかのように、全身の毛を逆立て、大きく息を吸い込んだ。そして、彼の喉から、宇宙の法則をねじ曲げるかのような、**荘厳かつ恍惚的な「ゴロゴロ」**が響き渡った。それは、単なる喉鳴らしではない。彼の全身の細胞が、無限の喜びに打ち震えているかのような、そして周囲の空間そのものを甘美な陶酔で満たす、まさに「宇宙最強のゴロゴロ」だった。

 若手トレーナーは、そのゴロゴロを聞いた途端、顔面蒼白になった。そして次の瞬間、まるで天啓を受けたかのように、感極まった表情で涙を流し始めた。

「あ、ああ…どん兵衛様…これです!このゴロゴロです!宇宙の究極の幸福が、今、私の腕の中に…!」 彼女は恍惚とした表情でどん兵衛を抱きしめ、彼の頭を優しく撫で続けた。どん兵衛は、その腕の中で、まるで自分が宇宙の中心であるかのように満足げに目を閉じ、静かに「ゴロゴロ」を鳴らし続けた。トレーナーは、このゴロゴロを「猫の究極の幸福状態を示す指標」として、熱心に日誌に書き留めた。

(フン…これだニャ。こうやって、人間どもを操るのだニャ。)

 どん兵衛は心の中で嘲笑していた。この人間は、自分が「発見」したと思っているが、全てはどん兵衛の掌の上だ。彼は人間を巧みに誘導し、自分にとって最高の快楽を引き出す術を、この「屈辱的な」見習い期間で会得しつつあった。彼のゴロゴロは、単なる心地よさの表現ではない。それは、人間を陶酔させ、猫への奉仕を永遠に誓わせるための、新たな「武器」として磨かれ始めていた。

 この一件以来、特別トレーナーたちはどん兵衛を「究極のモデル」として崇め奉り、彼が「最もゴロゴロを鳴らす猫モデル」として、その観察室の壁には彼の巨大な肖像画が飾られた。どん兵衛は内心ではまだ「くだらない」と思っていたが、同時に「俺の才能は、こんなことにも応用できるのか」と、新たな可能性に気づき始めていた。

 そして、日々の「猫モデル」生活の中で、どん兵衛は別のことにも気づき始めた。 どん子の「真の猫ファースト」は、確かに人間たちの心からの奉仕を生み出していた。しかし、その奉仕は、個々の人間と猫の間の、**極めて個人的で、労力を要する「密な関係」**の上に成り立っている。つまり、その「愛」は、一対一、あるいは小さなグループでの運用には最適だが、銀河系の数十億もの惑星にいる知的生命体すべてに、この「手作業」で広めるには、あまりにも非効率で、途方もない時間と労力、そして莫大な数の「特別トレーナー」が必要になる、ということに。

(フン。どん子め。お前の『真の猫ファースト』は、確かに根源的で強固な支配だが、拡張性がないニャ。俺の野菜による『強制的な幸福』の方が、スケールにおいては圧倒的に効率的だ。やはり、俺のやり方こそが、銀河全体を支配する唯一の道なのだニャ…!)

 どん兵衛の目は、再び野望の光を宿し始めていた。どん子に屈辱を与えられ、一時的に心が折れかけたが、彼の天性の征服者の才覚は、この「見習い」の日々の中で、新たな戦略を見出しつつあったのだ。


第10章 アストロフ星人との交渉に臨むどん子

 どん兵衛が地球で奮闘している頃、どん子は、ルーナと数名の「特別トレーナー」(人間)を伴い、「どらねこ10号」で月面軌道上に浮かぶアストロフ星人の巨大な旗艦へと向かっていた。旗艦の内部は、気温は高く無機質で清潔感に満ち、直線的なデザインが支配していた。感情を表さないアストロフ星人の3人の代表が、どん子たちを迎え入れた。彼らのデジタル表示の目は、まるでデータ解析を行うかのように光っていた。

「ようこそ、地球のどん子殿。そして、貴殿の配下の者たちよ。我々は、貴殿の提案する『特別交渉』に、興味を抱いている。だが、明確な対価と論理的根拠を提示せよ。」アストロフ星人の代表は、無感情な合成音声で告げた。

 どん子は、落ち着いた態度で、冷ややかな視線を彼らに向けた。 「交渉の前に、貴殿らに見せたいものがあるニャ。」手に持っている袋から干し椎茸のような野菜を3つ出した。アストロフ星人たちはデジタル表示の目が激しく点滅させた。「おぉ!サルスベラーズ!地球ではこれを大量栽培できたのか」

「まだ栽培は研究中で今日は試作品を持ってきたニャ」3人のアストロフ星人はサルスベラーズと呼ばれる干し椎茸を受け取るとなぜか隠れるように貪った。デジタル表示の目がぼんやりと光を放った。

「次に最も重要なものをみせたいニャ」

 彼女は、連れてきた「特別トレーナー」の一人、先ほどの若手女性トレーナーを前に出した。彼女の目は、猫への奉仕の喜びに満ちていた。 「彼は、かつて私の旧知の猫の『特別な野菜』によって、一時的に操られた経験を持つ人間だニャ。だが、今は私の『究極のゴロゴロ』によって、自らの意志で猫に尽くす真の喜びを知っている。その奉仕の心は、何よりも揺るぎないものだニャ。」

 どん子は、静かに、しかし宇宙の森羅万象を支配するような、**深く、温かく、そして抗いがたい「究極のゴロゴロ」**を鳴らし始めた。その音は、無機質な宇宙船の船内に響き渡り、アストロフ星人の代表たちの体内に、直接、浸透していくかのようだった。

 論理的で感情を表さないはずのアストロフ星人たちのデジタル表示の目が、一瞬、揺らめいた。彼らの滑らかな皮膚の下で、わずかに震えのようなものが走る。彼らは「犬派」であり、猫の曖昧な魅力には動じないはずだった。だが、どん子のゴロゴロは、彼らの論理回路や、いかなる文化的嗜好をも超越する、生命の根源に訴えかける「音」だった。彼らの体は、彼らの論理が理解できない形で、そのゴロゴロの心地よさに抗えない反応を示し始めていた。

 どん子は、ゴロゴロを鳴らし続けながら、アストロフ星人に直接語りかけた。 「我々が提供するのは、一時的な野菜の供給ではないニャ。お前たちがかつて、あの愚かなジンジャーキャットから得られなかったものだニャ。」

 彼女は、女性トレーナーの人間を指差した。女性トレーナーは、どん子のゴロゴロに完全に陶酔し、至福の表情で彼女を見つめていた。 「これは、**『持続可能で、自己増殖する、感情を伴う労働力と社会システムの生成メカニズム』**だニャ。惑星の環境に依存することなく、いかなる知的生命体も、猫への奉仕を至上の喜びとすることで、争いのない安定した社会を築き、自ら積極的に生産活動を行うようになる。これは、お前たちが追い求める『秩序』と『効率』、そして『安定』を、無限に供給できるシステムだニャ。」

 どん子の言葉と、その圧倒的なゴロゴロの力が、アストロフ星人たちの論理回路に、これまで想像もしなかった「データ」として入力されていく。彼らの冷徹な目が、まるで計算を終えたかのように輝き、代表は静かに言った。

「…提案を、聞こう。」

 どん子は、そこでようやくゴロゴロを止めた。彼女の顔には、すべてが計画通りに進んでいることを示す、満足げな笑みが浮かんでいた。どん兵衛の「ヤギにメモを食われた」という個人的な失敗を、どん子は自らの「究極のゴロゴロ」と、真の猫ファーストという概念で、遥かに大きなビジネスチャンスへと転換させようとしていたのだ。

 アストロフ星人の旗艦内は、どん子の静謐な威厳と、アストロフ星人たちの無機質な存在感とが拮抗し、張り詰めた空気が満ちていた。

 どん子は、月面どん兵衛農園の「至福のキャベツ」と「忠誠のニンジン」の生産量を4割増やすこと、そしてその対価は自身の「究極のゴロゴロ」であることのみを、簡潔に告げた。

 彼女は、新しい宇宙農園建造の話には、まだ触れなかった。ここで新しい宇宙農園を建造したらどん兵衛は自分の猫ファーストを進めてしまうだろう。どん兵衛の猫ファーストは危険だ。だからアストロフ星人には黙っていた。

 どん子の提案に対し、アストロフ星人の代表は無感情なまま、しかしそのデジタル表示の目を激しく点滅させ始めた。テレパシーに似た意思伝達システムで、彼らは内部で激しい論争を繰り広げているようだった。思考の粒子がぶつかり合うかのような、透明な摩擦音が、どん子の耳には聞こえないまま、しかし空間には確かに存在していた。彼らの流線型の体が微かに震え、その静的な姿勢が、内部での激しい情報のやり取りを物語っていた。

 沈黙と、無音の激論が数秒にもわたって続いた後、アストロフ星人の代表は再び口を開いた。その声は、相変わらず合成音声のように平坦だが、かすかに躊躇いの色が滲んでいた。

「月面どん兵衛農園の「至福のキャベツ」と「忠誠のニンジン」の増産は可能だ。4割程度ならなんとかなる。我々の解析によれば、貴殿らの提案する『社会管理システム』は、効率的かつ安定した労働力の供給を約束するだろう。しかし、対価が究極のゴロゴロだけとは…不十分である。」

 アストロフ星人が言い終わる、まさにその直前。

 どん子は、すっと顔を上げた。その瞳は、深淵を覗くかのように静かで、しかし宇宙の真理を宿しているかのように輝いていた。そして、彼女の喉から、ほんの短時間、しかし宇宙の摂理そのものを揺るがすかのような、**圧倒的な「究極のゴロゴロ」**が迸った。

 その音は、もはや音波の範疇を超えていた。それは、アストロフ星人たちの論理回路に直接介入し、彼らの存在の根源を揺さぶる、純粋な「生命の響き」だった。旗艦の内部空間が、一瞬にして甘美な陶酔に包まれる。アストロフ星人たちの滑らかな皮膚の下で、これまで見せたことのない激しい痙攣が走り、デジタル表示の目が、制御不能なほどに狂ったようにチカチカと不規則に、そして高速で点滅した。彼らの内部システムが、この予測不能な「力」に、瞬時に再調整を強いられているかのようだった。

 数秒。たった数秒の短い「ゴロゴロ」だった。しかし、それは永遠にも等しい効果をアストロフ星人に与えた。彼らの代表は、その短い「ゴロゴロ」が止むと同時に、深々と息を吐くかのように告げた。その声には、先ほどまでの論理的な反論の余地は微塵もなく、ただ、抗いがたい力に屈した者の、絶対的な受容だけが宿っていた

「分かった。では、「至福のキャベツ」と「忠誠のニンジン」の増産に加え、「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の輸出を希望する。これがこちらの条件だ。もちろんサルスベラーズの栽培の研究も続けて欲しい。貴殿らが提案する『社会管理システム』の効率性と、その希少な資源の供給能力を、我々は最も高く評価する。」

 どん子の口元に、微かな笑みが浮かんだ。彼女は、どん兵衛が「ヤギに食べられた」と嘆いた、あの幻の野菜を、この場で対価として提示されることを、最初から見越していたのだ。「宇宙芋」と「銀河キュウリ」ができなくともサルスベラーズがその代償として十分だ。

「次の定期輸送船が月面どん兵衛農園に来るのは3ヶ月後だ。それまでに、必要な量の「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を用意しておいて欲しい。月面どん兵衛農園の増産は、それが完了してからだ。」

 アストロフ星人の代表は、無感情ながらも、どこか安堵したかのようにそう告げた。彼らは、どん子の「究極のゴロゴロ」という、理解不能ながらも極めて有効な「対価」を認め、さらに、彼らが最も渇望していた「希少な資源」の供給の確約も得られた。彼らのビジネスの論理は、この状況で最も合理的かつ安定的な結論へと導かれたのだ。


第11章 サルスベラーズの秘密

 どん兵衛はニャンタッキー12号のブリッジで、どん子とアストロフ星人の交渉のライブ中継を終始険しい顔で見ていた。どん子が月面どん兵衛農園の4割増産と、「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の輸出を要求した時、どん兵衛は唸った。「チッ、どん子め、なかなか抜け目がないな。」

 しかし、ロボットが円盤に運び入れる「ナナヒカリ米」の俵を見た瞬間、どん兵衛の耳がピクリと動いた。そして、モニターの隅でアストロフ星人たちが隠れて何か干し椎茸のようなものを囓っているのを見て、彼は確信した。

「ナナヒカリ米だと?あれは実験用水田の余剰分のはず。そして、あの干し椎茸は確かサルスベラーズとか言ってたな…。俺はあんな椎茸を作ったことはない。公式の対価ではないな。どん子め、何か裏をかいたか、あるいはアストロフ星人が俺に隠れて何か企んでいるか…。」

 どん兵衛は通信回線を開き、どん子がアストロフ星人たちと交渉をしている隣の部屋でデータ分析をしていたルーナに声をかけた。「ルーナ、どん子はまんまとアストロフ星人と組んだフリをしているが、どうにも腑に落ちない点がある。特にあのサルスベラーズとやらだ。アストロフ星人があんなものをこっそり食うからには、ただの干し椎茸ではないはずだ。」

 ルーナはデータタブレットを操りながら答えた。

 「どん兵衛様、私も同じことを考えていました。サルスベラーズはアストロフ星の希少な真菌類で、特定の精神活性効果を持つとされています。交渉の公式記録にはない隠れた取引があった可能性が高いです。どん子様は、月面どん兵衛農園の増産要求という表向きの取引で、どん兵衛様を油断させようとしているのでしょう。」

 どん兵衛はニヤリと笑った。

「なるほど、やはりな。では、ルーナ。奴らが月面農園の増産を要求しているのなら、徹底的に協力してやるフリをしよう。ただし、我々には我々のやり方がある。増産された サルスベラーズを分析し増産の方法を見つけるんだ。奴らに食い荒らさせる前に、我々が真の『対価』を確保するのだ。」

 ルーナは目を輝かせた。「承知いたしました、どん兵衛様。サルスベラーズの栽培に関する研究は行っていますが地球の知識だけではサンプルを作るだけで精一杯です。月面どん兵衛農園のコンピューターをフルに活用すれば量産は可能だと思われます。私ならアストロフ星人に、気づかれずに月面どん兵衛農園のコンピューターを使用できます。」

 どん兵衛は満足げに頷いた。

「よし、ルーナ。それでいこう。どん子めがいくら『真の猫ファースト』などと高尚なことを言ったところで、俺から奪ったものは決して手放す事になる。騙し合いの第二幕だ。」

 一方、月面基地でモニターを落としたどん子は、静かにくつろぎながら考えていた。

「ふふ、どん兵衛。私が増産を要求すれば、あなたは私が「宇宙芋」と「銀河キュウリ」に執着していると思うでしょうね。確かにそれも必要だが、真の狙いは別にあるニャ。アストロフ星人が密かに持ち込んだサルスベラーズ...あれは単なる椎茸ではないのだニャ。交渉の場で彼らの精神を揺さぶるために使った『究極のゴロゴロ』は、実はあれの波動を増幅させたもの。彼らはサルスベラーズが必要。しかし惑星アストロフではサルスベラーズは栽培できず全滅寸前。サルスベラーズこそ真の対価』なのだニャ。」

 どん子は、静かに頷いた。彼女の戦略は、完璧に機能した。これで、どん兵衛は月面どん兵衛農園の増産だけでなく、あの「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の再生産という、もう一つの絶望的な課題にも取り組まねばならない。だが、それが、銀河全体の野菜不足を解消し、ひいては猫ファーストの平和を確固たるものにする、次なるステップとなるだろう。

 どん子は、アストロフ星人の旗艦を後にした。月面を照らす地球の光が、彼女の冷静な横顔を静かに照らしていた。

「すべて順調ニャ」


第12章 騙し合いの始まり

 数日後、どん兵衛は、桜井市立宇宙空港から月へ向かうどらねこ32号の発進を、静かに見送っていた。人間のクルーの他に、ルーナも乗り込んでいる。表向きは月面どん兵衛農園の作業ロボットの定期整備だが本当は月面どん兵衛農園のコンピューターでサルスベラーズの分析と栽培方法をルーナに調べさせるのだ。

 ドラネコ32号は音もなく夜空へ上昇していく。機体を見つめるどん兵衛の背中に、突然声がかかった。

「「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の再現はできたのニャ?」

 振り返ると、そこにいたのはどん子だった。いつもの涼しい顔で、どん兵衛を見上げている。突然のことに、どん兵衛は少し驚いたが、すぐに平静を装った。

「あぁ、順調だニャ。もうすぐだニャ。」

 どん兵衛は、内心で舌打ちをした。ルーナがサルスベラーズの情報をどん子に漏らしたことはまだ知らないが、どん子が自分の動向を探っていることは、直感で理解していた。しかし「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の再現は、いまだ成功していない。こればっかりは月面どん兵衛農園のコンピューターでも作れない。どん兵衛は、どん子を欺くために、敢えて強気の返事をしたのだ。

 どん子は、どん兵衛の言葉に微かに目を細めた。「そうニャ。それは喜ばしいことニャ。アストロフ星人との交渉は、あなたの『特別な野菜』にかかっているからニャ。期待しているニャ。それと1ヶ月後に「銀河猫ファースト推進会議」をこの桜井市で開催するニャ。あんたの支配した481の惑星に招待状を出す予定ニャ。各惑星の猫担当大使が一斉に集まるニャ」

 そう言い残し、どん子は来た時と同じように、音もなく去っていった。

 どん兵衛は、どん子の後ろ姿を見つめながら、改めて気を引き締めた。 (フン、どん子め。俺の焦りを見抜こうとしているのかニャ。だが、そうはさせないニャ!必ずや「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を再現し、お前を出し抜いてやるニャ!しかし「銀河猫ファースト推進会議」とは何だ?俺を出し抜いてそんな会議をするのか?)

 彼の頭の中では、地球でのラボでの再現実験、そして月面どん兵衛農園でのサルスベラーズの調査、そしてルーナからの報告を待つ焦りが渦巻いていた。

 月へ向かうどらねこ32号の光が、やがて夜空に消えていく。その光を見つめながら、どん兵衛は銀河の覇権をかけた、次の一手を深く考え始めた。

 ニャンタッキー12号の秘密ラボで「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を再現しようと奮闘するどん兵衛。どん子がサルスベラーズを使えばどん兵衛の力による支配は不可能になる。

 銀河系の支配者は俺だ!どん子は真の猫ファーストとかほざいて何かつけて俺に説教した。心の何処かにどん子の考え方に共感する自分が居たがどん兵衛はそれを認めようとはしなかった。しかし野菜不足の解決策がなければ惑星間戦争になる。アストロフ星人の協力も当てにならない。何か良い策はないものかと考えあぐねていた。

 サルスベラーズの栽培方法はルーナに調べさせている。地球に普及しているどんチャリの数は特別な野菜だけでは対価としては多すぎる。もしかしたらサルスベラーズはアストロフ星では栽培できず月面どん兵衛農園を頼りにしているのかも知れない。どん子はそれを知っているのだろう。だからアストロフ星人はどん子との交渉に応じるのだろう。

 月面どん兵衛農園の生産量を4割アップだけでは特別な野菜の供給量はギリギリだ。ひとまず惑星間戦争は避けられるが銀河系の残り1/3を支配するには足りない。とにかく今はルーナの報告待ちだ。

 桜井市立猫十字総合病院の特別観察室で、どん兵衛は今日も「猫モデル」という屈辱を味わう毎日だった。トレーナー見習いの人間たちは、目を輝かせながら「どん兵衛様、モフモフさせてください!」「完璧な抱っこをお願いします!」「香箱座りをしてください!」などと、厚かましい要求を次々と突きつけてくる。

(やれやれ、めんどくさいニャ。まったく、この俺様が、こんな下働きどもに…)

 どん兵衛は内心で毒づきながらも、渋々、要求に応えた。そして、いわゆる「宇宙最強のゴロゴロ」を発すると、トレーナーたちは案の定、感激の涙を流し、それ以降の作業が手につかなくなる。彼らはどん兵衛を「奇跡の猫モデル」と崇め奉り、そのゴロゴロを「猫の究極の奉仕欲求を呼び覚ます音」として、熱心に記録していた。

「フン。」どん兵衛は、満足げに鼻を鳴らすと、ヒョイとベッドから降り、スタスタと特別観察室を出て、猫専用のエレベーターに乗った。

 しかし、エレベーターの中で、どん兵衛はふと考える。 (それにしても、この人間ども、猫の扱いがかなり腕を上げているニャ。特にあの若手の女性トレーナーめ。抱っこされると、思わず『宇宙最強のゴロゴロ』が出てしまうことがあるニャ。まぁ、それはそれで良いだろう。彼らが猫への奉仕の喜びを深く理解すればするほど、俺の銀河支配も盤石になるのだからニャ。)

 彼は、自分のゴロゴロが、もはや意識的な操作だけでなく、人間たちの巧みな「奉仕」によって、半ば無意識に引き出されていることに気づいていた。それは、彼の「操作」の技術が向上した証拠であると同時に、どん子の「真の猫ファースト」が、彼の最も深い猫としての本能にまで影響を与え始めていることの証でもあった。だが、どん兵衛はそれを認めようとはしなかった。

 やがてどらねこ32号が帰還した。ルーナはどん子に報告に向かった。タブレットを見ながら「サルスベラーズの分析は終わり栽培は可能ですニャ。」ルーナはそう報告した。

「銀河猫ファースト推進会議の時は481の惑星からそれぞれの宇宙船でまずは月に着陸しますニャ。月の方が駐機場は広いですからね。そこからシャトルに乗って会議場の桜井市立猫総合会場に来ますニャ。シャトルは300人乗りですから2回に分けて地球に送りますニャ。2回目は181名ですから119名部分の席が空きますニャ。そこにサルスベラーズを積めばどん兵衛様に気が付かれないように地球に持ち込めますニャ」

「そう、ご苦労様ニャ。サルスベラーズは遠隔操作で栽培できるの?アストロフ星人たちには気ずかれずに。もちろんどん兵衛にも」どん子はやや心配そうにルーナに聞いた。

「ハイ、大丈夫ですニャ。予備の3台の農業ロボットにサルスベラーズの栽培のデータをインプットしておきましたニャ。後は全自動で栽培を開始します。サルスベラーズは月面どん兵衛農園の地下室で栽培できます。よってアストロフ星人にもどん兵衛様にも気ずかれませんニャ」ルーナはデータタブレットを見ながら勝ち誇ったように言った。

 6年ほど前のある時、どん子は3ヶ月に一度、月面どん兵衛農園に野菜の引き取りに来る一部のアストロフ星人がサルスベラーズを食べている事に気がついた。サルスベラーズは彼らの母星では禁制品らしい。犬派のアストロフ星人にはサルスベラーズは精神を猫派にしてしまう恐ろしい麻薬なのだ。だから母星から遠く離れた月面どん兵衛農園に来た時に隠れるようにサルスベラーズを食べている。彼らの中にも少数の猫派がいるらしいがサルスベラーズを使った精神活性効果の体験は大多数の犬派で融通の効かないアストロフ星人を猫派にするには必ず必要だ。どん兵衛の野菜でも効果はあったが不十分だ。銀河系の猫ファーストを達成するにはアストロフ星人のテクノロジーが必要不可欠だ。それならアストロフ星人全員にサルスベラーズを食べさせ究極のゴロゴロで支配すれば良い。「銀河猫ファースト推進会議」に出席する為に481の惑星から来る代表者にもサルスベラーズを食べさせよう。野菜を使って支配するのはどん子の本意では無いが致し方ない。


第13章 「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の失敗

 ニャンタッキー12号の船内、秘密のラボ。 どん兵衛は、培養器の前に座り、顕微鏡を覗き込んでいた。フラスコの中では、緑色の液体が微かに泡立ち、「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の細胞が、ゆっくりと、増殖している。 ここまではいつも順調だった。しかしこの後に必ず細胞が死滅する。しかも「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の細胞はほぼ同時に死滅してしまう。どん兵衛はあらゆる手段で細胞の死滅を防ごうと努力した。日光の照射時間、温度、培養液の成長促進剤の配合、土壌の成分分析。しかし何をやっても細胞はある程度育った後に死滅する。

「畜生!なぜだ?なぜできない」どん兵衛は焦った。どん子の高笑いの顔が想像できる。

「いやいや、ヤギに食われたメモがなくても、俺の天才的な頭脳があれば、再現は可能だニャ!」 彼は、得意げに鼻を鳴らした。この数日間、特別観察室での屈辱的な「猫モデル」生活の合間を縫って、彼は寝る間も惜しんで研究に没頭していた。疲労はピークに達していたが、野望が彼を突き動かしていた。

 その時、ラボの扉が静かに開いた。振り返ると、ルーナがデータタブレットを片手に、ニヤニヤと笑いながら立っていた。 「おや、どん兵衛様。ご機嫌麗しいようで何よりニャ。「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の再生産は順調のようですか?」

 どん兵衛は眉をひそめた。「フン。お前には関係ないニャ。それより、どん子めは今頃、他の惑星の代表どもを地球に集める準備でもしているのだろう。そんな非効率なやり方で、銀河を支配できるとでも思っているのかニャ。」彼は、どん子の計画を嘲笑した。

 ルーナは、タブレットの画面をちらりと見ながら、さらに笑みを深めた。「ええ、もちろんニャ。どん子様は今、銀河系各惑星の代表たちを地球に招待するべく、その手配に大忙しです。そして、その招待状には、**『地球の猫ファーストがもたらす、真の幸福と、サルスベラーズがもたらす精神活性効果の体験』**と、書かれているそうですよ。」

 どん兵衛の動きが、ピタリと止まった。 「…サルスベラーズだと?」彼の声が、かすかに震えた。 ルーナは、無邪気な顔で首を傾げた。「ええ、サルスベラーズですニャ。アストロフ星人が密かに囓っていた、あの椎茸ですニャ。どん子様は、あれが『究極のゴロゴロ』を増幅させる鍵だと見抜いたようですニャ。そして、そのサルスベラーズを月面どん兵衛農園で極秘に栽培するよう、私に命じましたニャ。どん兵衛様には内緒にと。」

 どん兵衛の顔から、血の気が引いた。サルスベラーズ。アストロフ星人が公式の対価とは別に、こっそりと持ち帰っていたあの椎茸。それが、「究極のゴロゴロ」の増幅剤だと?そして、どん子がそれを月面で栽培させている?

(まさか…どん子め、俺がサルスベラーズのことに気づいていると知って、あえてルーナに情報を漏らさせたのか!?いや、ルーナめ、お前、俺に情報を流したことを、どん子に報告していないのか!?)

 どん兵衛の頭の中で、情報が錯綜し、新たな疑惑が渦巻いた。ルーナの表情は、どこまでも無垢な笑顔だ。しかし、その瞳の奥には、すべてを見透かしたような、あるいは、この状況を楽しんでいるかのような、底知れない光が宿っている。

「それとどん兵衛様。おもしろいものを持って帰ってきましたニャ」ルーナはそう言って小さな密封された袋をどん兵衛に差し出した。

「サルスベラーズの細胞ですニャ」

 どん兵衛は驚いた。(サルスベラーズの細胞だと?しかしなぜルーナはこれを俺に渡すんだ?これもどん子の作戦なのか?)

「フン…どん子め、恐ろしい女だニャ…!」

 どん兵衛は、悔しさと、そしてどん子の計り知れない深謀遠慮に、全身の毛を逆立てた。彼は、どん子が単に自分の野菜に執着していると思っていたが、どん子の狙いは、遥かに奥深く、そして狡猾だった。

 彼女は、サルスベラーズを使い、銀河の代表たちに「真の猫ファースト」を体験させることで、どん兵衛の「力による支配」を根底から覆そうとしているのだ。

「ルーナ!」どん兵衛は、培養器を叩き、怒鳴った。「今すぐ、月面どん兵衛農園のサルスベラーズの栽培状況を報告しろ!そして、どん子めが他の惑星の猫担当代表大使どもを地球に集める前に、我々が先手を打つ方法を考えるのだニャ!」

 ルーナは、満足げに微笑んだ。「承知いたしました、どん兵衛様。やはり、こうでなくては面白くありませんニャ。」

 どん兵衛は、再び「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の培養器を睨みつけた。彼の野望は、どん子の新たな戦略によって、さらに複雑で危険な局面へと突入した。これはもはや、単なる銀河征服ではない。猫と猫、そしてその背後に潜む人間と宇宙人の思惑が絡み合う、壮大な「情報の戦争」が始まったのだ。


第14章 どん兵衛の焦りと光明

 「銀河猫ファースト推進会議」の開催日は12月10日と決まった。その後すぐにアストロフ星人たちとの会合もある。後1ヶ月しかない。「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の種さえできれば後は「究極の野菜成長促進剤」で何とかなる。

 だがどん兵衛は焦った。「宇宙芋」と「銀河キュウリ」ができなければアストロフ星人の俺に対する信用は修復不可能になる。そして銀河系はどん子の思うような猫ファーストの世界になってしまう。それとルーナが月面どん兵衛農園から持ち帰ったサルスベラーズの分析もやらなければいけない。猫モデルの仕事もある。どん兵衛はこうなったらリスクはあるがルーナにサルスベラーズの分析をしてもらおう。そうすれば猫モデルをした後はニャンタッキー12号の秘密ラボで「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の研究に集中できる。

 しかしどん兵衛は焦りに焦った。どうしても「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の種ができない。途中まで順調に細胞が育っていくのに必ず死滅してしてまう。

 「どうしてだ?」どん兵衛はドンと机を叩いた。机の上の実験器具がガチャンと音を立てる。フラスコに入っている大和川の水と奈良公園の鹿の糞で作られた培養液が振動で濁った。その様子をどん兵衛は見ておかしな事に気が付いた。鹿の糞は大和川の水に綺麗に溶けるはずだ。沈殿するハズがない。シャーレ入れてある鹿の糞を削り分析器にかけた。

 すぐに答えが出た。

「なんてことだ!繊維質がまるで違う。米ぬかと小麦粉が検出されている。なぜだ?」

 どん兵衛はようやく気が付いた。10年前は鹿せんべいの材料には合成タンパク質繊維質を使用していた。今は環境問題も解決し昔ながらの米ぬかと小麦粉を材料にしているのだ。

 どん兵衛は慌てて人間の運転の車で奈良公園まで行き売店に駆け込んだ。

「おばちゃん!合成タンパク質繊維質で作られた鹿せんべいは今でも売っているかニャ!?」と店主の年配の女性に聞いた。

「は、はぁ今はどこの売店も今は米ぬかと小麦粉を使っています」と恐縮して答えた。

 どん兵衛はありったけの店を回った。そしてようやくただ一軒だけ合成タンパク質繊維質を使用した鹿せんべいを売っている店を見つけた。しかし困ったことにその店の鹿せんべいを食べた鹿がどこに居るのかは分からない。奈良公園は広い。仕方ないので落ちている鹿の糞を片っ端から集め瓶に詰めた。人間や猫の観光客がたくさんいる中でひたすら鹿の糞を集めている変な猫を怪訝そうに見ている。

「わぁ!あの猫、鹿の糞を集めて瓶に詰めてる」

「変なの~」

「目を合わせたらダメよ」

 好き勝手なことを言われたがそんな事はお構い無しに必死に鹿の糞を集める。ようやく大量の鹿の糞を瓶に詰めると持ち帰った。どん兵衛は急ぎ足でニャンタッキー12号に向かった。桜井市立猫十字総合病院のエレベータの前で偶然、どん子と出会った。手に持った大量の鹿の糞を見てどん子はドン引きした。

「お、おまえ、何を持ってるニャ?!」


第15章 桜井市立猫十字総合病院のラボの秘密

 どん兵衛はそれ以来ニャンタッキー12号の秘密ラボから出てこなくなった。どん子がいくら呼んでも返事もしない。もう秘密ラボは秘密でなくなった。トレーナーの猫モデルはルーナに代役を任せた。ルーナは喜んで代役を引き受けた。しかしどん兵衛がニャンタッキー12の秘密ラボで宇宙芋と銀河キュウリの研究をやっているという事は桜井市立猫十字総合病院のラボには誰が居るのだ?

 どん子は桜井市立猫十字総合病院のラボに向かった。ラボのドアを開けるとそこには誰も居なかった。ラボ内はキレイに片付けられ使った形跡はない。不思議に思いながらどん子がラボを出るとルーナを見つけた。トレーナーの猫モデルの仕事が終わったようだ。

「フンフン」と鼻を鳴らしてご機嫌に歩いているルーナにどん子はこのラボは誰が使っていたのかを聞いた。ルーナはデータタブレットを操作し誰も出入りはないと答えた。監視カメラにも何も写っていない。

 どん子は月面どん兵衛農園のサルスベラーズの状況について聞いた。サルスベラーズは全て収穫し今は干し椎茸状態にする為に乾燥作業に入っているとルーナは答えた。ロボットが作業を行なっているので誰にも分からない。10日後に猫ファースト推進会議に出席する宇宙人が月面基地に到着する。そしてシャトル「こもりく号」にナナヒカリ米の袋に封入した干しサルスベラーズを会議場の倉庫に搬入すると報告した。

 どん子は報告を聞いて少し安心した。計画は順調のようだ。しかし宇宙芋と銀河キュウリの生産が間に合わなければ計画は少し面倒くさいことになる。それも想定内だが…。

 どん子はどん兵衛が宇宙芋と銀河キュウリの再生産に失敗したので宇宙に逃亡するつもりかも知れないと思った。すぐにニャンタッキー12号が簡単に飛び立てないようにするようにルーナに命じた。ルーナはニャンタッキー12号の着陸脚と地面を鎖で繋いでおくと答えた。

 ルーナはどん子が去っていくのを確認するとラボに入って行きドアをロックした。データタブレットを操作するとラボの機器が一斉に作動を始めた。コンピュータのモニターには「サルスベラーズのエキス抽出と濃縮ガス化」と表示されている。

 それから3日経った。どん兵衛は相変わらずニャンタッキー12号のラボに籠もったままだ。ルーナの無線による呼びかけにも応えない。ルーナも焦ってきた。サルスベラーズの分析は終わった。一応、データはニャンタッキー12号のラボのコンピューターに送ったが肝心のどん兵衛からの返事が無かった。「銀河猫ファースト推進会議」まで後4日に迫った。


第16章 ルーナの呟き

 どん子はここ数日間、目も回るような忙しさだった。銀河系で初めての「銀河猫ファースト推進会議」がここ地球の桜井市で開催されるのだから念入りな前準備でてんてこ舞いだった。

 地球で宙人達を招いての会議は初めての試みだ。もちろんどん子にとっても初めてだ。すでに母星を出発している宇宙人もいる。初対面となる宇宙人達とは難しい外交交渉になるだろう。

 事前に各恒星系の宇宙人達の資料をどん兵衛に頼んでいたがどん兵衛は相変わらずニャンタッキー12号から出てこない。仕方がないのでアストロフ星人に地球産のメカ炬燵(性能は月面産よりかなり劣る)を10台で簡単な資料のデータをもらった。それをルーナに分析してもらうと各惑星と連絡を取り段取り等を説明した。

 ルーナは亜空間通信機の前で窓から桜井市立猫十字総合病院の屋上を見た。そこには着陸しているニャンタッキー12号が見える。さすがに「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の再生は無理だったのだろう。もし再生に成功しても後4日しかない。とても栽培には間に合わない。ルーナは「それでもかまわないニャ。困るのはどん子様とどん兵衛様ニャ…」と小さな声で呟いた。


第17章 完成した「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の種

 どん子は着陸脚を厳重に鎖で縛れたニャンタッキー12号の前に立っていた。朝日が眩しい。もしかするとどん兵衛はニャンタッキー12号を捨て逃走したのではないかと思った。

 その時、ニャンタッキー12号のハッチが開いた。中から出てきたのは薄汚れたどん兵衛だった。がま口のTシャツは薄緑色のはずだが薬品や培養液のシミだらけになりどす黒くなっていた。どん兵衛の黄金色の毛並みも汚れに汚れ何色の猫なのかわからない。

 手には小さな袋を持っている。どん兵衛はゆっくりとタラップを降りてきた。そしてどん子の前に立った。「できたニャ…」どん兵衛は手に持った袋をどん子に見せた。中には植物の種らしい物が入っている。どん子は啞然としてどん兵衛を見つめていた。そして猛烈な吐き気に襲われた。どん兵衛はとてつもない悪臭を発していたのだ。

 どん兵衛は奈良公園で採取した16,231個の鹿の糞を一つずつ丹念に調べた。そのうち4,821個の合成タンパク質の鹿せんべいを食べた鹿の糞を見つけた。培養液を作るには何とか足りる量だ。やっと宇宙芋と銀河キュウリの種が出来た。

 どん兵衛はフラフラと種の入った袋持って歩いた。

「どん兵衛様〰!」ルーナが叫びながら走ってきたがどん兵衛から3メートルまで近づくと鼻を押さえて悶絶した。「ウググ!ゲェ!」

 どん兵衛の身を案じて多くの人間や猫が集って来たがどん兵衛を中心に半径3メートル以内には近づく事は出来なかった。

 どん兵衛は桜井市立宇宙空港の脇にある畑に行くと土の状態を調べた。土を手に取り感触や匂いを嗅いだ。

「ふむ、悪くない。俺の家の畑と同じだニャ」畑を手で穴を掘ると袋から小さな種状のモノを撒いた。同じ作業を数回行うと今度は別の袋から液体の入ったボトルを取り出した。

「究極の野菜成長促進剤」だニャ。これで2日後には収穫できるくらいの宇宙芋と銀河キュウリができるだろう」どん兵衛はニヤリと笑ってどん子を見た。少し離れてどん兵衛の様子を見ていたどん子が言った。

「早く風呂に入れニャ!」


第18章 「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の消失

 月のない夜中、桜井どん兵衛農園に立つ黒い影があった。手に持っているデータータブレットの光が持ち主をぼんやりと照らしている。ルーナだ。彼女はタブレットを操作すると小さなロボットがたくさん足下を蠢いた。「さすがどん兵衛様の「究極の野菜成長促進剤」。種をまいてまだ2日なのにすでの芽が出てるニャ」

 ロボット達は芽の出かけた「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を掘り起こすと丁寧に特殊な袋に入れた。

「どん子様は「宇宙芋」と「銀河キュウリ」をすべて刈り取れとおっしゃたニャ。少し気が滅入るがどん子様の言いつけは守らないと。しかし目の間にお宝があるのにこのままどん子様に渡すのは余りにももったいない。これは私が利用させてもらうニャ」ルーナはロボット達をじっと見つめていた。


第19章 銀河猫ファースト推進会議

 どん子は会場の控室にいた。いよいよ今日は「銀河猫ファースト推進会議」の日だ。開催まで後10分ほどだ。会場には銀河系の481の知的生命体が揃った。特別トレーナーも準備万端だ。どん兵衛の宇宙芋と銀河キュウリのルーナに言って刈り取りをすませた。どん兵衛は怒り狂って怒鳴り込んで来るかと思っていたらなぜか静かだった。数回、どん兵衛を見かけたが呆けたような虚ろな目をしてボンヤリ歩いていた。

 アストロフ星人との交渉は明後日にどん兵衛月面基地で行う。アストロフ星はどん兵衛が支配した銀河系の星域の外にあるので今回の猫ファースト推進会議には出席しない。

 どん兵衛は「宇宙芋」と「銀河キュウリ」が無くなったのでアストロフ星人との約束を反故する事になる。これでどん兵衛の信頼関係も修復不可能なダメージを受ける。どん兵衛には気の毒だかこれも全銀河系の猫ファースト推進の為だ。アストロフ星のテクノロジーは必ず役に立つ。

 どん子は式次第の最後の確認をした。こう言うかた苦しい会議は苦手だ。その時、控室のドアが開いた。

「どん子様、そろそろ会議の方へお願いしますニャ」ルーナが明るく伝えた。どん子はため息をついて会議に向かった。

 会議の様子は圧巻だった。481の宇宙人達が各自決められた椅子に座っている。どれもヒューマノイドタイプだが人間とはかなり違う。ワイワイガヤガヤと騒がしい。隣の宇宙人とタブレットの猫画像の自慢をしている。

「私の母星の猫は銀河系1の可愛さです」

「何を仰る。私の母星の猫は宇宙 1ですぞ」

「我が母星の猫は10歳を迎えると尻尾が3本になる」

 その様子を見てどこも同じだなとどん子は思いながらひな壇の席に座った。ルーナも自分の席に着いた。しかしどん兵衛の席は空いたままだ。

 どん兵衛はどこに行ったんだろう?とどん子は周りを見渡した。やはり「宇宙芋」と「銀河キュウリ」が無くなったことがショックで寝込んでいるのだろうか。どん子は少しだけ心が痛んだ。

 やがて柔らかな音のチャイムが鳴った。猫ファースト推進会議が始まる合図だ。会場は一瞬でシーンと静まり返った。司会者役の特別トレーナー(かつてどん兵衛に究極の抱っこをしどん兵衛が思わずゴロゴロが出た事にとてつもなく感動した女性トレーナーだ)が会議の開催を告げようとマイクの前に立った瞬間だった。突然、照明が消えた。そしてファンファーレとともにスポットライトがひな壇の奥を照らした。

 そこにはポッカリと四角い穴が空いている。そして一匹の猫がせり上がってきた。どん兵衛だ!キラキラ光る派手な衣装を着ているが衣装にはがま口のイラストが描かれている。

 どん兵衛は手にマイクを持ち大きな声で叫んだ。

「れでぃーすあんどじぇんとるめん!」その声を聞くと会場の宇宙人達は一斉に叫び始めた。

「どん兵衛将軍!」

「我らが支配者、どん兵衛将軍様」

「どん兵衛将軍、万歳!」

 何が起こったのかどん子には理解出来なかった。ルーナも啞然としている。

 急に派手な音楽が大音量で流れた。色とりどりなスポットライトがどん兵衛の周りをクルクルと照らしている。「俺の猫ファーストぉ〰♪」とどん兵衛が踊りながら歌いだす。

 会場は異様な熱気に襲われた。宇宙人達は手拍子をしたり席を立って踊り出した。司会者役の特別トレーナーまで感動に打ち震えている。どん兵衛が歌う歌には所々に偉大などん兵衛や銀河の帝王どん兵衛と言うフレーズが入っている。どん子はやっと気が付いた。この歌の歌詞はどん兵衛自身が作ったのだろう。かなり音痴だ。しかし会場は大盛り上がりだ。どん子は耳を押さえながら呆れたように呟いた。

「…どこまでも目立ちたい猫だ」

 どん兵衛の歌と踊りが終わると会場からは割れるような拍手が鳴り響いた。どん兵衛は深くお辞儀をするとどん子の隣の席に座った。どん子に向かってニヤリと笑うと司会者役の特別トレーナーに会議を進行するように手で合図を送った。司会者役の特別トレーナーは感動のあまり我を忘れていたがどん兵衛の合図に気を取り直して会議の開催を告げた。

 どん子の演説は見事なものだった。

「銀河で築こうとしている『猫ファースト』も、力や薬による強制ではなく、真の愛情と共存に基づくものだニャ。そして、そのために、私が指定する**『特別トレーナー』**あなた達の各惑星に派遣することを許可することニャ」どん子の演説にどん兵衛も思わず聞き入ってしまうほどだった。

 しかし宇宙人から意見も出た。

「真の愛情と共存は結構なことだが目の前の問題はどうするんですか?」カマキリに似た宇宙人が叫んだ。

「野菜不足は深刻な問題です。我々は戦争はしたくない。しかしこのままではいつ野菜の奪い合いに発展するか時間の問題ですぞ」目が四つある宇宙人が目玉をギョロギョロさせながら言った。

 会場の宇宙人達はザワザワと騒ぎ始めた。その様子を見てどん子はマイクの前で究極のゴロゴロを発した。宇宙人達はその音にうっとりし静かになった。

 どん子の演説と究極のゴロゴロで宇宙人達の騒ぎも一旦は収まったように見えた。しかしカマキリ似た宇宙人が叫んだ。

「偉大なるどん兵衛将軍の意見をお聞かせ下さい」その声に他の宇宙人達も再び騒ぎ始めた。

「どん兵衛将軍!ご意見を!」

「どん子様のおっしゃることは真実なのですか?」

「特別な手段とはなんですか?」

「サルスベラーズとは?特別トレーナーの事ですか?」

「我々の惑星の猫を助けて下さい!」

 どん兵衛はその声に応えようと立ち上がった。俺は支配者だ。どん子よ見よ!俺の偉大さを!貴様の浅はかな猫ファーストなど片腹痛いわ!

 マイクを持ってひな壇の1番高いお立ち台に登り、宇宙人達を見下ろした。宇宙人達はどん兵衛の言葉を待っている。どん兵衛は声を出そうと鼻から大きく息を吸った。

 その時、空気に違和感を感じた。そして宇宙人達を見た。どの宇宙人も催眠術にかかったように虚ろな目をしている。何かおかしい。

 どん子が立ち上がりもう一度、真の猫ファーストの演説を始めた。特別トレーナーの件もわかりやすく説明した。宇宙人達は感動の涙を流した。

「そうだ!猫への奉仕こそ我々の歓びだ!」

「真の猫ファーストこそ真理だ!」

 どん兵衛はその様子をじっと見ていた。そしてどん兵衛すらもどん子の演説に感動していた。どん子の言う事が正しい。特別な野菜で心を支配し猫ファーストの世界を創り上げるのはまちかえている。地球を見ろ!どん子の言う『真の猫ファースト』のおかげで猫どころか人間も黄金時代を迎えているではないか。どん子は何度も俺に説教をしてきた。あれは説教ではなかったのだ。愛による『真の猫ファースト』を教えてくれていたのだ。

 どん兵衛はどん子の元へ行き心から謝罪と感謝の気持を伝えたい衝動にかられた。

 お立ち台から降りようとした時、足を滑らせた。床に落下してしたたか腰を打った。運動不足で「猫ひねり」ができなかったらしい。

 どん兵衛は腰を擦りながら起き上がった。宇宙人達は誰もどん兵衛を手助けしない。どん子の演説にまだ感動している様子だ。

 どん兵衛はルーナの方を見た。タブレットを何やら操作している。そして鼻に小さな装置をつけていることに気が付いた。

 そうか!サルスベラーズの精神活性効果だ!先ほどの空気の違和感はサルスベラーズの成分をガス化したものだ。どん兵衛は這うように出口に向かった。どん子に忠誠を誓いたい衝動に抗うのはかなりの精神力がいった。

 「お、俺は銀河系の支配者だ。俺は猫ファーストによって銀河系を支配するのだ」  どん兵衛はどうにか出口に行き会場を抜け出した。ニャンタッキー12号にはルーナが送ってきたサルスベラーズの分析データがある。精神活性効果の解毒剤を作るのだ。

 どん兵衛は必死にニャンタッキー12号に向かった。そしてコンピュータでサルスベラーズの解毒剤の設計を命じた。コンピュータの解析データを見ながら猛スピードでキーボードを叩いた。数分後、ラボの3Dプリンターが動き出しリュックサックのような装置を作り出した。できあがったのは解毒剤では無く解毒音波発生装置だった。これの方が即効性はある。

 その頃、会場では宇宙達が沢山の猫達に囲まれている。どの宇宙人も猫に気に入られようと一生懸命に抱っこをしたりモフったりしていた。どん子はその様子を見て再度、究極のゴロゴロを発した。

 宇宙人達は雷に撃たれたように全身を強張らせた。あまりの感動で気を失った宇宙人、失禁している宇宙人もいる。特別トレーナー達は体を痙攣させていた

 どん子は宇宙人たちの豹変ぶりに驚いた。まだサルスベラーズは食べさせていないはずだ。

 ルーナも自分で作ったサルスベラーズガスがこんなにも強力な精神活性効果があるとは信じられなかった。

 会場の空調機にセットしたサルスベラーズガスの入ったボンベを遠隔操作で開いてから宇宙人達に効果が出るまで数秒しかかかっていない。しかもわずか5個のサルスベラーズから抽出して作ったガスを10分の1に薄めたものだ。ルーナは思わずほくそ笑んだ。

「これは面白い。面白いニャ。しかしもっと面白くしてあげよう」

 ルーナの不敵な笑みにどん子は気が付かなかった。宇宙人達は我先に自分の惑星に特別トレーナーの派遣の申し出た。それがダメなら自分の星から人材を地球に送るので特別トレーナー育成の教育をして欲しいとどん子に願った。

 どん子は今は訓練の終わった特別トレーナーは50人しかいない。よって派遣先を厳密なる選考で特別トレーナーを派遣する。特別な野菜は特別トレーナーの派遣の選考から漏れた惑星に優先して支給する。と言った。481の惑星の猫担当大使達は満場一致で快諾した。

 どん兵衛は急遽の作った解毒音波発生装置を背中に担ぎ会場に入った。そしてスイッチを入れた。ブーンと言うかすかな音を立てて装置は動き始めた。解毒音波発生装置は完璧に作動したはずだった。

「愚か者めが!俺は銀河系の支配者だニャ。再び俺を偉大なる将軍様と崇め祀るのだ!」どん兵衛は叫んだ。しかし宇宙人達の様子が変だった。誰もどん兵衛に応えない。それどころか先ほどのカマキリに似た宇宙人が「どん兵衛将軍、今は会議中です

。静かにしてください」と言った。奥から先に口の着いた触手が伸びてきた。

「どん子様と特別トレーナーの派遣と特別な野菜の供給について大事な話をしているところです。どん兵衛将軍」

 サルスベラーズガスの精神活性効果とどん子の演説と究極ゴロゴロは宇宙人の精神の深いところまで浸透し不可逆的な作用を引き起こしていた。クソ!どん兵衛は会場を走って出ていった。

 史上初の 猫ファースト推進会議は大成功だった。


第20章 どん兵衛の告白

 翌日、12月の冷たい風が吹く中、桜井市立宇宙空港で自分たちの惑星に帰るため宇宙人達がシャトルの「こもりく号」と「あしひき号」に乗り込んでいる。どの大使も会議の内容に大満足して満ち足りた表情をしている。

 この場でもタブレットで隣の宇宙人と猫自慢をしている者もいる。そしてもちろん特別トレーナーも一緒だ。特別トレーナー達は使命感と地球以外の猫に会えることの歓びに満ちた表情をしている。

 宇宙人達は見送りに来た地球人や猫に手を振って別れの挨拶をした。

 どん兵衛とどん子とルーナも桜井市立宇宙空港に来ていた。離陸し小さくなっていく「こもりく号」と「あしきひ号」をじっと見つめていた。

 どん子は猫ファースト推進会議が無事に大成功に終わった事で肩の荷が下りたように感じた。しかしすぐにアストロフ星人との会合の準備をしなくてはと考えた。どん子はサルスベラーズガスの事は知らない。

 どん子は隣で空を見上げているどん兵衛に聞いた。

「昨日、何とか発生装置がどうのと言ってたけど何のことニャ?」 どん兵衛はチラッとどん子を横目で見たが再び空を見上げた。もうシャトルは見えなくなっている。

「「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を誰かに頼んで刈り取らせたのはお前だろ?」

 どん兵衛はゆっくりとどん子の方へ向いた。どん子はビクっと身体を硬くした。「どうせルーナに命じたんだろ」

 今度はルーナがビクっとした。

「今さら、そんな事はどうでもいいニャ」

 どん兵衛の言葉にどん子もルーナも首を傾げた。

「なぁ良いことを教えてやろう」

 どん兵衛はどん子とルーナに向かってニヤリと笑った。 どん兵衛がルーナが刈り取った「宇宙芋」と「銀河キュウリ」は使い物にならないと告白した。

「「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の種をようやく作り出し畑に俺は自ら植えた。その時、俺の手は汚れていた。本来、「宇宙芋」と「銀河キュウリ」は衛生学的に清潔でなければ育たない。しかし俺の手は雑菌だらけだった。「銀河キュウリ」が育てば「銀河キュウリ」が持っていると殺菌効果で「宇宙芋」と「銀河キュウリ」は無事に育つ。しかし今は12月だ。キュウリは春から夏に生る。だからルーナが刈り取った「宇宙芋」と「銀河キュウリ」は「究極の野菜成長促進剤」で一見、無事に育ったように見えるが今頃は腐敗しているだろう。俺は最初から分かっていた。ニャンタッキー12号のラボには「宇宙芋」と「銀河キュウリ」が無事に育ちつつあるニャ」

 どん兵衛の衝撃的な告白に、どん子とルーナは、その場で立ち尽くし、啞然としていた。どん子の完璧な計画は、どん兵衛の「汚れた手」によって、根本から覆されたのだ。

「な…何を言っているニャ…!?」どん子の声が、かすかに震えた。「まさか、あの野菜を…!」 どん兵衛は、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。

「フン。俺の天才的な頭脳と、奈良公園の鹿の糞があれば、不可能などないのだニャ!お前が俺の野菜を処分したと喜んでいる間に、俺は本物を育んでいたのだニャ!畑仕事をしたことのないおまえ達にはわからなかっただろう?」

 どん子は、怒りで全身の毛を逆立てた。


第21章 ルーナの正体

 その時だった。

「フフフ…」

 ルーナが周りに誰もいないことを確認すると、静かに、しかし悪魔的な笑みを浮かべた。どん子とどん兵衛は、同時にルーナの方を振り向いた。

「ルーナ!何を笑っているニャ!」どん子が、苛立ちを隠せない声で問いただした。

 ルーナは、ゆっくりと立ち上がると、手元のタブレットの画面を二匹の猫に見せつけた。そこには、桜井市立猫十字総合病院の地下ラボで、「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の細胞と、サルスベラーズの抽出液が混じり合った培養液が、活発に増殖している様子が映し出されていた。「サルベラーズガスの材料ですニャ。昨日、これを会議に使いましたニャ。あそこまで効果があるとは私もビックリ仰天ですニャ」ルーナは勝ち誇ったように言った。どん兵衛もどん子も唖然とした。

 解毒音波発生装置の効果が無かったのは「宇宙芋」と「銀河キュウリ」のデータを計算式に入れていなかったためだ。

「どん子様、どん兵衛様。お二方とも、私の手のひらで踊ってくださり、感謝いたしますニャ。」

  ルーナの声は、普段の明るいトーンとは異なり、どこか冷徹で、そして全てを見通したような響きを持っていた。

「どん子様は、サルスベラーズで精神を支配しようとしましたニャ。どん兵衛様は、「宇宙芋」と「銀河キュウリ」で物質を支配しようとしましたニャ。どちらも、銀河の安定には不可欠な要素ですニャ。しかし、この銀河で本当に面白いのは、そのどちらか一方だけでは実現できない『猫ファースト』ですニャ。」

 ルーナは、二匹の猫の驚愕の表情を見て、さらに続けた。

「私は、お二方の『支配の力』を融合させることで、銀河全体に、より完璧で、より安定した、そして何よりも『面白い』猫ファーストの世界を築こうとしてしていましたニャ。」 どん子とどん兵衛は、ルーナの言葉に絶句した。彼らは、ルーナが単なる補佐役ではなく、この壮大な騙し合いの真の演出家であったことを、この瞬間、初めて理解したのだ。

「さあ、お二方。アストロフ星人との会合まで、あと一日半しかありませんニャ。お二方の力を合わせ、私の計画を実行に移す時ですニャ。」 ルーナの瞳は、好奇心と、そして自身の壮大な野望で輝いていた。どん兵衛とどん子は、互いに顔を見合わせた。彼らの間には、怒り、屈辱、そして、この予測不能な状況への困惑が渦巻いていた。しかし、ルーナの提案が、この状況で最も合理的であることも、彼らは理解していた。

「そ、それでルーナ、これからどうするつもりだ?」どん兵衛が聞いた。 「残念ながら今のどん子様には「宇宙芋」と「銀河キュウリ」はありません。サルスベラーズだけですニャ。しかしどん兵衛様は「宇宙芋」と「銀河キュウリ」をお持ちです。アストロフ星人との契約にはその両方が必要ですニャ」ルーナはフンと鼻を鳴らした

「私にはその両方がありますニャ」

 ルーナは、二匹の猫の驚愕の表情を見て、さらに続けた。

「私は、お二方の『支配の力』を融合させることで、銀河全体に、より完璧で、より安定した、そして何よりも『面白い』猫ファーストの世界を築こうとしていたのですニャ。どん兵衛様はさすがに今回は「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の製造過程をニャンタッキー12号のコンピュータに入力されました。そのデータは私がハッキングしてすべていただきまニャニャ。」

「な、なんてことを…」どん子は呟いた。

「ルーナ、「宇宙芋」と「銀河キュウリ」がダメになったのは知っていたの?」

「それは今のどん兵衛様のお話で初めて知りました。でもそれはどうでもいい事ですニャ。「宇宙芋」と「銀河キュウリ」とサルスベラーズのデータは全て分析しました。実物は不要ですニャ。しかしどん子様に私の要求を飲んでもらう為に廃棄せずにしておきました。まぁ人質みたいなものですね。サルスベラーズは地球に持ち帰って昨日の猫ファースト推進会議で宇宙人達に食べさせる予定でしたニャ。でもどうやって食べさせるか考えているうちにサルスベラーズガスを思いつきましたニャ。それならサルスベラーズをほんの少ししか使いませんからね」

「何!?サルスベラーズを地球に持ち込んでいたのか?」どん兵衛は驚いた。そしてどん子に向かい「どん子!お前の指図か?」と叫んだ。

 どん子は返事に詰まった。

「どん兵衛様とどん子様のおかげで私には全てを手に入れましたニャ」ルーナはそう言うとわざとらしく深くお辞儀をした。

「ありがとうございますニャ」

「な、なぁルーナ。俺と組まないか?俺の側近にしてやるニャ。それが嫌なら好きな役職につけてやるニャ」どん兵衛の言葉にどん子は啞然とした。

「申し訳ありませんがどん兵衛様。私は銀河系の支配者になりたいのですニャ。人々は皆、私をルーナ将軍様と呼ぶでしょう」今度はどん兵衛が啞然とした。

「どん子様は、サルスベラーズで精神を支配しようとしましたニャ。どん兵衛様は、宇宙芋と銀河キュウリで物質を支配しようとしましたニャ。どちらも、銀河の安定には不可欠な要素ですニャ。しかし、この銀河で本当に面白いのは、そのどちらか一方だけでは実現できない『猫ファースト』ですニャ。」

 どん子とどん兵衛は、ルーナの言葉に絶句した。彼らは、ルーナが単なる補佐役ではなく、この壮大な騙し合いの真の演出家であったことを、この瞬間、初めて理解したのだ。

「さあ、お二方。アストロフ星人との会合まで、あと一日半しかありませんニャ。お二方の力を合わせ、私の計画を実行に移す時ですニャ。」

 ルーナの瞳は、好奇心と、そして自身の壮大な野望で輝いていた。どん兵衛とどん子は、互いに顔を見合わせた。彼らの間には、怒り、屈辱、そして、この予測不能な状況への困惑が渦巻いていた。しかし、ルーナの提案が、この状況で最も合理的であることも、彼らは理解していた。


第22章 月への旅路とルーナの真価

 いよいよ、アストロフ星人との会合の時が来た。どん兵衛、どん子、そしてルーナは、どらねこ32号に搭乗し、月面どん兵衛農園へと向かう。どん兵衛とどん子は、この数日間の激動と、それぞれの秘密の画策で一睡もしていないのか、目の下のクマがひどい。特にどん兵衛は、鹿の糞探しの疲労とルーナの告白で、まるで抜け殻のようだ。

 対照的に、ルーナはニコニコと上機嫌でタブレットを操作している。彼女の瞳は、これから始まる「面白い」展開への期待で輝いていた。

「どん兵衛様。」ルーナは、タブレットから顔を上げ、どん兵衛に声をかけた。

「何だニャ…。」どん兵衛は、ぶっきらぼうに、しかし疲労困憊の声で応えた。

「アストロフ星人から連絡がありましたニャ。すでに月面どん兵衛農園に着陸しているそうですニャ。」ルーナはタブレットを見ながら言った。

 どん兵衛は、その言葉にわずかに身構えた。いよいよ、決戦の時だ。

「それと、どん兵衛様。」ルーナは、さらに声を弾ませた。

「だから何だニャ?」どん兵衛は、苛立ちを隠せない。

「どん兵衛様は、音痴だったのですねニャ。それも、かなりの。」ルーナは、悪気なく、しかし確実にどん兵衛の急所を突いた。

「う、うるせー!481の星で大ヒットしたんだぞニャ!今度、新曲を出す予定だニャ!」どん兵衛は、疲労も忘れて反論した。

 どん子は、二人の会話を聞いているようで聞いていなかった。彼女の意識は、ルーナの存在に集中していた。

(何を企んでいるニャ、ルーナ…?アストロフ星人との話し合いに、どう絡んでくるつもりだニャ?この場に、どん兵衛を連れてくるのは、アストロフ星人には不快ではないのかニャ?彼らはどん兵衛を信用していないはず…。)

 どん子の心に、冷たい恐怖が走った。ルーナの笑顔の裏に潜む、底知れない野望と、全てを操るかのような狡猾さ。彼女は、ルーナが自分たちの想像をはるかに超える存在であることに、今、まざまざと気づかされていた。

(ここはひとまず、どん兵衛と協力した方が良さそうだニャ…。)

 どん子は、ちらりとどん兵衛を見た。どん兵衛もまた、ルーナとの会話を終え、何かを考え込んでいる様子だ。どん子とどん兵衛の間に、言葉にならない、しかし確かな共犯意識が芽生え始めていた。


第23章 月面での最終交渉

 月面どん兵衛農園のレセプションルーム。気密ドアが開き、地球よりはるかに熱い惑星アストロフの気候を思わせる熱気が、どん兵衛、どん子、ルーナの三匹を包み込んだ。

 部屋の中には、いつもの3人のアストロフ星人がいた。どん兵衛の姿を認めると、彼らのデジタル表示の目が激しく点滅した。その怒りは、空間を震わせるほどの圧力を放っている。どん兵衛は、その様子を見て、内心で不安に襲われた。

 ルーナは、そんな緊迫した空気をものともせず、通り一遍の挨拶を交わすと、すぐに本題に入った。最初に口を開いたのは、3人のうちの1人(外見はそっくりで見分けがつかない)だった。

「どん兵衛殿、貴殿は我々との約束を破った。よってこの会合に参加する資格は無い。「宇宙芋」30キログラムと「銀河キュウリ」を40キログラムを我々に差し出せば、再考の余地はある。」

 アストロフ星人の冷徹な声が響く。どん兵衛は、どん子の後ろに下がりながら、ぶっきらぼうに答えた。

「分かってるよニャ。そんなに「宇宙芋」も「銀河キュウリ」も持ってないニャ。だから俺は何も言わんニャ。」

 その時、ルーナが一歩前に出た。彼女は、アストロフ星人たちの鋭い視線を真っ向から受け止めながら、涼しい顔で、しかし有無を言わせぬ口調で話し始めた。

「アストロフ星人の皆様。おっしゃる通り、どん兵衛様は過去の約束を履行できませんでしたニャ。それは、彼の計算ミスであり、私の分析によると、非常に非効率的な結果を招きましたニャ。この猫はアホですニャ。愚かな猫ですニャ。アホ猫に代わり私が謝罪いたしますニャ」

 なにもそこまで…どん兵衛は、ルーナの言葉にカチンと来たが、ぐっとこらえた。どん子も、ルーナのあまりの堂々とした態度に、思わず息を飲んだ。

「しかしニャ。」ルーナは、タブレットを操作し、画面をアストロフ星人たちに向けた。「私は、その非効率性を完全に解消し、皆様が求める「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の安定供給、そしてそれ以上の永続的な利益を保証する、新たな解決策を提示いたしますニャ。」

 アストロフ星人のデジタル表示の目が、わずかに点滅の速度を落とした。彼らは、ルーナの言葉に、純粋な「論理的興味」を示し始めたのだ。

「我々は、どん兵衛様が再生産に成功した本物の「宇宙芋」と「銀河キュウリ」のサンプルを持ってきておりますニャ。そちらの要求した数にはとても足りませんが残りは数日中にお渡しできます」ルーナは、どん兵衛に視線を向けた。どん兵衛は、不満げに鼻を鳴らしながらも、ルーナの指示に従い、袋を差し出した。アストロフ星人の一人が、袋の中身を慎重に確認する。彼らの目が、再び激しく点滅し始めた。今度は、怒りではなく、驚きと興奮の点滅だ。

「そしてニャ。」ルーナは、さらに声を低めた。「我々は、皆様が密かに求めていたサルスベラーズの安定的な栽培技術も確立しましたニャ。これは、皆様の惑星で栽培できない、極めて希少な真菌類ですニャ。」

 ルーナは、タブレットにサルスベラーズの栽培データと、その精神活性効果に関する詳細な分析結果を表示させた。アストロフ星人たちは、そのデータに食い入るように見入っている。彼らの目が、狂ったようにチカチカと点滅し、内部で激しい議論が交わされているのが見て取れた。

「我々は、この二つの要素を組み合わせることで、皆様の惑星に、**物質的な充足と精神的な安定を同時に提供する、究極の『融合型猫ファースト』**を提案いたしますニャ。これは、どん兵衛様の『力による支配』でもなく、どん子様の『愛による共存』だけでもない、最も効率的で、最も安定した、そして何よりも『面白い』社会システムですニャ。」

 ルーナは、どん子に視線を向けた。「どん子様。この『融合型猫ファースト』の精神的な側面、そして『究極のゴロゴロ』の力を、アストロフ星人の皆様に、今一度、お示しくださいニャ。」

 どん子は、ルーナの言葉に、微かな笑みを浮かべた。ルーナは、自分たちを完全に手玉に取っていたが、その計画は確かに、銀河の平和と、猫ファーストの理想を現実にする可能性を秘めている。どん子は、静かに、しかし圧倒的な「究極のゴロゴロ」を発した。その音は、レセプションルームの空間を満たし、アストロフ星人たちの論理回路に直接介入していく。彼らのデジタル表示の目が、恍惚とした光を放ち始めた。

 どん兵衛は、ルーナの周到な計画と、どん子のゴロゴロの力に、再び戦慄した。彼は、自分がルーナの掌の上で踊らされていたことを、まざまざと見せつけられたのだ。しかし、彼の心には、かすかな希望も芽生えていた。ルーナの計画が成功すれば、銀河の平和は保たれ、彼の「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の価値も、再び認められるかもしれない。

 アストロフ星人たちは、どん子のゴロゴロに完全に陶酔し、ルーナの提案を、もはや論理ではなく、本能で受け入れようとしていた。交渉の主導権は、完全にルーナの手に握られていた。


第24章 ルーナ将軍の誕生と新たな銀河秩序

 交渉は、ルーナの完璧な主導のもと、成立した。アストロフ星人は、ルーナが提示した「融合型猫ファースト」のシステムを、最も効率的で安定した銀河の未来像として受け入れたのだ。彼らは、どん兵衛との過去の約束不履行を水に流し、ルーナを新たなパートナーとして迎え入れた。

 数週間後、銀河系全体に、新たな秩序が確立されたことが発表された。銀河の知的生命体は、ルーナを「ルーナ将軍」と呼び、その統治を受け入れた。

 ルーナ将軍は、銀河の最高意思決定者として、その知性と狡猾さで、複雑な銀河のバランスを保っていた。彼女の目的は、単なる支配ではなく、銀河全体が「最も効率的で、最も安定した、そして何よりも『面白い』猫ファーストの世界」となることだった。

 どん兵衛は、ルーナ将軍のもと、「銀河資源管理最高責任者」という役職に就いた。彼の天才的な農業技術と、「宇宙芋」・「銀河キュウリ」の再生産能力は、銀河全体の食糧供給を担う重要な役割を果たすことになった。彼は、広大な宇宙どん兵衛農園の拡張と、新たな宇宙野菜の開発に情熱を注ぎ、その技術力で銀河の繁栄を支えた。彼の「アンドロメダ星雲」への野望は、もはや征服ではなく、未開の星域での新たな資源探索へと形を変えていた。彼は、ルーナの掌の上で踊らされていることに不満を感じつつも、自分の能力が最大限に活かされるこの状況を、どこか楽しんでいるようだった。

 どん子は、「銀河文化大使兼特別トレーナー総司令官」という要職に就いた。彼女の「真の猫ファースト」の哲学と、「究極のゴロゴロ」の力は、銀河全体に「猫への奉仕の喜び」を広めるための精神的な支柱となった。彼女は、地球で育成された特別トレーナーたちを各惑星に派遣し、それぞれの恒星系で、猫と知的生命体の間に真の「愛と共存」の関係を築き上げることに尽力した。彼女は、ルーナの計算高さに呆れつつも、自身の理想が銀河全体に広がることに、深い満足を感じていた。

 アストロフ星人は、ルーナ将軍の統治のもと、銀河全体の物流とテクノロジーを担う重要な役割を果たすことになった。彼らは、サルスベラーズの安定供給を受け、その精神活性効果を研究しながら、銀河の効率的なシステム構築に貢献した。

 銀河は、かつてないほどの平和と繁栄を享受していた。それは、どん兵衛の「力による支配」でもなく、どん子の「愛による共存」でもない、ルーナが巧妙に融合させた、予測不能で、しかし完璧な「猫ファースト」の世界だった。

 ルーナ将軍は、ニャンタッキー12号のブリッジから、広大な銀河を見下ろしていた。彼女の口元には、満足げな笑みが浮かんでいる。

(フフフ…この銀河は、本当に面白いニャ。そして、このゲームは、まだ始まったばかりですニャ。)

 彼女の瞳は、未来の、さらなる「面白い」展開を予見しているかのように、キラキラと輝いていた。


第25章 神を探す猫

 ある日の午後、桜井市立猫カフェ。窓から差し込む柔らかな光が、テーブルに置かれたコーヒーカップを照らしている。そのテーブルを挟んで、どん兵衛とどん子が向かい合って座っていた。二匹は、ルーナの「面白い猫ファースト」が銀河系を完全に支配したという事実を、ようやく認めようと意見が一致したところだった。

「まさか、ルーナめが、俺が野菜不足で支配できなかった銀河系の残り三分の1を、アストロフ星人の力を借りてわずか3ヶ月で支配するとはニャ…。」どん兵衛は、カップのコーヒーを啜りながら、ぼそりと呟いた。

「いつもそうだけど、あんたは後先を考えないからよニャ。」どん子は、冷めた口調で応えた。

 今や、銀河系の知的生命体が住む全623の星が、ルーナとアストロフ星人の支配下に入っている。ルーナは、アストロフ星人から「どんチャリ」を全623の星に輸出するように求め、その対価として「サルスベラーズガス」を提供した。サルスベラーズガスは量産可能で、その効果は猫ファースト推進会議で実証済みだ。この交渉がうまくいけば、銀河系全体が安定した恒久的な猫ファーストの世界になるだろう。

「俺は野菜不足を助けてもらうために地球に来ただけなのに、思いがけないことになったニャ。」どん兵衛は、ため息をついた。

「でも、何もかもが上手くいったんだから、良しとしましょうニャ。」どん子は、コーヒーカップを静かに置いた。

「そうだなニャ。しばらくは、お互いにルーナの元で働こうニャ。」どん兵衛は、そう言ってカップをコーヒー皿に置いた。

 どん子は、どん兵衛の言葉に、わずかな違和感を覚えた。「しばらくは?」どん子は、どん兵衛に聞き直した。

 どん兵衛は、どん子の質問には応えず、再びコーヒーを啜ると、どん子にしか聞こえないように、小さな声で言った。

「なぁ、不思議に思わないかニャ?」

「?」どん子は首を傾げた。

「この銀河系には、623もの知的生命体が生きているニャ。どれも基本的にはヒューマノイド型だが、地球人とはまるで違う。しかし、どの星にも猫が居るニャ。ほとんど俺たち地球の猫と同じだニャ。」

 どん子は、確かに、と思った。「不思議ねニャ。」

「これには、絶対に理由があるはずだニャ。もしかすると、神が居るのかもなニャ。」

「神様が存在する?そんなバカなニャ!」どん子は、大きく口を開けて笑った。

「ニャンタッキー12号のラボには、「至福のキャベツ」、「忠誠のニンジン」、「サルスベラーズ」、そして「宇宙芋」と「銀河キュウリ」のデータがコンピューターに入っているニャ。いつでも再生産ができるニャ。」

「まさか、あんた…!」どん子の顔から、血の気が引いた。

「俺は宇宙に行って神を探すのだニャ。もし神が居れば、俺の野菜で俺の支配下に置くニャ。もし神が居なければ…」

 どん子には、その後にどん兵衛が何を言うのか、痛いほど分かっていた。

「俺が神になる!ニャ!」

「やっぱりニャ…。」どん子は、深いため息をついた。「どこまでも目立ちたい猫ねニャ。でも、アストロフ星人から空間跳躍エンジンは手に入らなかったのでしょうニャ?」

「おう、アストロフ星人は俺を取引相手のブラックリストに載せやがったニャ。どこまでも融通の効かない連中だニャ。しかし、いつか空間跳躍エンジンを手に入れてやるニャ。そして宇宙の果てまで行って、神を探すのだニャ!」どん兵衛は、得意になってどん子に自分の夢を語った。

「ふ~ん、まぁ頑張ってねニャ。」どん子は、コーヒーを啜りながら言った。

 そして、ふと窓の外を見た。桜井市自慢の桜が一面に咲いている。猫も人間も、幸福感に満たされている。どん兵衛が居なければ、「猫ファースト」の発想は生まれなかった。ルーナが居なければ、完璧な猫ファーストの世界は来なかった。

 どん子は、心の中で、小さく呟いた。

「よろしくお願いしますニャ、どん兵衛神様。」

 こうして、銀河系はルーナ将軍の統治のもと、新たな「猫ファースト」の時代を迎えた。しかし、その平和な宇宙の片隅で、一匹のジンジャーキャットが、さらなる壮大な、そしてどこまでも猫らしい野望を胸に、静かに、しかし確実に、次の旅の準備を進めていた。

 完

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