月の裏側の猫と路地裏の猫

ドマ猫

第1話 猫が野菜で世界征服

プロローグ

 日本の奈良県桜井市の片隅、古民家の縁側には、柔らかな陽光が降り注いでいた。その日の縁側は、畳の香りと、ほんのり湿った土の匂いが混じり合い、彼にとって最高の舞台だった。一匹の黄金色のジンジャーキャット(トラ猫)、彼の名はどん兵衛。見るからにのんびりとした風貌で、お気に入りのがま口のイラストがプリントされた薄緑色のTシャツが、その愛らしさを一層引き立てている。日課のひなたぼっこは、彼にとって何物にも代えがたい至福の時間だった。暖かな日差しが彼の黄金色の毛並みを包み込み、微睡みの中で、遠くでかすかに聞こえる鳥のさえずりに耳を傾け、満足げに尻尾を微かに揺らす。完璧な静寂と、身体の芯まで染み渡る温かさ。これこそが、どん兵衛の人生の目的であり、絶対的な幸福だった。

 しかし、その完璧な静寂は、しばしば無遠慮な音によって、容赦なく打ち破られた。すぐ近くで轟く高速道路の建設工事の騒音。ドリルがアスファルトを砕く甲高い音、重機の唸り声、そして作業員の怒鳴り声が、彼の安らかな眠りを引き裂く。頭上をかすめる飛行機の轟音は、まるで巨大な怪物が空を切り裂くかのようだった。そして何よりも、無邪気だが耳障りな子供たちの甲高い声が、彼の神経を逆撫でする。

「なぜニャ?なぜ、こんなにも素晴らしいひなたぼっこが、これほどまでに邪魔されなければならないニャ!」どん兵衛の眉間には、深いシワが刻まれ、その口からは小さく、しかし明確な不満の唸り声が漏れた。

「もっと静かで、もっと暖かい、誰にも邪魔されないひなたぼっこをする方法はないのかニャ?」

 彼は爪を研ぐようにイライラと唸り、何日も何日も、その小さな頭脳をフル回転させた。人間はあまりにも騒がしい。この騒がしい人間どもを、どうすれば静かにさせられるのか?

 そのつぶらな瞳の奥には、秘めたる野望が燃え盛っていた。「ならば、この世界を、この肉球で征服してやるニャ!」

 だが、どうやって人間を支配するのか?武力?知力?どん兵衛は、縁側でひなたぼっこをしながら、じっくりと、そして狡猾に考えを巡らせた。

 ある日、飼い主が庭で野菜を育てているのを見て、彼の脳裏に稲妻が走った。青々とした葉、土から顔を出す根菜、そして太陽の光を浴びて輝くトマト。これだ!これこそが、世界征服の足がかりになると!

 その日から、どん兵衛はまるで憑かれたように畑仕事に没頭した。器用に前足で土を耕し、猫とは思えないほど丁寧に種を蒔き、毎日せっせと水をやった。その情熱と集中力は、人間をも凌駕するほどだった。彼の肉球は土にまみれ、その小さな体は泥だらけになったが、どん兵衛の瞳には、ひなたぼっこを邪魔されない未来への確固たる決意が宿っていた。


第1章 どん兵衛特製野菜、世界へ

 幾度もの失敗と、夜を徹しての品種改良の末、桜井どん兵衛農園でどん兵衛が愛情込めて育てた野菜は、見事に育つようになった。特に彼が力を入れたのは、世界中の誰もが一度食べたら忘れられないような、素朴ながらも心温まる特別な風味を持つ野菜たちだった。その瑞々しさは、まるで太陽の光と月の雫を凝縮したかのようだった。そしてその野菜を食べた人間たちはなぜか例外なく猫好きになった。

 収穫の時期が来ると、どん兵衛は選りすぐりの野菜を丁寧に箱詰めした。そして、大胆不敵にもその送り先として選んだのは、地球上で最も権力を持つ二人の人物――アメリカ合衆国大統領とロシア大統領だった。

 彼は、山のように野菜を積んだ荷車を器用に引き、まるで忍者のようにアメリカ合衆国へと渡った。ホワイトハウスの厳重な警備をすり抜け、最高級のトマトと、とんでもなく甘いカボチャを警備室の前に置いた。添えられた手紙には、猫の肉球で押されたスタンプと、「この野菜を食せば、あなたの心は私が握るニャ。そして奈良県桜井市をゆっくりと昼寝できるように静かにして欲しいニャ」と読めるような、達筆な猫文字で書かれたメッセージが添えられていた。

「これはアメリカ大統領に送る賄賂ニャ。トランプ大統領にあげるニャ」

 どん兵衛がそう言い放つと、警備員はあっけにとられたように、空の荷車を引いて帰るジンジャーキャットの後ろ姿を見送った。

 次にどん兵衛はロシアへと向かった。モスクワの赤の広場を、同じように山のような野菜を積んだ荷車を引いて進む。クレムリン前に到着すると、彼は再び同じ言葉を警備員に告げた。

「これはロシア大統領に送る賄賂ニャ。プーチン大統領にあげるニャ」

 もちろん、アメリカ大統領に送ったのと同じ内容のメッセージカードも添えられていた。ロシアの警備員もまた、呆然と立ち尽くすばかりだった。


第2章 賄賂の効力、そして世界の変化

 その日の午後、ホワイトハウスの警備員は、段ボール箱に詰め直した野菜を怪訝そうな職員に渡した。「日本から変な猫が野菜を持ってきました」と伝え、「大統領への賄賂だそうです」と付け加えた。職員は眉をひそめながらも、堂々と賄賂を持ち込んだのは驚きだが日本の猫が持ってきたものなら危険はないだろうと、合衆国大統領の執務室の机の上にトマトを置いた。

 翌日、合衆国大統領は執務室で、朝から難しい外交問題の書類を睨みつけ、顔を怒りで真っ赤にしていた。

「絶対に妥協などせんぞ!ロシア大統領め。逆らえば核ミサイルを撃ち込んでやる!」

 彼は書類を見ながら、苛立ちを隠せない様子で呟いていた。そして何気なく机の上のトマトを取り、一口食べた途端、彼の身体に電流が走った。まるで雷に打たれたように身体を硬直させ、その表情は一瞬にして穏やかなものへと変わった。それまでの険しい顔はどこへやら、口元は緩み、目尻は下がり、まるで子猫を抱きしめるかのような優しい表情になった。以来、彼の強硬な外交姿勢は嘘のように軟化し、国際会議では常に笑顔を見せるようになった。時には、会議中にポケットから猫の動画を取り出し、隣国の首脳に見せびらかすことさえあった。

「いやぁ、この子猫の肉球は最高だね!見てくれ、プーチン!」

 ロシア大統領もまた、同じようにカボチャの甘さに心を奪われた。一口食べたとたん、彼の眉間のシワは消え失せ、それまで険しかった表情は和らぎ、国際社会との協調路線へと舵を切っていった。彼は執務室で、愛猫を膝に乗せては、その喉をゴロゴロと鳴らしながら、国際電話で他国の首脳と猫の話題で盛り上がるようになった。

「ああ、我が愛しのミャーシャよ…このカボチャは君にも食べさせてやりたいものだ!」

 桜井どん兵衛農園でどん兵衛が作ったトマトやカボチャだけでなく、一緒に送られてきたキャベツやブロッコリーも、穏やかな精神作用と、普遍的な健康効果を持っていた。

 両国の首脳は、どん兵衛の野菜がもたらす不思議な魅力に完全に魅了された。彼らは、この「特別な野菜」を独占したいという思いから、密かにどん兵衛を探し始めた。しかし、どん兵衛は巧妙に姿をくらまし、決して自らの正体を明かさなかった。

 彼は世界の裏側で、静かに、しかし確実に、その肉球を広げていた。


第3章 世界征服の最終章

 大統領たちがどん兵衛の野菜に夢中になっている間に、どん兵衛は次の手を打った。彼は世界中の紛争地域に、心を穏やかにする効果のある桜井どん兵衛農園のキャベツを栽培して送りつけ、各国の指導者たちに和平への道を促した。そのキャベツを食べた兵士たちは武器を置き、指導者たちは和解の握手を交わした。時には、敵対する国の兵士たちが、キャベツを分け合いながら談笑する姿さえ見られた。

 また、食料不足に苦しむ国々には、驚くほど栄養価の高い芋を開発し、無償で提供し始めた。その芋は、どんな痩せた土地でも育ち、瞬く間に飢餓を撲滅した。

 世界は、どん兵衛の野菜によって少しずつ、しかし確実に変わっていった。人々は争いをやめ、互いに協力し合い、地球はかつてないほどの平和と豊かさに包まれた。もちろん、その陰には、すべてを操るどん兵衛の存在があったことを、誰も知らない。

 そしてある日、世界中の人々が、毎日食卓に並ぶ美味しい野菜の背後に、ある猫の影があることに気づき始めた。しかし、それは恐怖ではなく、感謝と尊敬の念だったのだ。彼らは、どん兵衛がもたらした平和と豊かさに心から感謝し、彼の存在を受け入れた。ただ、野菜に添付された猫文字の手紙には、いつも同じ言葉が書かれていた。「奈良県桜井市をゆっくりと昼寝できるように静かにして欲しいニャ」。

 さっそく国連は日本政府に圧力をかけた。日本政府はただちに最優先事項として奈良県知事と桜井市長に、桜井市を静かにするように命じた。桜井市では、工事は中断され、交通量は制限され、子供たちは静かに遊ぶよう教育された。住民たちは、猫の昼寝のためならと、喜んで協力した。

 彼らは猫のために、道路の舗装材を肉球に優しい素材に変え、猫が安心して横断できる「猫専用横断歩道」を設置し、さらには猫の鳴き声に合わせたメロディを奏でる信号機まで開発した。各公園には高さ20メートルのキャットタワーも設置された。

 こうして、ジンジャーキャットのどん兵衛は、争いではなく、『美味しい野菜という「至福の賄賂」』によって、密かに、しかし確実に世界を征服した。

 すっかりと静かになった桜井市で、今日も家の縁側でひなたぼっこをしながら、世界が平和であることに満足げに目を細めていることだろう。時折、その口元には満足そうな笑みが浮かんでいるのが見えた。


第4章 どん兵衛、宇宙人とファーストコンタクトする

 奈良県桜井市の静かな桜井どん兵衛農園で、今日もせっせと野菜作りに励むどん兵衛。しかし、彼の視線はもはや地球だけには留まっていなかった。

 ある満月の夜、桜井どん兵衛農園の上空に、不気味なほど静かに巨大な空飛ぶ円盤が飛来したのだ。銀色の円盤は、まるで巨大な鏡のように月光を反射し、ゆっくりとどん兵衛農園に着陸した。どん兵衛は、唖然とした表情で円盤を見つめていた。

 円盤の側面の一部が、シューッという音もなく開き、中から3人の宇宙人が姿を現した。彼らは細長い手足と、デジタル表示の目が特徴的で、地球の生物とはかけ離れた姿をしていた。

 どん兵衛は緊張して体をこわばらせた。恐怖で逃げ出したい衝動に駆られたが、なんとなくこれは大きなチャンスだという予感のようなものを感じ、ぐっと堪えた。

 3人の宇宙人は桜井どん兵衛農園をぐるりと見渡し、畑になっている野菜を指さし、驚きと喜びの表情を浮かべている。そして、畑で体を硬直させて立っているどん兵衛に近づいた。どん兵衛はありったけの勇気を振り絞り、軽くお辞儀をして引きつった笑顔を作った。猫と宇宙人の、歴史的なファーストコンタクトだった。

 宇宙人たちは、惑星アストロフから来たアストロフ星人だと名乗った。どん兵衛にはよくわからなかったが、遠くの恒星系から来たらしい。彼らは様々な惑星を巡り調査をしており、長い時間宇宙を旅していると言った。任務も完了したので早く故郷に帰りたいが、たまたま通りかかった太陽系の地球に立ち寄ったと説明した。アストロフ星人たちは地球の土壌調査に訪れたというが、どん兵衛の鼻は、彼らの抱える「食の悩み」を嗅ぎ取っていた。

 アストロフ星人たちは、合成食料に飽き飽きしており、地球の新鮮な野菜に喉から手が出るほど飢えていたのだ。彼らのデジタル表示の目は、単調な合成食料のデータばかり映し出してきたが、どん兵衛の農園を見た瞬間、色彩豊かな野菜のデータが溢れ出し、その情報量に処理が追いつかないほどだった。

 どん兵衛はチャンスとばかりに、桜井どん兵衛農園の新製品のとびきり甘い「宇宙芋」と、どんな病原菌も寄せ付けない「銀河キュウリ」を差し出した。これらは、従来の桜井どん兵衛農園の野菜よりもさらに強力な栄養価と生命力を持つ、実験的な品種だった。ちなみに「宇宙芋」「銀河キュウリ」はどん兵衛が勝手につけた名前だ。苦労して品種改良をしてやっと完成した。栽培には桜井市の大和川の水と奈良公園の鹿の糞、そしてどん兵衛が耕していた畑が必要だ。非常に複雑な工程を経て生み出された、まさに奇跡の野菜だった。どん兵衛はそのレシピをメモ用紙に細かく記録していた。国連加盟国への賄賂用に育てていたが、今は新たなチャンスに賭ける方が得策だと判断した。

 アストロフ星人はどん兵衛から野菜を受け取ると、そのまま生で囓った。一口食べた途端、彼らのデジタル表示の目は激しく点滅し、まるで回路がショートしたかのように全身が震え始めた。そして、光学センサーから液体が溢れ出し、彼らはそれが「涙」だと理解した。

「地球の猫よ、この恩は忘れない!」彼らは言葉にならない感動を表現した。どん兵衛は他の試作中の野菜も味見をさせた。桜井どん兵衛農園製の「至福のキャベツ」と「忠誠の人参」だ。これも今やどん兵衛農園の特産品になっている。3人のアストロフ星人は歓喜に打ち震え、キャベツ、人参を生のままむさぼり食っている。彼らの普段の無機質な表情からは想像もできないほど、無我夢中で貪り食う姿は、どん兵衛に確かな手応えを感じさせた。

 その様子を見て、どん兵衛の頭脳が激しく回転した。10秒後、答えが出た。

「この農園の野菜を全部提供する代わりに対価が欲しいニャ」

アストロフ星人は試食用の野菜をあっという間に食べ終わり、名残惜しそうに畑になっている野菜を見渡した。

「何が望みだ?金か?レアメタルか?」

 どん兵衛は首を振り、「お金も欲しいが、もっと欲しいものあるニャ」と伝えた。

「空飛ぶ円盤のエンジンの設計図だニャ」

 それを聞いてアストロフ星人たちは驚き、困惑した。彼らのデジタル表示の目は、一斉に「機密情報漏洩警告」の赤色に点滅し始めた。「それは機密事項だ。提供するわけにはいかない」

「嫌ならそれでもかまわない。野菜は明日、近所のスーパーに持って行くニャ。行きつけのスーパーなら高値で引き取ってくれるニャ」とどん兵衛は冷たく言い放った。彼は知っていた。この宇宙人たちが、どれほどこの野菜を渇望しているかを。そして、彼らが恐らくやった事のない農耕をどん兵衛は惜しまない。それが彼の強みだった。どん兵衛にとって、桜井どん兵衛農園の野菜栽培は、「肉球に馴染む」作業であり、その手間こそが彼の「至福のひなたぼっこ」を邪魔しないための投資だったのだ。

 賄賂…いや、**最高の「おもてなし」**に心底感激した宇宙人たちは、お礼にと、彼らの文明の粋を集めた「反重力エンジンの設計図」をどん兵衛に手渡した。まさか猫にこんな機密情報を渡すとは、彼らもどん兵衛の野菜の魔力には抗えなかったらしい。

 3人のアストロフ星人たちは母星に帰る前に口裏を合わせようと相談していた。機密情報の漏洩は重罪だ。だが母星にこの野菜を持ち帰れば上司たちはきっと感激するだろう。だからお咎めはないに決まっている。もしかしたら勲章ものかも知れない。などと楽観的に考えていた、と言うかそう考えることにした。たださすがに少量の「宇宙芋」と「銀河キュウリ」、「至福のキャベツ」と「忠誠の人参」だけでは反重力エンジンの設計図の対価としては少な過ぎる。

 アストロフ星人たちは非常に論理的でビジネスライクな考えをする。与えたものにはそれ相応の対価を要求する。アストロフ星人たちは追加分として「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を各20キロ要求した。どん兵衛は少し考えた。「宇宙芋」も「銀河キュウリ」も先ほど食べた分が最後の在庫分だ。数ヶ月後なら次の分を収穫できる。それまで待って欲しいと伝えた。アストロフ星人たちはどん兵衛の返事にかなり不満だったが仕方なくその要求をのんだ。

 アストロフ星人たちは地球の人類にはあまり興味がなかった。人間にはどん兵衛の野菜を作ることはできないだろう。だから地球人とは形式的なファーストコンタクトで済ませた。


第5章 月を歩いた最初の猫

 割とあっさりと手に入れた設計図を基に、どん兵衛は早速、自宅の納屋で『一人乗りの小型空飛ぶ円盤「ニャンタッキー号」』を開発した。当然、操縦桿は猫の肉球にフィットする特別仕様だ。数日後、ニャンタッキー号は完成し、納屋から出した。そして地球の重力から解き放たれたどん兵衛は、悠々と月へと飛び立った。わずか数分で月の周回軌道に乗った。

 どん兵衛はニャンタッキー号を月の裏側のモスクワの海に着陸させた。NASAの長官に野菜の賄賂を送り手に入れた船外活動服に着替えるとエアロックを開け月面に降り立った。

「この肉球は小さな一歩だが猫たちにとっては大きな肉球だニャ」

 彼は月を歩いた最初の猫になった。

 1/6の重力は植物の生長に有利だ。彼はひざまずき、月の土を手ですくった。 「ふむ、月面の土壌もなかなかニャ」

 どん兵衛はいったん円盤に戻り、貨物室から様々な資材を取り出した。1/6の重力ではどの資材も軽く感じ、作業はかなり早く進んだ。居住用の月面基地を作り、その隣に優に2300坪はあるような気密ドームを作った。

 彼は月の裏側に広大な『月面どん兵衛農園』を開設した。巨大な薄緑色の旗が月面どん兵衛農園の中心で靡いている。旗にはがま口のイラストが描かれていた。

 月面どん兵衛農園では、桜井どん兵衛農園で開発された「至福のキャベツ」や「忠誠の人参」の種を元に、月面の特殊な環境(低重力、宇宙線、特殊な光)を最大限に利用した、超機能性を持つ新たな品種が次々と生産された。これらの野菜は、超高栄養価、即効性の精神作用、そして地球では考えられないような物理的特性を持つ、まさに「宇宙野菜」と呼ぶにふさわしいものだった。生産量が限られるため、地球の富裕層や特定の組織にしか流通せず、瞬く間にどん兵衛は莫大な富を築き上げたのだ。


第6章 円盤型F1マシン、サーキットを駆ける!

 そして、どん兵衛の次なる野望は、地球上で最も速いモータースポーツ、F1だった。彼は手始めに、長年のライバル関係にある名門チーム、マクラードン・レーシングとレッドンブル・レーシングを、ありったけの月面産宇宙野菜と現金で丸ごと買収した。両チームの首脳陣は、最初は猫にチームを売ると聞いて呆れたが、どん兵衛の野菜を一口食べたとたん、その契約書にサインをしていたという。彼らの表情は、まるで夢でも見ているかのようにうっとりとしていた。

 どん兵衛は、買収した両チームに前代未聞の指示を出した。「F1マシンを、空飛ぶ円盤型にするニャ!」

 エンジニアたちは困惑したが、どん兵衛が提供した宇宙人由来の反重力エンジンのデータと、月面農園で採れた集中力を極限まで高める「大宇宙ゴボウ」を配給された結果、彼らは常識を打ち破る「円盤型F1マシン」を開発してしまった。もちろんF1のレギュレーション違反だが、どん兵衛はFIAの役員に特別な月面野菜を賄賂として送っていた。FIAの役員は、どん兵衛のF1マシンはレギュレーションに則していると、満面の笑みで結論づけた。

 その年のF1世界選手権の開幕戦。世界中のモータースポーツファンが固唾を飲んで見守る中、グリッドに並んだのは、流線型の見慣れたF1マシンの中に、異彩を放つ二台の銀色に輝く円盤型マシンだった。ドライバーは、どん兵衛が「至福のキャベツ」と「忠誠の人参」でスカウトした、どん兵衛に絶対の忠誠を誓うレーサーたちだ。

 レースがスタートすると、円盤型F1マシンは反重力エンジンの力で路面からわずかに浮き上がり、信じられないコーナリングスピードを発揮した。あっという間にライバルたちを抜き去り、まるで空を飛ぶかのようにサーキットを駆け抜ける。マクラーレドンとレッドンブルの円盤型マシンは、圧倒的な速さでワンツーフィニッシュを飾り、F1界に衝撃を与えた。

「これで、F1界もこの肉球の支配下に入ったニャ」

 どん兵衛は、月面基地の自室でF1中継を見ながら、満足げにヒゲを撫でた。彼の野望は留まることを知らない。


第7章 至福の賄賂と猫ファースト世界の誕生

 月面どん兵衛農園とF1界での成功により、どん兵衛は想像を絶する富と影響力を手に入れた。しかし、彼の野望はまだ終わらない。F1レースで世界を熱狂させた後、どん兵衛は静かに、しかし確実に、地球の政治と社会の根幹へとその手を伸ばし始めた。

 どん兵衛の目的は、全世界に猫ファーストの思想を繁栄させることだ。

 彼の新たな戦略は、シンプルにして巧妙だった。巨万の富と、月面どん兵衛農園で採れる「特別な宇宙野菜」――特に、食べた者の心を穏やかにし、幸福感で満たす「至福のキャベツ」と、思考をクリアにし、どん兵衛への忠誠心を芽生えさせる「忠誠のニンジン」を、世界中の主要な政治家、経済界のリーダー、そして影響力のある団体へと、匿名で送り届けたのだ。その効果は、アストロフ星人たちで実証済みだった。

「至福のキャベツ」を食べた政治家たちは、それまでの強硬な姿勢を改め、驚くほど友好的な政策を打ち出すようになった。彼らの演説は、かつてないほど穏やかで、聴衆の心に深く響いた。そして、「忠誠のニンジン」を口にしたリーダーたちは、無意識のうちに「猫の幸福こそが、人類の幸福に繋がる」という考えに傾倒していく。

 こうして、各国の議会では次々と「猫ファースト」を掲げる法案が可決されていった。猫のための快適な住環境整備、猫専用の公園や交通機関の設置、さらには猫の鳴き声を解読する研究への巨額の投資まで。メディアはこぞって猫の可愛らしさ、賢さ、そして人類にもたらす癒やしについて報じ、猫を崇拝する風潮が世界中に広まっていった。

 人々は、どん兵衛の「特別な野菜」によってもたらされた穏やかな幸福感と、猫への純粋な愛情に満たされていた。彼らは猫のために尽くすことを喜びとし、自らを「猫の下僕(しもべ)」と称するようになった。それは、強制されたものではなく、心の底から湧き上がる奉仕の精神だった。猫の毛並みを撫でることに至上の喜びを感じ、猫のゴロゴロという喉鳴らしを聞けば、日々のストレスが消え去るのを感じた。猫を抱きかかえるための専用ベビーカーが開発され、猫専用の高級レストランでは、人間がシェフとして猫の好みに合わせた料理を振る舞った。猫の姿を模したファッションが流行し、猫の肉球をモチーフにしたアクセサリーが世界中で飛ぶように売れた。


第8章 幸福な下僕たちとどん兵衛の支配

 世界中の人間は、例外なく猫の下僕となった。彼らは猫のために働き、猫の機嫌を伺い、猫の望みを叶えることに生きがいを見出した。かつての競争社会は影を潜め、人々は猫を介して互いに協力し合うようになった。争いはなくなり、地球は猫と人間が共存する、穏やかで幸福な楽園へと変貌を遂げたのだ。

 そして、その世界の頂点に立つのは、もちろんどん兵衛だった。彼は決して表舞台には姿を現さず、月面基地の豪華な自室から、地球の「猫ファースト」な日常を眺めていた。時折、地球から送られてくる、人間たちが猫のために働く姿を映した映像を見て、満足げに目を細める。

「ニャハハ、これで世界は完全にこの肉球の支配下に入ったニャ。しかも、みんな喜んでるニャ!」

 どん兵衛は、争いや武力ではなく、**「至福の賄賂」と「猫への純粋な愛」**によって、地球を征服したのだ。人間たちは、猫の下僕として生きることに何の不満もなく、むしろ幸福を感じていた。彼らにとって、猫に尽くすことこそが、真の平和と喜びをもたらす道だったのだ。

 こうして、ジンジャーキャットのどん兵衛は、誰もが笑顔で猫に仕える、究極の「猫ファースト」世界を完成させたのだった。


第9章 白い野良猫、どん子の登場

 どん兵衛によって築き上げられた、人間が猫の下僕となる「猫ファースト」の世界。奈良県桜井市の桜井どん兵衛農園と月面どん兵衛農園から発信された穏やかな支配は、地球全体を幸福な毛布のように包み込んでいた。人間は心底から猫を愛し、猫のために尽くすことに喜びを感じていた。しかし、その完璧に見える世界に、突如として白い影が差し込もうとしていた。

 桜井市の慈恩寺近くの路地裏に、ひときわ目を引く白い野良猫がいた。

 彼女の名はどん子。

 いつも蛙のイラストがプリントされた白いシャツを着ている。どん兵衛と同じく、どこか人間の言葉を理解しているかのような賢い目を持ち、その毛並みは雪のように純粋で、まさに「白き女王」と呼ぶにふさわしかった。

 どん子は、どん兵衛が敷いた「猫ファースト」の恩恵を最大限に享受していた。人間は彼女を見かけると、最高のキャットフードを捧げ、ふかふかの寝床を用意し、優しく撫でる。しかし、どん子の心には、満たされない何かがあった。

 どん子は、どん兵衛が作り出したこの世界が、どこか「ぬるい」と感じていた。人間が自ら進んで下僕となるのは良い。だが、彼らが盲目的に猫を崇拝し、思考停止していることに、むしろ退屈さを覚えていたのだ。どん兵衛の支配は、あまりにも「牧歌的」すぎた。

「こんなもので満足しているようでは、真の支配者とは言えないニャ」

 ある日、どん子は、どん兵衛の**「至福のキャベツ」や「忠誠のニンジン」**を口にした人間たちの、どこかぼんやりとした表情を見て確信した。これは、本当の「愛」ではない。薬物によって一時的にコントロールされているに過ぎない。どん子は、真の支配とは、対象が自らの意志で、しかし抗えない魅力によって従うことだと考えていた。

 どん子には、どん兵衛のような莫大な富も、宇宙人とのコネもなかった。だが、彼女には路地裏で培われたしたたかな知恵と、どんな困難にも屈しない不屈の精神があった。そして何より、人間を意のままに操る、もう一つの「才能」を持っていた。それは、彼女自身の圧倒的なカリスマ性と、どんな人間でも一瞬で魅了する**「究極のゴロゴロ」**だった。どん子のゴロゴロは、人間の心の奥底に眠る「奉仕の欲求」を呼び覚まし、理屈抜きで猫に尽くしたくなる衝動を巻き起こすのだ。その音は、まるで魂を直接撫でられるかのように心地よく、抗う術はなかった。


第10章 どん兵衛のライバルか?それとも…

 どん子は、どん兵衛の支配体制を直接的に覆そうとはしなかった。しかし、彼女は自らの魅力と、「究極のゴロゴロ」を武器に、人間たちの中でひそかに信奉者を増やしていった。彼らは、どん兵衛が提供する画一的な幸福ではなく、どん子が示す「個」としての猫への奉仕に、より深い充実感を見出した。

 次第に、どん子に忠誠を誓う人間たちは、どん兵衛のシステムから少しずつ距離を置き始めた。彼らは、どん兵衛が定めた猫のための施設よりも、どん子が「心地よい」と感じる古びた路地裏や、自然豊かな場所を整備し始めた。どん兵衛が提供する規格化されたキャットフードではなく、どん子の好みに合わせた特別な食事を研究し始めた。

 どん兵衛は、月面基地の自室で地球の様子を監視しながら、この奇妙な動きに気づき始めていた。データ上は、依然として彼の支配下にあるはずの人間たちが、どうも別の「猫」の意向を汲んでいるらしい。

 これは、どん兵衛にとって初の、そして最大の「ライバル」の出現なのか?それとも、どん子が目指すのは、どん兵衛の支配を打ち破ることではなく、猫ファーストの世界における**「新たな多様性」**の創出なのだろうか?

 どん子とどん兵衛、二匹の賢い猫の知られざる戦いは、今、静かに始まりを告げたのだった。


第11章 宿命の対決:どん兵衛とどん子

 月面からの支配者、どん兵衛。そして、路地裏から人間を魅了する白いカリスマ、どん子。二匹の猫の存在は、猫ファーストの世界で緩やかに、しかし確実に緊張感を生み出していた。そしてついに、その対峙の時が訪れた。

 どん兵衛が地球の動向を監視する中、どん子に心酔する人間たちのコミュニティが、彼の管理システムから逸脱し、独自の「猫ファースト」を築き上げていることが明らかになった。特に、どん子の「究極のゴロゴロ」によって、人間たちが自らの意志でどん子に尽くしているという事実は、どん兵衛にとって看過できないものだった。彼の月面産野菜による「至福の賄賂」とは異なる、本能に訴えかける支配の形。

 どん兵衛は、月面基地の豪華な司令室から、ニャンタッキー2号で地球の桜井市の慈恩寺近くに降り立った。そしてどん子を探した。

 彼の前に現れたどん子は、路地裏のエアコンの室外機の上で優雅に座り、どん兵衛を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、支配者としての威厳と、野良猫ならではの狡猾さが同居していた。

 どん兵衛は、自身の築き上げたテクノロジーと富に絶対の自信を持っていた。彼はどん子に直接交渉を試みたが、どん子の放つ「野良猫育ちのオーラ」は、どん兵衛の洗練された理論や交渉術を軽々と跳ね除けた。どん兵衛の黄金色の毛並みが、どん子の白いオーラに触れると、まるで静電気が走ったかのように逆立ち、尻尾は不自然に丸まった。彼の完璧に計算された言葉は喉の奥に引っ込み、額には冷や汗がにじむ。路地裏の野生的な魅力は、温室育ちのどん兵衛にはあまりにも強烈だったのだ。

 どん兵衛はいったんニャンタッキー2号に逃げるように帰った。そしてニャンタッキー2号を近くにある外鎌山(とかまやま)の目立たない場所に隠した。


第12章 ロボット大戦、初瀬ダムでの戦い

 屈辱を味わったどん兵衛は、その知能をフル稼働させた。データ解析、シミュレーション、そして宇宙技術の粋を集め、どん子に対抗するための秘密兵器の開発に着手したのだ。

 彼のニャンタッキー2号の作業室は、連日徹夜で稼働し、無数のロボットアームが火花を散らした。そして数日後、ついにその傑作が完成する。

 ニャンタッキー2号の側面にあるハッチが、重々しい音を立てて開いた。中から現れたのは、銀色のボディが月光を反射する、巨大な猫型ロボット「メガニャンダーZ」だった。その全高は5メートルにも及び、鋭い耳はアンテナのように空を突き刺し、瞳は真紅のレーザーポインターを放つ。最新鋭の反重力装置を搭載し、滑らかな動きで大地を踏みしめる。

 レーザーポインター砲、自動おやつ投下システム、高速猫じゃらしアーム、そして猫の鳴き声を模倣して相手を混乱させる音響兵器など、あらゆる猫型兵器が搭載されていた。

 コクピットに乗り込んだどん兵衛は、モニターに映るどん子の姿を睨みつけ、高らかに宣言した。

「ニャッハッハ!これで貴様も終わりニャ!このメガニャンダーZの前にひれ伏すニャ!」

 しかし、どん子の動きは、どん兵衛の想像をはるかに超えていた。メガニャンダーZが起動すると同時に、路地裏の影から現れたのは、廃材とガラクタで作られたかのような、どこか間抜けな姿のロボットだった。古びたドラム缶の胴体に、錆びたバケツの頭、そしてほうきの柄が腕のように伸びている。それは、どん子に魅せられた人間たちが、どん子の命令(らしきもの)を受けて、夜なべして作り上げたものだった。

 名は**「どらねこ号」**。その機能は、猫じゃらしアームと、人間が手回しで発動させる「究極ゴロゴロ増幅装置」という、ごくシンプルなものだった。しかし、その見た目とは裏腹に、どらねこ号の周りには、どん子に心酔する大勢の人間たちが集まり、熱狂的な声援を送っていた。

 2台のロボットは、桜井市の初瀬ダムの上で向かい合った。巨大なメガニャンダーZと、その足元にも満たないどらねこ号。人間や猫たちが遠巻きで興味深げに見守る中、戦いの火蓋が切って落とされた。

 メガニャンダーZが、その真紅のレーザーポインターをどん子に向けた、その時!どらねこ号の猫じゃらしアームが、ひょいと伸びてメガニャンダーZの目の前でフワフワと揺れた。どん兵衛は思わずそちらに視線を奪われる。その隙に、どらねこ号のスピーカーから、どん子の「究極のゴロゴロ」が増幅されて響き渡る!その音は、ダム湖の水面を震わせ、周囲の人間たちの心を一瞬にして奪った。

「ゴロロロロロ……」

 その瞬間、メガニャンダーZのAIシステムに異常が発生した。ロボットを操縦していたどん兵衛の集中力が乱れ、脳内を直接撫でられるような心地よさに襲われたのだ。彼の脳裏には、最高の ひなたぼっこで微睡む至福の光景がフラッシュバックし、全身に幸福感と奉仕の衝動が駆け巡った。

 メガニャンダーZは制御を失い、自らがおやつ投下システムを暴発させ、大量の最高級キャットフードをまき散らしながら、どん子の足元に膝まずいた。猫たちが一斉にまかれたキャットフードに群がり、至福の表情でむさぼり食う。

「ニャ、ニャニャニャニャ……!?」

 どん兵衛は、ロボットのコクピットの中で、信じられないものを見るように固まっていた。彼の完璧な計画は、どん子の本能的な魅力と、人間たちの純粋な奉仕によって、あっけなく打ち砕かれたのだ。彼のプライドは、粉々に砕け散った。

 どん兵衛の敗北は、単なるロボットバトルの結果ではなかった。それは、**「管理された幸福」と「本能的な幸福」**の衝突であり、テクノロジーとカリスマの対決だった。

 どん兵衛はポンコツと化したメガニャンダーZを放棄し、逃げるようにニャンタッキー2号に乗り、月面基地に帰っていった。彼の背中には、敗者の哀愁が漂っていた。

 完璧な計画が破られたことで、どん兵衛はより深くどん子を分析し、自らの支配戦略を見直すことになるだろう。彼はどん子の「究極のゴロゴロ」を解析し、それを自身のテクノロジーに組み込もうと考えた。彼のプライドは、このままでは終わらないはずだ。


第13章 どん兵衛の逆襲、メカ炬燵の罠

 どん子とのロボット対決にまさかの惨敗を喫したどん兵衛は、月面基地へと引きこもり、屈辱に苛まれていた。彼はこれまでのデータ解析を全て白紙に戻し、どん子という「野生」の存在を根本から理解することに全力を注いだ。そして、ついに一つの仮説にたどり着く。

「ニャるほど…野良猫の最大の弱点、それは寒さニャ!」

 どん兵衛は、どん子がどんなにカリスマ的であろうと、所詮は野良猫。厳しい冬の寒さの中で震え、温かい場所を求めていたはずだ。その記憶が、彼女の深層心理に刻まれているに違いない。どん兵衛は、その弱点を突くことで、どん子を自らの支配下に置けると確信した。

 彼はすぐさま、月面基地の最新鋭ラボで**「対どん子用メカ炬燵」**の開発に取り掛かった。ただの炬燵ではない。猫が一度入ったら二度と出られなくなるほどの、究極の心地よさを追求した代物だ。内部はあらゆる猫の好みに合わせて温度と湿度を完璧に調整できるだけでなく、自動毛づくろいアーム、無限に出てくる最高級猫缶、そして肉球マッサージ機能まで完備されていた。極めつけは、猫が最もリラックスする周波数のゴロゴロ音を生成する「至福の波動発生装置」だ。

 なおこの時、どん兵衛はアストロフ星人との約束の「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の栽培の事をすっかりと忘れていた。

 自信満々のどん兵衛は、完成したメカ炬燵の最終調整のため、自らその中に入り込んだ。

「ふむ、まずはこのどん兵衛様が完璧さを確認するニャ」

 フワリと包み込むような温かさ。全身を撫でる毛づくろいアームの繊細な指先が、彼の毛並みを優しく梳く。鼻腔をくすぐる最高級猫缶の芳醇な香り。肉球からじんわりと伝わる心地よい振動は、まるで母猫に揉まれているかのようだった。そして、脳髄を直接揺さぶるような、とろけるゴロゴロの波動が、どん兵衛の意識を遠い彼方へと誘う…。

「ニャあああああ……こ、これは…!!」

 どん兵衛は、まさに至福の境地に達した。彼の脳内では、ドーパミンが泉のように湧き出し、エンドルフィンが全身を駆け巡った。野望、支配、ライバル、そんなものは全て遠い彼方に霞んでいく。ただ、この温かく、柔らかく、満たされた空間に永遠に身を委ねていたい。

 気がつけば、どん兵衛はメカ炬燵の中から一歩も出られなくなっていた。出ようとすると、身体が重く感じ、強烈な睡魔に襲われる。無理に動こうとすれば、究極の快適さが彼を引き戻すのだ。

 これは猫をダメにする恐ろしい兵器だった。彼は完璧な「対どん子用」兵器を作り上げたが、その最大の犠牲者は、皮肉にも彼自身だった。

 月面基地で、最高のメカ炬燵の中でとろけているどん兵衛。 地球では、どん子に魅了された人間たちが、自らの意思で、しかし喜んで猫に尽くす「本能的猫ファースト」の世界をさらに拡大させている。

 どん兵衛が開発したはずのメカ炬燵は、彼自身を閉じ込める、予想外の「究極の罠」となってしまった。

 地球上の全人類はどん子の支配下にあった。しかし一部の人間は桜井どん兵衛農園の野菜の美味しさを懐かしく思った。


第14章 どん兵衛の目覚めと最後の賭け

 地球上の全人類が、どん子のカリスマ的な支配下に置かれていた。彼女の「究極のゴロゴロ」と本能的な魅力は、人間たちを縛り付けることなく、しかし完璧な「猫の下僕」へと変えていた。人々は路地裏でどん子の姿を求め、彼女のために尽くすことにこの上ない幸福を感じていた。

 どん兵衛が開発した月面産の「至福のキャベツ」や「忠誠のニンジン」による画一的な幸福とは異なり、どん子の支配はより自由で、個々の人間が猫への奉仕を通じて自己実現するような、牧歌的な世界だった。

 しかし、どん兵衛が築き上げた“古き良き”「猫ファースト」の世界を懐かしむ声も、一部の人間の間で静かに上がり始めていた。彼らが懐かしんだのは、何よりも桜井どん兵衛農園の野菜の味だった。そしてあの月面で育った宇宙野菜の絶妙な甘みや、地球では味わえない豊潤な香りは、どん子の支配下では手に入らないものだったのだ。どん子は、カリスマ性はあっても、残念ながら野菜作りは全くできなかった。

 月面基地のメカ炬燵の中で、至福の時を過ごしていたどん兵衛。だが、完璧な快適空間にも唯一の欠点があった。それは、トイレの概念が完全に抜け落ちていたことだ。 猛烈な尿意に襲われたどん兵衛は、いくら心地よくてもこのままではどうにもならないと悟った。

 至福のゴロゴロ音と肉球マッサージ機能に抵抗しながら、彼は嫌々ながらメカ炬燵の中から這い出しそして慌ててトイレに駆け込んだ。「ふぅ…間に合ったニャ…危なかったニャ…」どん兵衛は手を洗いながら目の前の鏡を見た。その瞳には、久しぶりに野望の炎が宿っていた。

「ニャあ…人間よ、ワガママな下僕どもめ。このどん兵衛様がいなければ、あの桜井     どん兵衛農園の野菜は食えないと、今頃気づいたニャ!」


第15章 どん兵衛、夏の地球でメカ炬燵を繰り出す

 どん兵衛は、残された最後の力を振り絞り、あの究極の「対どん子兵器」、猫をダメにするメカ炬燵を宇宙船に積み込んだ。

 彼は地球へと向かう軌道上で、完璧な作戦を練った。どん子を、この心地よさの罠に閉じ込めれば、再び自分が世界の支配者になれる。彼の計算では、冬の寒さに慣れ親しんだ野良猫のどん子にとって、このメカ炬燵は抗えない魅惑の罠となるはずだった。

 桜井市の、どん子がいつも昼寝をしている路地裏に、どん兵衛は月面から持ち込んだメカ炬燵をそっと置いた。その巨大な物体が、アスファルトの上に鎮座する光景は、どこかシュールだった。周囲の人間たちは、また新たな猫用施設かと興味津々で見守っていた。

 どん兵衛はメカ炬燵のスイッチを入れ、どん子が目覚めるのを待った。しかし、彼は決定的な見落としをしていた。メカ炬燵を地球に持ってきたのは、真夏の太陽がギラギラと照りつける、最も暑い季節だったのだ。

 路地裏の気温は30度を超え、アスファルトは熱気を帯びていた。どん子が目を覚まし、目の前の巨大な箱を見つめる。中からは微かに「至福のゴロゴロ」の音が聞こえてくるが、それと同時にムワッとした熱気が漏れ出していた。どん子は顔をしかめ、一歩、また一歩と後ずさりする。

「ニャー…(暑苦しいニャ…)」

 どん兵衛はメカ炬燵の陰から飛び出し、どん子に向かって自信満々に鳴いた。「さあ、入るニャ!これが究極の至福ニャ!」

 しかし、どん子はどん兵衛を一瞥すると、そのまま日陰にある古びたクーラーの室外機の上へと飛び乗った。そこは日陰になっていて自然の涼しい風がそよいでおり、どん子は心地よさそうに目を細めた。彼女にとって、この真夏の猛暑の中で、あえて暖かく蒸し暑い炬燵の中に入るなど、狂気の沙汰だったのだ。

 どん兵衛は愕然とした。彼の完璧な計画は、季節という、あまりにも単純な要素によって打ち砕かれたのだ。メカ炬燵は、猛暑の中でただの熱気を放つ、迷惑なガラクタと化した。

 この光景を見た人間たちは、戸惑った。どん兵衛が提供しようとした「究極の快適さ」は、どん子には全く響いていない。そして、どん兵衛が必死にメカ炬燵をアピールする姿は、どこか滑稽に映った。

 どん兵衛は、再び窮地に立たされた。彼の「対どん子兵器」は、まさかの自爆。そして、彼が最も得意とするはずの「完璧な計算」が、自然の摂理の前にもろくも崩れ去ったのだ。

 真夏の路地裏で、どん兵衛は失意の底にいた。完璧なはずの「対どん子兵器」であるメカ炬燵が、季節という単純な要素で無力化されたのだ。どん子は相変わらず室外機の上で涼み、人間たちは変わらず彼女に尽くしている。彼の頭脳は限界を迎えていた。彼は残るニャンタッキー2号のエネルギーをかき集め、月面基地へと舞い戻った。


第16章 南海トラフ大地震発生

 どん兵衛が月面基地であれこれ悩んでいた時、思わぬ事態が襲った。

 日本では予てより懸念されていた南海トラフ巨大地震が発生したのだ。日本列島は奈良県桜井市を中心に激しく揺れ、広範囲で甚大な被害に見舞われた。

 ライフラインは寸断され、人々は混乱し、不安に駆られた。大和原発の原子炉は破壊され放射能の汚染が広がった。

 どん子の「究極のゴロゴロ」による穏やかな支配も、自然の猛威の前には一時的にその効力を失いかけた。人間たちは、生存と復旧のために、久しく忘れていた「自力で解決する力」を試されることになったのだ。

 どん兵衛は月の裏側で何もすることができなかった。万策尽きたどん兵衛が唯一頼れるのは、かつて反重力エンジンの設計図をくれたあのアストロフ星人たちだった。約束の「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の事はどん兵衛は都合良く忘れていた。

 そして、宇宙との通信回線を繋ぎ、藁にもすがる思いで助けを求めた。「俺が開発した月面どん兵衛農園で開発した特別の宇宙野菜を、地球に届けてほしいニャ!日本の猫たち、そして人間たちを救うためニャ!」

 もちろん、どん兵衛の真の目的は、月面産野菜によって人類の信頼を取り戻し、再び自分が地球の支配猫となることだった。

 アストロフ星人たちは、どん兵衛の窮状を理解した。しかし、彼らはただで手を貸すような甘い存在ではない。

「地球の猫よ、我々は協力しよう。だが、対価は必要だ」と、画面に映る宇宙人の代表は語った。

「我々は、そなたの月面どん兵衛農園の野菜、特にあの『至福のキャベツ』と『忠誠のニンジン』を熱望している。そして、そなたが開発したメカ炬燵もだ。我々の惑星は、真冬でも地球の夏ほどの暑さになる。あれは我々の惑星の住民にとって、まさに『究極の冷凍庫』となるだろう!メカ炬燵を100台要求する」

「どうしてメカ炬燵の事を知ってるんだニャ?」どん兵衛はマイクに向かって聞いた。

 アストロフ星人は「そなたは「宇宙芋」と「銀河キュウリ」をまだ栽培していない。だからそなたが契約を履行するまで我々は監視衛星で月面どん兵衛農園を逐次観察している。その時にメカ炬燵を見つけたのだ」そうアストロフ星人は答えた。

「そ、そうか。「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の栽培には地球の大和川の水と奈良公園の鹿の糞と俺の桜井市の住処の畑が必要ニャ。もう少し待ってくれニャ」

 どん兵衛は月面どん兵衛農園がアストロフ星人に監視されている事に焦った。「宇宙芋」と「銀河キュウリ」は在庫をすべて渡してしまった。新たに栽培するのはとてつもなくめんどくさい。よって未だに栽培には手をつけていない。しかしこれはアストロフ星人には黙っておくことにした。

 しかしメカ炬燵を要求するとは…。どん兵衛は、メカ炬燵の心地よさに自らが囚われたことを思い出し、複雑な表情を浮かべた。しかし、どん子に打ち勝つためには、宇宙の智慧を借りるしかない。背に腹はかえられない。メカ炬燵を積めばより多くの野菜を運んでくれると言うアストロフ星人の要求を渋々ながらも承諾した。

 どん兵衛は農園用作業ロボットの予備を改良しメカ炬燵製造ラインを作った。やがてメカ炬燵が100台完成した。


第17章 地獄絵図の日本、届かぬ救助の手

 南海トラフ巨大地震は、日本列島を未曾有の大混乱に突き落とした。津波が沿岸部を飲み込み、さらに追い打ちをかけるように金剛山と三輪山が大噴火。空は火山灰で覆われ、海は瓦礫と泥にまみれた。

 桜井どん兵衛農園の野菜は火山灰で全滅した。世界中の人類は、日本の猫たちを救うべく、かつてない規模の多国籍救助隊を結成した。猫ファーストの世界において、日本の猫たちは特別な存在だったのだ。しかし、津波で港は壊滅し、火山灰で滑走路は閉鎖。救助の船も飛行機も、日本に近づくことすら叶わない。上空に高く舞い上がった火山灰は日本列島を太陽から熱を遮断し気温が急激に下がった。

 通信網が寸断された日本から届くのは、絶望的なニュースばかりだった。特に深刻だったのは、猫たちの食料問題だ。地震でキャットフードの製造工場が軒並み破壊され、貯蔵されていたフードは大和原発から漏れ出した放射能で使用不能に。猫たちは、日に日に飢えに苛まれ始めていた。どん子に魅せられた人間たちも、自らの生存すら危うい状況で、猫たちの飢えを止める術を持たなかった。どん子の「究極のゴロゴロ」も、空腹には勝てない。

 この地獄のような状況を、月面基地で監視していたどん兵衛の目に、再び野望の光が宿った。

「ニャッハッハ!これこそ、このどん兵衛様が返り咲く絶好の機会ニャ!」

 アストロフ星人の円盤は月面どん兵衛農園で収穫された超機能性の宇宙野菜を次々と積み込んでいく。農園で採れた宇宙野菜はすべて円盤に積み込み、月面どん兵衛農園の野菜の在庫はゼロになった。

 やがて超機能性の宇宙野菜とメカ炬燵を満載した円盤はゆっくりと上昇した。どん兵衛は、宇宙船が地球へと向かうのを確信し、高笑いした。

「これで、地球は再びこのどん兵衛様のものニャ!どん子よ、ざまあみろニャ!」

 しかし、彼の期待は無残にも打ち砕かれた。宇宙船は地球へとは向かわず、そのまま遥か彼方の星空の奥へと針路を取り、自らの故郷へと帰っていったのだ。


第18章 残されたどん兵衛、そして飢える猫たち

 どん兵衛は、月面基地のモニターの前で、信じられない光景に打ち震えていた。

 宇宙人は、どん兵衛の窮地を利用して、超機能性の野菜と、彼らの星で「究極の冷凍庫」となるメカ炬燵を手に入れただけだったのだ。完璧なはずの計算が、またしても裏目に出た。

「くっそ~!どうして何もかもうまくいかないんだニャ!」どん兵衛は歯ぎしりした。

 地球では、飢えと寒さに苦しむ猫たちの悲痛な鳴き声が、救助の届かぬ日本列島に響き渡っていた。どん兵衛の最後の望みは絶たれ、どん子もまた、この絶望的な状況に何もできないでいた。

 どん子は目の前の災難を打開するために奔走した。どん子自身は野良猫だったので飢えも住処が無くなるのも平気だった。しかし家猫や人間が苦しんでいるのを放っておくわけには行かない。

 いつまで待っても救助隊は来ない。畑も火山灰で壊滅状態だ。どん子は絶望感に苛まれ夜空を見つめた。空には火山灰の雲の隙間から冷たい光を放つ月が輝いていた。


第19章 どん子の葛藤、そして絶望の夜空

 南海トラフ巨大地震と噴火による未曾有の災害は、日本の猫ファーストの世界を地獄へと変えていた。特に深刻なのは、キャットフード工場の壊滅による猫たちの飢えだった。桜井市の路地裏で、どん子は目の前の惨状に心を痛めていた。

 どん子自身は野良猫育ちだ。飢えも、住処を失うことも、冬の寒さも、彼女にとっては慣れたことだった。しかし、ぬくぬくとした家の中で人間たちに甘やかされてきた家猫たちが、飢えと寒さで震える姿を見るのは耐え難かった。彼らの痩せ細った体、力ない鳴き声は、どん子の心を深く抉った。そして何より、自分に心酔し、献身的に尽くしてくれた人間たちが、食料も水もままならず、不安と疲労で倒れていくのを見るのは、どん子にとって初めての経験だった。彼らの目から光が失われていくのを見て、どん子は胸が締め付けられるような無力感に襲われた。

「ニャア…(なぜ誰も助けに来ないニャ…)」

 猫や人々は懸命に作業を続けていたが、津波と火山灰は想像を絶する被害をもたらしていた。

 畑は火山灰に覆われ、作物の育成は不可能。食料は尽き、救助隊も近づけない。どん子は、この状況をどうにかしようと、被災した町を走り回り、知恵を絞り、必死に奔走した。瓦礫の山を駆け上がり、崩れた建物の隙間をすり抜け、生存者を探し、わずかな食料の匂いを嗅ぎ分けた。

 しかし、彼女のカリスマも、この自然の猛威と飢餓の前には無力だった。彼女の小さな肉球は泥と灰にまみれ、毛並みは汚れ、その瞳には疲労と絶望の色が深どん子の「究極のゴロゴロ」も、飢えと絶望には届かない。それでも、彼女は諦めなかった。瓦礫の隙間から差し込む月光の下、どん子は必死に、この状況を打開する方法を模索し続けた。


第20章 絶望の淵に、希望の光

 いつまで待っても救助の兆しはない。人々の顔からは活気が消え、猫たちの鳴き声は日に日に弱々しくなっていく。どん子は、生まれて初めて本当の絶望感に苛まれていた。一体どうすれば、この状況を打開できるのか。考えるほどに、無力感がどん子の小さな体を蝕んだ。

 その夜も、どん子は桜井市の瓦礫の山の上に座り、静かに夜空を見上げていた。鉛色の空に、ぽっかりと浮かぶ満月が冷たく輝いている。その月の光を浴びながら、どん子はただ、この終わりの見えない苦しみから解放されることを願っていた。

 その時だった。

 どん子の視線の先、月の輝く空から、小さな光がゆっくりと降りてきたのだ。それはまるで、希望の星が舞い降りてくるかのようだった。光は徐々に大きくなり、やがてそれは見慣れた形――一人乗りの宇宙船であることが分かった。宇宙船の横にはがま口のイラストが描かれている。宇宙船はどん子が座る瓦礫の山から少し離れた場所に、静かに着陸した。

 そして、船のハッチが音もなく開き、中から降り立ったのは、他ならぬどん兵衛だった。

なぜ、ここに? どん子の瞳には、驚きと、そしてかすかな期待の光が宿っていた。            どん兵衛の登場は、どん子にとって、計算された支配への反発という感情を超え、純粋な「助け」への希望として映った。この絶望的な状況で、彼がここにいるという事実そのものが、彼女の心を揺さぶったのだ。

 地球の猫たちの絶望の淵に、どん兵衛が舞い戻った。彼は何のために来たのか。そして、この再会は、飢えと混乱に喘ぐ日本に、一体何をもたらすのだろうか?


第21章 かすかな希望の鍬(くわ)

 どん子は、瓦礫の山に降り立ったどん兵衛の姿を認めると、警戒を露わにした。耳をぴたりと伏せ、瞳を細めて、低く「シャーッ!」と威嚇の声を上げた。かつて世界の支配を巡って争ったライバル。どん子にとって、この非常時に彼の存在が何を意味するのか、皆目見当もつかなかったのだ。

 どん兵衛は、どん子の鋭い威嚇に思わずたじろいだ。しかし、彼はひるまなかった。疲労と絶望に満ちた桜井市の光景が、彼の背中を押していた。

 彼はゆっくりと宇宙船に戻ると、中から鍬(くわ)を取り出した。それらは、彼がまだ住処の小さな畑を耕している時から使用している鍬だった。使い古されて柄の部分は変色し黒光りしている。

 どん兵衛は、どん子の威嚇をかわすように、火山灰で覆われたかつての畑へと足を進めた。土壌は灰にまみれ、見るも無残な状態だった。だが、どん兵衛の瞳は、その荒れた大地の中に、かすかな可能性を見出していた。彼は腰をかがめると、小さなポーチから取り出した特殊な薬剤を、灰の積もった土壌に丁寧に撒き始めた。それは、彼がかつて、最高の野菜を作るために苦心して開発した、「究極の野菜成長促進剤」だった。

 薬剤を撒き終えると、どん兵衛は鍬を手に取り、慣れた手つきで重い灰をかき分け、硬くなった土を丹念に耕し始めた。彼の動きは、かつて奈良の畑で夢を育んでいた頃と変わらない。その背中には、支配者としての傲慢さよりも、一匹の農夫としての泥臭い情熱が宿っていた。

 どん子の威嚇は、いつしか止まっていた。彼女は、どん兵衛の意外な行動をじっと見つめていた。瓦礫と火山灰に覆われたこの絶望的な状況で、どん兵衛は何をしようとしているのか?彼の行動の真意は分からない。しかし、目の前の猫が、ただ無策に座り込んでいるわけではないことを、どん子は本能的に感じ取っていた。

 飢えに苦しむ日本の猫たち、そして人間たち。彼らの運命は、今、月面から帰還した黄金の猫の、鍬を握る小さな肉球に託されようとしていた。


第22章 奇跡の成長

 どん兵衛は、その小さな体からは想像もできないほどの集中力と力で、火山灰に覆われた畑を耕し続けた。鍬と鋤を巧みに操り、約100坪もの土地を丹念に整地する。そして、彼は懐から厳重に保管していた種を取り出し、一本一本、心を込めて土へと蒔いていった。その種は、かつて月面農園で栽培されていた、究極の栄養価と風味を誇る「至福のキャベツ」と「忠誠の人参」の種だった。

 薬を撒き、耕された土壌に種が蒔かれると、奇跡が起こった。どん兵衛が開発した「野菜成長促進剤」の効果は絶大だった。種から芽が出たかと思うと、それは見る見るうちに幹となり、葉を広げ、たった一日で人間の膝丈ほどにまで成長した。二日目には実がつき、三日目にはもう、収穫できるほどに熟していたのだ。

 どん子の警戒心は、いつの間にか消え失せていた。目の前で繰り広げられる奇跡と、どん兵衛の真剣な眼差しに、彼女はただ見入っていた。そして、気づけばどん子もまた、小さな前足で落ちた実を転がしたり、葉陰に隠れた野菜を見つけたりと、どん兵衛の作業を手伝い始めていた。飢えに苦しんでいた他の猫たちも、そして人間たちも、どん兵衛の畑に集まり、希望に満ちた目で成長を見守り、収穫作業に加わった。人間たちは、猫のために瓦礫の中から使えそうな道具を探し出し、どん兵衛の指示に従って土を運び、水を汲んだ。

 猫たちは、獲れたての瑞々しい野菜を口に運び、その生命力で活力を取り戻すと、人間たちの足元に寄り添い、優しく喉を鳴らした。そのゴロゴロ音は、疲弊した人間たちの心に、かすかな希望の光を灯した。


第23章 飢餓からの脱却、しかし届かぬ救いの手

 みるみるうちに畑は豊穣の恵みで溢れかえった。収穫された野菜は、まず飢えに苦しむ猫たちに与えられた。猫たちはむさぼるように野菜を平らげ、その体には再び活力が戻っていく。次に人間たちもその野菜を口にし、飢餓状態を脱することができた。桜井市全域に、再び穏やかな空気が戻り始めたのだ。どん兵衛がもたらした桜井どん兵衛農園の奇跡の野菜は、猫と人間の命を救った。どん兵衛は、再び人類の救世主となったことに満足げな表情を浮かべたが、彼の視線は日本の惨状に向けられていた。飢餓からは脱したものの、復興への道はあまりにも長く、険しい。

 その頃、日本の惨状を知った世界中の多国籍救助隊が、ようやく日本の沿岸に到達した。彼らは物資を運び込み、瓦礫の撤去や負傷者の救助に全力を尽くした。人類はできる限りの力を尽くし、日本の猫たちを安全な場所へと避難させ、ケアを行った。しかし、日本を襲った南海トラフ巨大地震と噴火の規模はあまりにも甚大だった。広範囲に及ぶ破壊と、未だくすぶる火山灰の影響、そして破壊された原子炉の放射能の除去は、救助隊の努力だけでは焼け石に水だった。

 どん子の瞳は、依然として遠くを見つめていた。奇跡の野菜で一時的に命を救ったものの、この国全体をどうにかしなければ、真の平和は訪れないことを、彼女は理解していた。

 日本の未来は、そして猫ファーストの世界の未来は、どん兵衛の野菜だけでは解決できないほどの、深い傷を負っていたのだ。


第24章 宇宙人の帰還、そして日本の救済

 日本の惨状が続く中、夜空にひときわ明るく輝く光が降り注いできた。どん兵衛もどん子も、猫たちも人類も、誰もが驚き、空を見上げた。やがて、その光の主、巨大な円盤が、桜井市の**大神神社(おおみわじんじゃ)**の広大な駐車場に音もなく着陸した。それは、かつてどん兵衛から野菜とメカ炬燵を持ち逃げした、あのアストロフ星人たちの宇宙船だった。

 円盤から降りてきた3人のアストロフ星人たちは、恐縮した様子でどん兵衛に近づいた。アストロフ星人のデジタル表示の目が弱々しく点滅している。その場にいたどん子や他の猫たち、そして人類は、何が起こるのかと遠巻きに見守るしかなかった。アストロフ星人たちは、どん兵衛に深々と頭を下げた。

 「地球の猫よ、まことに申し訳ない。貴殿の月面どん兵衛農園の野菜を母星に持ち帰るつもりだったのだが、途中で、そのあまりの美味しさに、すべて食べてしまった。そして、月面基地に戻ったが、貴殿は留守だった。そこで、この地球へと参った次第だ」

 宇宙人たちは、さらに続けた。

「我々は、この日本の惨状を宇宙から見ていた。我々の科学力をもってすれば、この程度の災害は容易に解決できる。その代わり、この地球の復興と引き換えに、貴殿の月面どん兵衛農園の野菜と、我々の惑星の暑さ対策に完璧なメカ炬燵を、定期的に我々の星へ輸出してほしい。我々は、地球と新たな貿易協定を結びたいのだ」

 どん兵衛は、宇宙人の言葉にほくそ笑んだ。これで、再び自分が世界の中心に返り咲ける。しかし野菜とメカ炬燵を持ち逃げしたことは許せない。

「おまえたちは俺との約束を破って特別な宇宙野菜とメカ炬燵を持ち逃げしたニャ。これは立派な犯罪だニャ」

 アストロフ星人たちはどん兵衛の言葉に困惑した。契約不履行はアストロフ星人にとってあってはならないことだった。3人のアストロフ星人たちはデジタル表示の目を激しく点滅させた。

「た、確かに貴殿の言うとおりだ。謝罪しよう。しかしなぜ貴殿は「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を栽培しないのだ?これも契約不履行だ。これでおあいこだ。よって我々は貴殿との反重力エンジンの契約は少し伸ばしても良い。ただし今更契約破棄はない。一刻も早く「宇宙芋」と「銀河キュウリ」を渡して欲しい」

 どん兵衛は有利な立場に立ったと思ったがすぐに覆された。合理化、効率を重んじるアストロフ星人を論破できるほどの交渉術は持ち合わせていない。

 彼は一つだけ条件を提示した。

「良いニャ。だが、桜井どん兵衛農園で育つ野菜は、日本の猫たちと人間たちのものニャ。これは譲れない条件ニャ」宇宙人たちは、その条件をあっさりと快諾した。彼らにとっては、月面どん兵衛農園の宇宙野菜の安定供給が重要だったのだ。


第25章 どん子の思想とどん兵衛の気絶

 その夜、どん兵衛は宇宙人との交渉を終え、桜井市内に用意された自身の部屋で、ご満悦の様子でyoutubeでF1レースを観ていた。相変わらずどん兵衛がオーナーの「マクラードン」と「レッドンブル」の円盤型F1マシンが圧倒的な速さだ。至福の表情でゴロゴロと喉を鳴らしていると、静かに部屋の扉が開き、どん子が姿を現した。

 どん兵衛は一瞬身構えた。どん子はどんな要求をするのか?しかし、どん子の様子はいつもと違った。彼女はどん兵衛の隣に静かに座ると、自らの思う**「猫ファースト」の思想**をとうとうと語り始めたのだ。

「ニャア…(どん兵衛よ、お前が目指したのは、人間を管理し、猫が一方的に支配する世界だ。月面産野菜による幸福は、確かに強力だが、それは真の愛ではない。人間は、薬物によって思考を停止させられ、ただ与えられた幸福を享受しているに過ぎないニャ。だが、私の猫ファーストは違うニャ。人間は、猫の存在そのものから喜びを見出し、自ら進んで奉仕する。そして、猫は人間を、道具ではなく、愛すべき『下僕』として受け入れる。そこに強制はないニャ。真の猫ファーストとは、共感と、互いの幸福を願う心によって築かれるものニャ…)」

 どん兵衛は、神妙な顔でその言葉に耳を傾けていた。彼の脳裏には、月面で超機能性宇宙野菜を育て、F1を制し、そして今回の災害で桜井どん兵衛農園の野菜で猫たちを救った自分の功績がよぎっていた。

 しかし、どん子の言葉は、彼の知性では割り切れない、本能的な何かに訴えかけてくるようだった。その心地よい語り口と、思考を促すような静かなトーンは、彼の理屈を超えて心を揺さぶった。

 …そして、どん兵衛はそのまま、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、寝てしまった。

 どん子は、すやすやと眠りこけるどん兵衛を見て、呆れたような、しかしどこか優しい眼差しを向けた。そして、彼女は右前足を振りかぶると、その肉球で、どん兵衛の頭に渾身の猫パンチを食らわせた。「ニャアッ!(話を聞けニャ!)」

どん兵衛は「ニャッ!?」と奇妙な声を上げて飛び起きかけたが、その衝撃と深い眠気によって、そのまま気絶してしまった。


第26章 全世界猫ファースト会議、新時代へ

 アストロフ星人たちのテクノロジーは見事なものだった。噴火した金剛山や三輪山を死火山にした。上空に舞い上がった火山灰は一掃され破壊された原子炉を修復し、危険な放射能も除去された。インフラを復旧させ、小型円盤で日本全体に各国からの支援物資を運んだ。日本はわずか1週間で大部分が復興した。

 アストロフ星人はそれを見届けると「3ヶ月後に月面どん兵衛農園の宇宙野菜を引き取りに来る。これからは地球の代表者としてどん子殿と契約の話し合いをする」と言った。

 どん兵衛はムッとして「俺と契約するんじゃないのか?」と聞いた。

「貴殿はまだ桜井どん兵衛農園の「宇宙芋」と「銀河キュウリ」の契約が履行されていない。契約不履行の者とは話し合う余地はない」アストロフ星人は冷たく言った。どん兵衛は再びムッとしたが黙っていた。そしてアストロフ星人の円盤は地球から去って行った。

 1ヶ月後、「全世界猫ファースト会議」が桜井市立猫ホールで開催されることになった。会議には、世界各国から集まった人類の代表と、猫たちの代表が参加した。どん兵衛は出席したが、どん子は「こんなかた苦しい場所に行くのはまっぴらニャ」と、会議室の入り口で猫パンチを食らわせてどん兵衛を追い払った。しかし、どん子の意思は、彼女に心酔する人間たちが、その場で代弁することになっていた。

 会議は、日本の猫と人間のために、完全に復興を推進することで合意した。そして、最も重要な議題である「これからの猫ファーストのあり方」について議論された。どん子に魅せられた人間たちの提案によって、満場一致で可決されたのは、**「これからは、どん子の思想の元で猫ファーストを推進する」**というものだった。

 どん兵衛は、その決定を聞いていた。彼の築いた「支配」の時代は、こうして終わりを告げたのだ。

 会議が終わりその夜、どん兵衛はかつての自分の住処であった古民家をじっと眺めていた。そしてどん子に挨拶することなくニャンタッキー2号に乗り込んだ。

 彼は、月面基地へと帰っていった。彼の心には、敗北感よりも、どこか晴れやかな、そして少しの寂しさが入り混じっていた。彼は、どん子の思想が、自身の「管理」とは異なる、しかし確かに猫と人間を幸福にする道であることを、この時、初めて心の底から理解したのかもしれない。

 どん子なら地球全体に「猫ファースト」の世界を築き上げるだろう。どん子よ、後は任せたニャ。

 地球は、どん子の提唱する、より自由で、より愛情に満ちた「猫ファースト」の新時代へと突入した。宇宙人の科学力と、どん子のカリスマ、そして人類の献身的な愛によって、日本は復興への道を歩み始めるだろう。


第27章 どん子の理想と、どん兵衛の銀河征服

 地球では、どん子が自身の理想とする「猫ファースト」の世界の実現に向けて、休む間もなく奔走していた。南海トラフ巨大地震と噴火からの復興はまだ道半ばで、やるべきことは山積している。どん子は、強制ではなく、愛情と共感に基づいた猫と人間の共存社会を築くため、日々奮闘していた。被災した猫たちのケア、人間たちとの新しい役割分担の調整、そして何よりも、猫たちの心を豊かにする環境づくりに力を注いでいた。

 ある日の午後、どん子が街角にできた仮設の猫カフェで、人間が淹れてくれた温かいコーヒーを優雅に味わっていると、一匹の猫が慌ただしく飛び込んできた。それは、どん兵衛が月面に残した宇宙基地を監視していた、生真面目な宇宙観測員の猫だった。

「にゃ、にゃあ! 大変ニャ、どん子様!」

 観測員の報告は、どん子の耳を疑うものだった。月面基地で、無数のロボットが畑を耕しているというのだ。それも、以前の3倍もの広さに拡大された「月面どん兵衛農園」で。そして、さらに驚くべきことに、巨大な円盤が月面基地から飛び立ち、銀河系の中心へと向かって飛んで行ったというのだ。


第28章 終わらない野望、そして繋がる絆

 どん子は、その報告を聞いて深くため息をついた。

 ああ、やはりそうか。円盤に乗っているのがどん兵衛であることは、容易に想像できた。地球での支配の座こそ手放したが、彼の野望が尽きることはない。恐らく次は、広大な銀河系全体を支配するつもりなのだ。月面どん兵衛農園を拡充したのは地球に対する置き土産みたいなものだろう。

 しかし、どん子の心に、かつてのような苛立ちや競争心はなかった。なぜなら、彼女は知っていたからだ。どん兵衛は、どんなに遠い宇宙に行こうとも、もし地球の猫たちが、あるいは人間たちが真の危機に陥ったなら、必ずまた帰ってくることを。彼の根底には、猫としての同胞愛と、彼なりに築き上げた地球への責任感が残っていることを、どん子は理解していた。

 どん兵衛の支配は「管理」であったが、その根底には「猫の幸福」という揺るぎない信念があった。そして、どん兵衛が銀河で新たな「猫ファースト」の形を模索する中で、いつか彼の知識や技術が、どん子の目指す地球の理想郷に貢献する日が来るかもしれない。

 どん兵衛の野望は無限に広がるが、どん子の理想は地球に深く根差している。それぞれの「猫ファースト」の道を進む二匹の猫。銀河の彼方へと旅立ったどん兵衛と、地球で理想を追い求めるどん子。彼らの物語は、終わりを告げたわけではない。それは、それぞれの場所で、新たな章が始まることを意味していた。

~第1話 完~

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