第2話 仔竜の小さな大冒険(前編)
夜の湖畔。
焚き火が、ぱちぱちと心地よい音を立てていた。
ユウが残していった火はまだ消えていない。小さな炎はオレンジ色の揺らぎをつくり、湖面にも柔らかな光を落としていた。
そのすぐそばで、ルゥは丸まっていた。
赤い瞳がちらちらと炎を映し、耳に届くのは虫の声と、草の間を渡る風の音。
静かで――けれどどこか寂しい。
「……ぴぃ」
小さな鼻先をユウのいた地面にすり寄せるように落とす。
主がいない夜は、少しだけ心細い。
でもルゥは知っている。しばらくすれば必ず戻ってきてくれる。
だから泣いたりはしない。ただ、胸の奥がきゅっとして、何かで紛らわせたくなるだけだ。
そのとき――ふわりと光が漂った。
湖の向こうから、一匹の蛍が飛んできたのだ。
緑がかった淡い光を点滅させながら、ゆっくり弧を描くように舞っている。
「ぴっ……?」
ルゥの瞳がぱっと見開かれる。
さっきまでしゅんとしていた気持ちが、一瞬で吹き飛んでしまった。
ちいさな翼をぱたぱたさせて立ち上がり、とことこと蛍を追いかけ始める。
蛍はゆるやかに漂いながら、森の方へと入っていく。
ルゥは短い足をせいいっぱい動かし、夢中で追いかけた。
けれど仔竜にとって、森は小さな障害の連続だった。
木の根が道をふさぎ、倒木が横たわり、地面にはでこぼこが続いている。
「ぴぃ……っ」
根っこをまたごうとして、前足がひっかかった。
ころん、と転がり、しりもちをつく。
「ぴぃぃ!?」
慌てて起き上がり、きょろきょろと辺りを見回す。
……誰も見ていない。そう分かると、しゅっと尻尾を揺らし、ばつの悪そうに鳴いた。
もう一度、こんどは気合を入れて――「ぴぃ!」
小さな翼をぱたぱたと広げ、勢いをつけてぴょん、と飛び越える。
成功。
ルゥは胸を張り、得意げに「きゅぅ!」と鳴いた。
まるで「見た? すごいでしょ!」とユウに自慢しているみたいに。
蛍は気まぐれに高く飛んだり、低く潜ったりする。
それを追うルゥは、ころんと転がったり、葉っぱに顔を突っ込んでむせたり。
それでも楽しそうにしっぽをぶんぶん振りながら駆け続けた。
途中、落ち葉がふかふかに積もった場所を見つけると――
「ぴぃっ!」
勢いよく飛び込み、ごろごろと転がる。
枯葉がふわっと舞い、仔竜の背中に乗る。
ルゥは鼻先をくんくん鳴らしながら、落ち葉を前足でかき分けた。
そのまましばらく遊んでから、また蛍の光を見つけて飛び出す。
好奇心のままに駆け回るその姿は、森の中の小さな冒険者だった。
だが――その冒険では、思わぬ危険な相手が現れる。
茂みの影から、ぷるん、と何かが弾む音。
ぬめりを帯びた透明な影が、月明かりに照らされて揺れていた。
「……ぴ?」
それはスライム。
ユウと一緒に遭遇したことがある、小型モンスターだった。
スライムはぷるぷると震えながら、じわじわとルゥに近づいてくる。
けれど――仔竜にとってはただの不思議な物体にすぎなかった。
「ぴぃ?」
きょとんと首をかしげ、一歩前に出る。
スライムはぴょん、と弾んでルゥに飛びかかろうとした。
その瞬間。
ルゥが「ぴぃっ!」と鳴いた。
ただそれだけだった。
けれど、小さな鳴き声と同時に熱が漏れ、空気がふわりと震える。
スライムはびくりと体を痙攣させ、そのままじゅうっと音を立てて溶け、消えてしまった。
「……ぴ?」
ルゥはきょとんと瞬きをした。
何が起きたのか分からない。
ただ「道が開けた」と思っただけだった。
仔竜は首をかしげ、しっぽをふるふる揺らすと――また楽しげに蛍を追いかけて走り出した。
スライムの気配が消えると、森は再び静けさを取り戻す。
木々のざわめきと虫の声。遠くから、かすかにフクロウの鳴き声が届く。
ルゥは何事もなかったかのように尻尾を振り、また蛍の光を探し始めた。
すると――
「ちちっ」
小さな声が頭上から降ってきた。
見上げると、枝の上でリスのような小動物が丸まっていた。
ふわふわの尻尾を膨らませ、赤い瞳の仔竜をじっと見つめている。
「ぴぃ?」
ルゥは首をかしげ、前足をちょんと持ち上げて挨拶するように鳴いた。
リスは最初びくっと体を縮めたが、敵意がないと分かったのか、そろそろと近づいてきた。
鼻先をちょこんと合わせ、互いの匂いを確かめ合う。
ルゥは楽しそうに尻尾をぶんぶん揺らし、ちょん、と前足でリスの頭をつついた。
「きゅっ!」
得意げに鳴いたのはルゥだった。
まるで「仲良しになった!」と宣言するように胸を張ると、次の瞬間にはまた蛍の光を追いかけて駆け出していく。
リスはしばし、ぽかんとその背中を見送った。
だが、先ほどまでの怯えは薄れ、不思議と心惹かれるものを感じたのか――やがて小さく鳴いて、枝から枝へと飛び移り、ルゥのあとを追い始めた。
森の奥へ入ると、空気がひんやりとしてきた。
月の光は木々に遮られ、ところどころに差し込む淡い光だけが頼りになる。
その闇の中で――ふわり。
ひとつ、またひとつ。淡い光が灯る。
「ぴぃ……!」
ルゥの瞳が大きく見開かれた。
視界のあちこちで、蛍が飛んでいた。
一匹や二匹ではない。数十匹の光が群れを成し、宙を舞っていた。
それはまるで、夜の森に小さな星空を作り出しているようだった。
「ぴぃぃ!」
ルゥは胸を躍らせ、夢中で駆け出した。
翼をばたばた広げて跳ね、光を追いかける。
もちろん捕まえられるはずはないけれど、そんなことは気にならない。
蛍たちは仔竜の周りをくるくると回り、まるで遊んでいるかのように舞っていた。
ルゥは「ぴぃっ!」「ぴぃぃ!」と鳴き声を上げ、尻尾をぶんぶん振ってはしゃぐ。
どれくらいそうしていただろう。
やがて蛍たちは、ふわりと天へ舞い上がり、森の奥へと散っていった。
残されたのは暗い静寂だけ。
「……ぴ?」
気づけば、湖に映る月の光も、焚き火の炎も見えない。
ルゥはとことこと数歩歩き、立ち止まった。
周囲を見渡す。どの木も同じように見える。
鼻先をすり寄せ、ユウの匂いを探そうとするが――うまくいかない。
「ぴぃ……」
胸の奥がきゅうっと小さく痛む。
楽しかったはずの冒険が、少しだけ心細いものに変わっていく。
そのとき。
「ちちっ」
聞き覚えのある鳴き声がした。
見上げると、枝の上にさっきのリスがいた。
月明かりを浴びて尻尾を揺らし、まるで「こっちだよ」と言うように先の枝へ跳び移る。
「ぴ?」
ルゥは小首をかしげた。
けれどすぐに尻尾をぱたぱた振り、嬉しそうにそのあとを追いかけていった。
――ルゥはまだ知らない。
この小さな冒険が、もう少しだけ続くことを。
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