第3話 温かいスープ

 俺が差し伸べた手を、エルフの少女――リリアは、ただじっと見つめている。

 その翡翠色の瞳は、期待と、それ以上に強い警戒心で揺れていた。無理もない。ついさっきまで、人間の醜い部分をこれでもかと見せつけられていたのだから。


(焦っちゃダメだ。前世のパワハラ上司みたいに、相手の都合を考えずに畳みかけたら、何も生まれない)


 俺はゆっくりと手を下ろし、一歩だけ距離を取った。


「すまない、驚かせたか。俺は相川徹。トオルと呼んでくれ」

「……リ、リア……です」


 蚊の鳴くような声で、彼女は自分の名前を告げた。

 鑑定で知ってはいたが、ちゃんと本人から聞くと実感が湧く。


「リリア。まずは腹ごしらえをしないか?鑑定させてもらったが、かなりお腹が空いているんだろう」

「か、んてい……?」

「ああ、俺のスキルでね。君がすごい才能の持ち主だってことも、それを使えずに苦しんでいることも、少しだけ見えたんだ」


 俺がそう言うと、リリアはびくりと肩を震わせた。

 自分の内面を見透かされたことに、恐怖を感じたのかもしれない。


「安心してくれ。無理やりどうこうしようって気はない。ただ、才能ある人間が、あんなクズどものせいで未来を潰されるのが、我慢ならなかっただけだ」

「……」

「近くに何か食べられる店はあるか?俺が奢る。話は、それからでも遅くないだろう?」


 俺の言葉に嘘がないか確かめるように、リリアは数秒間、俺の瞳をじっと見つめていた。

 やがて、彼女は小さく、本当に小さく頷いた。


 リリアに案内されてたどり着いたのは、大通りから一本入った路地裏にある、小さな宿屋兼食堂だった。

 木の扉を開けると、人の良さそうなおかみさんが出迎えてくれる。


「いらっしゃい。あら、リリアちゃんじゃないか。……そちらさんは?」

「ああ、連れだ。何か温かいものを頼む」

「……パンと、お野菜のスープを……」

「はいよ。すぐに用意するから、そこの席に座ってな」


 俺たちは、店の隅にあるテーブル席に向かい合って座った。

 ぎこちない沈黙が流れる。何か話すべきかと思ったが、今は空腹を満たすのが最優先だろう。

 しばらくして、湯気の立つスープと、こんがりと焼かれたパンが運ばれてきた。


「さあ、熱いうちに食べてくれ」

「……い、いただきます……」


 リリアは、震える手でスプーンを握りしめ、ゆっくりとスープを口に運んだ。

 その一口を飲み込んだ瞬間、彼女の翡翠色の瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……あったかい……」


 あとはもう、夢中だった。

 熱いスープをふうふうと冷ましながら、時々パンを浸して、彼女は一心不乱に食べ続ける。

 その姿は、小動物のようでもあり、見ていて胸が締め付けられた。どれだけの間、まともな食事にありつけていなかったのだろう。


(こんな優しい子が、たった一人で……。故郷を焼かれ、人間には騙され……。辛かっただろうな)


 彼女が食べ終わるのを静かに待ち、おかみさんにお代わりも頼んでやった。

 二杯目のスープを飲み干す頃には、リリアの頬にはようやく微かな血の気が戻っていた。


「……ごちそうさまでした。あの……お金……」

「気にするな。俺が出したくて出しただけだ」

「でも……」

「それじゃあ、代わりに君の話を聞かせてくれないか。もちろん、話したくなければ無理強いはしない」


 俺がそう言うと、リリアは俯いて、ぽつり、ぽつりと自分のことを話し始めた。

 魔物の大群に故郷の森を焼かれたこと。命からがら逃げ延びたこと。この街に来たけれど、エルフというだけでまともな仕事に就けず、所持金が尽きてしまったこと。そして、今日、親切な顔をした人買いに声をかけられ、危うく奴隷にされかけたこと。


「誰も……信じられませんでした。みんな、私を見て、珍しいとか、高く売れそうだとか、そんな目でしか……」

「そうか。辛かったな」


 俺はただ、相槌を打つことしかできなかった。

 前世の俺も、上司からは「使えるコマ」としか見られていなかった。彼女の孤独が、痛いほどわかる。


「リリア。単刀直入に言う。俺と一緒に来ないか?」

「……え?」

「俺は、これからギルドを作ろうと思ってる。誰もが安心して、自分の才能を正当に評価されて、笑顔で働ける場所だ。定時退社、休日保障、福利厚生も完備する。いわば、『ホワイトギルド』だ」

「ほわいと……ぎるど?」


 聞き慣れない言葉に、彼女は首を傾げる。


「君の『薬草学』の才能は本物だ。俺の鑑定がそう言ってる。その才能を、俺のギルドで活かしてほしい。もちろん、君が奴隷になる必要なんてない。ギルドの一員として、正式に雇用する」


 俺は真剣な目で、彼女を見つめた。

 これが、俺の理想の第一歩。記念すべき、最初のスカウトだ。


「……どうして、私なんですか?会ったばかりの、私のことを何も知らないのに……」

「いいや、知ってるさ。君が、優しくて、真面目で、とんでもないポテンシャルを秘めていることをな」


 スキルのおかげで、とは言えないが、嘘ではなかった。

 リリアはしばらくの間、黙って俺の顔を見ていた。その瞳は、さっきまでの絶望の色ではなく、困惑と、そしてほんのわずかな光を宿して揺れていた。


「……あなたのギルドでは……本当に、毎日温かいスープが飲めますか?」


 か細い声で、彼女は尋ねた。

 それは、彼女にとって何よりも切実な、未来への問いかけだった。

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