【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話
Ru
第一章 僕はまだ子守唄を知らない
第1話
冷えきった床に横たわり、僕は夢想する。
この場所の真上で、たった今、彼女がベッドに入るところを。あのグレーのシーツをめくり、白い身体を滑り込ませ、間接照明を暗く落とすのを。
フローリングの上で目を閉じる。月曜に捨てそびれたゴミのにおいがする。固い床が肩の骨を圧迫する。ほつれきったタオルケットを手探りでたぐりよせた。息を吸って、吐く。
寂しさ。愛着。犬や猫は消えた飼い主を死ぬまで忘れないという。現実と認識の間にあるフィルター。ストックホルム症候群。七歳までは神のものというフレーズ。子供はまだ人間ではない。
僕は耳を澄ませる。感じ取ろうとする。
なめらかなシーツの上、彼女が身じろぎをするのを。寸分たがわぬこの真上で、彼女の寝息が少しずつ、ゆっくりになっていくさまを。夜が深くなるのを。
「……きみはひとりじゃない」
僕はささやく。胸の底があたたかくなる。床の埃がざり、と肌をこする。タオルケットは少しだけ黴くさい。ごそごそとそれを身体に巻き付けて、暗い部屋で息をする。
認識できないものは認知できない。認知したものを表現する言葉を持ち合わせていない場合も、そう。対象は認識に依存し、人は己の感覚器官を通じてしか世界を観ることができないからだ。
だから、つまり。
──寂しさとはなんだろう。
僕にはそれがわからない。
【第1章 僕はまだ子守唄を知らない】
抱えた膝に額を押し付けて、すん、と小さく息を吸う。うっすらと湿ったコンクリートの冷えたにおい。十月の夕刻、あと十五分もすれば照明がつくであろう時間帯。マンションの廊下は淡い灰色で、ぼんやりと薄暗かった。
もう三十分は玄関先にうずくまっている。僕はぎゅうう、と背を丸め、浅くなった呼吸をしきりに繰り返した。
(……おなか、痛い……)
生理痛がひどい。下腹部がぎりぎりと、引き絞られるように痛みと収縮を訴えた。額の生え際からじわりと脂じみた汗がにじむ。ますます膝頭に額をこすりつけた。
マンションの廊下、座り込んだ床はひどく冷たい。早く家に入りたいと思うものの、どうしようもなかった。鍵を落としてきてしまったのだ。
いつものように、図書館で本を読んでいたとき。なんだかお腹が痛いなと思って、僕はあわただしく読書を切り上げた。少しずつ強くなる痛みに、下腹部を押さえて帰路を歩いた。そうしてようやく辿り着いた玄関先でポケットを探ったとき、鍵を落としたことに気が付いたのだ。おそらくは図書館のトイレで。
早く取りに戻らなきゃと思って、けれど時すでに遅し。悪化の一途を辿った生理痛はもはや無視できないほど強くなっており、玄関先にずるずると崩れ落ちた僕は、こうして見事に動けなくなって、今に至る。さんざんな話だ。
「……っ、たぁ……」
ぎりぎりと下腹部が痛む。僕は歯を食いしばって、ますますきつく背を丸めた。生ぬるい汗が背を伝って気持ちが悪い。もう廊下でも外でもいいから、今すぐ横になりたかった。
そのとき。
「──あなた、大丈夫?」
誰かの声がした。静かな、どこか沈痛な響きの声音。顔を上げる。
そこには、少し疲れたような顔をした女の人が、腰をかがめて僕を覗き込んでいた。
ほのかにグレーがかった、不思議な色合いの暗い瞳。かすかに細まった目が、怪訝そうに僕を見つめている。儚げな眉は控えめにひそめられ、血色の薄いくちびるが心配そうに引き結ばれていた。
黒いワンピースの膝に置かれた手は病的なほど真っ白で、瞳と同じ、暗いグレーの長い髪が、しっとりと肩から垂れかかっている。きれいな人だ。
少し低めのひそやかな声が、そっとささやいた。
「どうしたの、こんなところで」
「……お腹、痛くて……」
消え入りそうな声で答える。女性は眉をひそめたまま尋ねた。
「おうちの人は?」
「出かけてる……鍵、落として……」
でも落とした場所はわかるから、というようなことをもごもごと続ける。そうする間にも下腹部はキリキリと痛みを訴え続け、僕はぎゅうっ、と顔をしかめた。
女の人は、少しためらったように息を吐いた。痛みでぼやけた視界の中、彼女の眼差しがちら、と上を見る。つられるように視線の先を追いかけた。ドア横の表札。鈴原の二文字。
「あなた、名前は」
「渚……」
「鈴原渚さんね」
「鈴原っていうか、ただの渚──いったぁ……ッ!」
ぎゅうう、と一層強く下腹部が収縮する。ぶわっ、と脂汗がにじんだ。女性がすっとかがみ込む。とん、と肩に手が乗った。
「ここは冷えるわ。よかったら、うちで休んでいって」
「え……」
うち。その言葉に顔を上げる。彼女は少しだけ口の端を持ち上げて、静かにささやいた。
「私、ちょうどここの真上に住んでるの」
そう言った彼女の笑みはやんわりと弱々しく、疲れたような諦めたような、どこか仄暗い雰囲気があった。僕よりよっぽど病人みたいだな、なんて考えが浮かぶ。
だからだろうか。こんなことを聞いたのは。
「……家って、誰かいるの」
ぽつり、と落ちた問いかけは、痛みでかすかに震えていた。彼女はほんのかすかに口の端を持ち上げたまま、静かに首を横に振る。
「いないわ。今は、私だけ」
そう答えた彼女の表情は、僕の知っている中には存在しない、うまく明言できない翳りに満ちていた。よくわからない情動がかすかに動いて、ああ、と思う。
──この儚げな人は、今から、ひとりぼっちの部屋に帰るのか。僕と同じで。
そう思ったら、勝手に声が出ていた。
「じゃあ……行く」
ひとりだと、きみが可哀想だから。そう続けるより先に女の人が頷いて、どうぞ、と差し伸べられた手。
僕はかすかにためらって、おずおずと手を伸ばした。真っ白い指の先端に、うすい桜色の爪が並んでいる。丸く短い爪とささくれだらけの僕の手とはぜんぜん違う、きれいな、女性らしい手。
「女の子が、身体を冷やしちゃいけないわ。さあ、立って」
「……うん」
恐る恐る握った指先は不安になるほど細くて、ひどくひんやりしていた。
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