第48話_保健室の白布
昇降口を出た彼らは一度、深呼吸をそろえて校門を抜けた。だが、その夜に集まった時、凛音は「次は保健室」と言った。彼女の声は淡々としていて、誰も反論を挟まなかった。
保健室は二階の南端、日中なら光がよく入る場所だ。だが夜になると、白いカーテンやシーツが月明かりをうっすらと拾い、ほかの教室よりも“白”が濃くなる。鏡の白とも掲示板の白とも違う、布の白。そこに紛れ込むものがある、と過去に伝え聞いた。
「布の白は、影を作らない。……だから混じりやすい」
凛音の言葉に、航大が眉をひそめる。
「影が出ないなら、逆に確認が難しい。名前を付けられないまま“動き”に引かれる」
夜の校舎に再び入る。月明かりは廊下の窓から差し、板張りを鈍く光らせる。階段を上がるとき、彼らは昨日と同じように十一段目で無音の拍を踏んだ。リズムが体に残っている。
保健室の前に立つと、カーテンの隙間から柔らかい白がにじんでいた。ドアは閉じている。幸星は手を伸ばし、軽くノブに触れる。冷たさはなく、ぬるい感触。
「温度が違う」
彼が短く言った。凛音が顎を引き、全員が列を整える。
ドアを開けた瞬間、布の匂いが押し寄せた。消毒薬のにおいは薄い。代わりに“干したて”のような、しかしどこか湿ったにおい。窓は閉まっているのに、カーテンがゆるく揺れていた。
「入る順番は前と同じ。布に触れない。……目線は高さを一定に」
凛音の指示で、幸星と彼女が先に入る。カーテンは四角く仕切られ、ベッドには白布がかけられている。どれも人の形をしていないはずなのに、視界の端では膨らんで見えた。
航大が呼吸を整えながら歩く。十一歩で一拍。布の前でも同じだ。
だが、十歩目のとき――
布の端が、吸い込むように膨らんだ。
「止まらない」
凛音の声が低く響く。
幸星は膨らんだ布を正面から見ず、窓側の壁に視線を移した。航大も従い、足を揃える。布は追うように揺れたが、十一歩目の拍で沈む。
亜衣が小さく首を振る。
「布の動き、こっちの呼吸に合わせてくる。……無音帯で切るしかない」
凌が壁の白に視線を据え、歩幅を半歩ずらした。三組がそろう。
ベッドの列を抜けると、奥の机の上に白い包帯の山があった。誰も触っていないはずなのに、端が解けて床に垂れている。アナリアが眉をひそめ、ブレンダンが短く記録する。
『布の白=呼吸に同調/視線正対×/無音帯で切断』
帰り道、布は動かなかった。振り返らず、廊下の窓の外に目を置く。月明かりは静かで、誰の影も揺らさない。
保健室を出た瞬間、空気が軽くなった。彼らは廊下で一度立ち止まり、凛音が小さく“終”の形を描く。共有は簡潔に。
「布は呼吸を合わせてくる。……十一歩目で切る。視線は壁」
誰も余計な言葉を足さなかった。廊下の板は、ただ彼らの靴音を返すだけだった。
白いものは音を持たないはずなのに、保健室の空気には「拍」の残り香があった。ベッドの上にかけられたカバー、窓を仕切るカーテン、棚の上の包帯、どれもが同じ白で、影ができにくい。影が薄ければ、揺れは見えない。見えないものほど、こちらの呼吸に寄ってくる。
凛音はベッド列のいちばん奥で立ち止まり、胸の前で掌を近づけた。吸う一、吐く二。四の前でためない。三つ目の無音の拍で、ベッドカバーの角がふっと沈む。幸星はそれを見て、声を使わず顎で合図した。――「順番を決める」。
彩菜がすぐに退避の線を二本、頭の中に引く。片側は窓へ、片側は廊下へ。どちらへも半歩で出られるように。凌は前に出ない位置で横に立ち、扉と窓の直線を自分の肩で折った。扉は開けたまま、指二本ぶんの隙間。閉じ切らないのが、この部屋の“逃げ道”だ。
航大は机にひざを寄せ、カード大の紙に三行を書いた。
『白布:①正対×/縁を見る ②十一歩目で切る ③終=無音×3/延長×』
配らない。自分たちの手順を、まず自分たちに見せるだけだ。
亜衣は包帯の山の前にしゃがみ込む。端がひと筋だけ床へ垂れ、ゆっくり呼吸するみたいに上下している。指先で触れはしない。代わりに布の“縁”を持つ。内側に指を入れず、角を摘む。
「胸の前で二呼吸」
凛音の口形。亜衣は包帯の端を胸の前へ移し、吸う一、吐く二。もう一度。二で終える。三は踏まない。端はそれだけでおとなしくなり、亜衣は「対角折り」を始めた。角と角だけを合わせ、白どうしが正面で向き合わないように斜めにたたむ。たたみ終えたら、角を内側へ。白の“口”をこちらへ向けない。
部屋の奥、カーテンレールのリングが揺れた。数は数えない。数を付ければ形ができる。凛音はすぐに視線を壁の白へ移した。壁が“真っ白”であることだけを見る。布は布で済む。名前は付かない。
「……奥のベッド、来る」
凌が低く言う。彼は横に立ったまま、前に出ない位置から視線を送る。ベッドの白が、こちらの呼吸に合わせるように膨らみはじめた。亜衣が指で〈十一〉の形を出す。無音帯で切る合図だ。
十一歩。
幸星と凛音が小さく歩幅を合わせ、十歩目まで速度一定。十一歩目で、全員が同時に“無音の拍”を置く。踵は落とさない。胸の中でだけ合図を踏む。――膨らみはそこでへこみ、白がただの布へ落ちる。
アナリアの振動タイマーが袖の中で一度だけ小さく震えた。ここから三十秒は“見る”のをやめる区間。三分観察・二分休止の“休止”を小さく切り出して当てる。視線は壁の白、肩の高さは固定。ブレンダンは胸の前で箱の形を作り、英語で小さく書く。『White is just cloth. Pause.』
休止が明ける前に、ひとつだけ、ベッドとベッドのあいだの床で何かが転がった。体温計のケースだ。音は弱く、止まるはずのところで一度だけ跳ねる。――“拍に追ってきた”みたいに。
「追い拍しない」
幸星が目で言い、彩菜は机の上の小物の向きを揃える。ケースの口がこちらへ向かない角度。置き直しは一回だけ。二回やれば“合わせ合い”になる。亜衣はケースの素材の音がもう鳴らないことを指の腹で確かめ、粉の匂いがないかを嗅ぐ。消毒薬の鈍い匂いだけ。
窓側のカーテンの裾が、今度は足首の高さでふくらんだ。ここは視線が落ちる。下を見ると、見たことになってしまう。
「縁だけ」
凛音が示す。
彩菜は裾を直接押さえず、クリップを使った。裾を床から拳一つ分だけ上げ、風の道を作るように“持ち上げて留める”。布を“押さえる”のではなく、“道を決める”。布が呼吸に合わせなくなると、膨らみはゆっくりと収束した。
ブレンダンがカードに追記する。
『裾=拳一/持上げ留め(圧迫×)/道を作る』
アナリアは付箋を白い引き出しの縁に伏せる。『白に白を重ねる=封』。“封”の文字は外から見えない。
そのとき、隣のベッドの枕だけが、ひと息ぶん高くなった。人の形にはならないはずが、枕だけは、形を連想させる。悠が思わず喉の奥で音を作りかけ、澪が袖をつまむ。今日は二人も廊下に立ち会っている。扉の隙間の外で、見学の位置。
凛音は枕へ近づかない。近づく動きは呼び水になる。彼女は胸の前で掌を合わせ、二回だけ、無音の拍を置いて、終わらせた。三は踏まない。枕は少し遅れて平らになった。
「“形”は返さない。終わりの“形”だけ置く」
凛音の声は出ないが、手の動きは十分に伝わる。
これで終わるはずだった。けれど、白い一群は、最後の“名残”を出してきた。ベッドとベッドのあいだの台車、その上の清潔布が一枚、端からゆっくり滑り降りる。落ちる前に止まる。こちらをうかがうみたいに。
凌が半身で前へ出て、正面に立たない角度で台車の横に入る。
「同時にやらない」
幸星が指を二本立てて順番を示し、彩菜は「上→凛音」「下→亜衣」とアイコンタクトで分けた。時間差で畳む。並行は連鎖を呼ぶ。
凛音は台車の上の端だけを“縁持ち”で胸の前へ移し、二呼吸。無音。それから斜めに折って、布の“口”を内側にしまう。
亜衣は台車の下の端に付箋を一枚。白い付箋を白に重ねる。糊は弱く、布を傷めない。白で白を封じる。
「終わり」
幸星が結び、航大はカードの余白に赤で線を引く。
『時間差/並行× 付箋=白で封』
保健室の空気は、ようやく“白のにおい”から“何もないにおい”へ戻りつつあった。窓は閉じたまま、レールのリングは揺れない。ベッドのカバーは“呼吸”をやめ、ただの布になった。
扉を閉め切らないのが、最後の手順だ。指二本。蝶番が鳴らない程度の隙間。閉じ込めないし、押し返さない。
凛音は最後に、机の角に札を一枚だけ置いた。鉛筆で清書は三行。
『白布:縁だけ持つ/胸前二呼吸→対角折り(口は内へ)
裾は拳一つ上げて留める(圧迫×/道を作る)
終=無音×3/十一歩目で切る/扉は指二』
「異常」「怪異」の言葉は書かない。手順だけが残る。必要な人にだけ読めばいい。
廊下へ出ると、二人の一年生が揃って息を吐いた。悠は振り向きそうになり、すんでのところで澪に止められる。凛音は二人の肩に軽く触れ、呼吸を合わせ直した。吸う一、吐く二。四の前はためない。
「“白”は、名前を付けない。折り方と、終わり方だけ覚えて」
悠が深く頷き、澪は付箋を一枚受け取って胸ポケットにしまった。文字は表に向けない。
階段に向かう列は崩れない。五段目で半歩、十一段目で無音の拍。靴の音は自分たちのものだけだ。凌の鈴は鳴らない。航大はカードを札束に挟み、配らずしまう。ブレンダンはノートに書く。
『White cloth: edge only, fold diagonally, finish with silence.』
下に日本語で『白布=縁だけ/対角折り/無音で終える』と重ね、線を引いた。アナリアはタイマーを止め、次に鳴らす時間を“明日の朝”に設定する。夜のあいだ、延長はしない。
昇降口を抜けると、外気は乾いていた。街路樹の葉は揺れず、空の色は音を持たない。
原因は求めない。
布がいつから呼吸を覚えたのか、どのベッドのどの角が最初に膨らんだのか。――書かない。必要なのは、正面から見ないこと、縁だけを持つこと、対角に折って“口”を内へしまうこと、十一歩目で切って無音の三拍で終わること、そして扉を指二本分だけ残すこと。
白は白へ戻った。
彼らはそのまま、夜の校舎から出た。靴音はただの帰り道の音になり、角を曲がる前に自然にほどけていった。
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