第45話_理科準備室の影

 夕焼けが校舎の西面を照らし、旧館の廊下に長い影を伸ばしていた。理科棟の端にある準備室は、窓ガラスが曇っており、昼間でも薄暗い。戸口には「立入禁止」とだけ書かれた札が下がっているが、外から見える影の動きに気付いたのは凛音だった。

  「中……、何か動いてる」

  彼女は低く告げた。

  幸星が扉に手をかける前に、亜衣が耳を当てた。だが、中からは物音ひとつ聞こえない。ただ、隙間風のようにかすかな匂い――焦げた紙と、薬品棚の匂いが混ざったような重さが漂ってきた。

  「扉、完全には開けないで」

  彩菜が即座に指示を出す。

  鍵はかかっていなかった。ほんの十センチだけ隙間を作ると、内側から冷たい空気が押し出された。暗闇の中、棚と棚の間に、ひとつの影が立っているのが見える。形は人間に似ているが、肩の線が揺らぎ、まるで煙のように輪郭が崩れていた。

  航大がペンを走らせる。

  『理科準備室=影状/人形に非ず/光源不明』

  彼は視線をあげ、幸星にだけ小さく頷いた。

  「……呼んでる?」

  凛音の声が震えた。影は彼女の方を向いているように見える。首の角度が、凛音の心臓の位置に合わせて傾く。

  凌が一歩前に出た。彼の肩が廊下と室内の直線を折る。

  「中には入らない。視線だけ繋げ」

  その声に、亜衣が小さく息をのむ。影の動きが止まった。

  ブレンダンは時計を見た。秒針が一瞬遅れたように見えたのだ。彼は眉を寄せ、英語で小さく呟く。

  「Time… doesn’t match.」

  アナリアはすぐに付箋を取り出し、『時計の遅延=影の作用?』と書き、壁に貼り付ける。

  「どうする?」

  凛音が問う。心臓の鼓動が影に届いてしまいそうな距離だ。

  幸星は深く息を吐いた。

  「入らない。――終わり方を作る」

  まず、彩菜が廊下の照明を消した。外の夕焼けだけが光源になる。影は一瞬濃くなり、輪郭を失った。

  次に亜衣が小瓶を一つ、扉の隙間に転がした。中身はただの水道水だが、影は瓶の動きに合わせて首を傾ける。まるで“観察している”ようだった。

  凛音は胸の前で掌を合わせ、三呼吸。無音の拍を置く。幸星がそれに重ねるように、扉をゆっくり閉めた。指二本分の隙間を残す。

  影は扉の隙間からこちらを見ていたが、それ以上は追ってこなかった。視線の糸は、白い壁に吸い込まれて消える。

  「……撤収」

  幸星の声で全員が一斉に後ずさる。足音を残さないように。

  廊下を曲がったところで、凛音はまだ胸の奥に影の視線を感じていた。だが、彼女は深く呼吸し、壁の白へ目を移す。残響も影も、名付けなければそこで止まる。

  航大の手帳には最後の一行が書き加えられていた。

  『理科準備室=影/終わり方=扉指2+無音×3/入室禁止』

  それだけで十分だった。

 曲がり角を二つ抜けても、胸の裏側に残った冷たさは抜けなかった。理科準備室の扉は指二本の隙間を残し、廊下は夕焼けで薄く赤い。階段方向から吹き上がる風はないのに、髪の毛がときどき一本だけ震える。

  「ここで“終わり”を確認する」

  幸星が低く言い、扉の見えない位置――理科棟の展示ケース前に円を作る。展示の白骨模型は布で覆われ、ガラス越しの視線は遮られていた。凛音が掌を胸の前に寄せる。吸う一、吐く二。四の前でためない。無音の拍を三つ、全員で同時に置く。

  ――その瞬間、鍵束が、遅れて一度だけ鳴った。

  凌の腰に下げた鍵の鈴だ。歩いていないのに、ほんの半拍遅れて“チリ”とひとつ。第17話で経験した「一個だけ遅れる鈴」と同じだ。

  「速度、一定」

  彩菜が短く指示し、全員が半歩ぶんだけ足を前へ。進まないが、体の重心を揃える。凌は横に立ち、鈴を手で包む。音は止まる。

  「三分観察・二分休止」

  アナリアがタイマーを掲げ、前に出ない位置で合図する。顕微鏡の回で決めた運用を、そのまま視線にも適用する。三分が動き、二分は動かない。視るのは“縁”だけ。中心は見ない。

  最初の三分――展示ケースの縁、掲示板の画鋲、床のタイルの目地。亜衣が視線を細かく移し、粉の流れ方を読む。匂いは弱い。フォルマリンの重さはない。

  二分の休止――壁の白へ目を置き、肩の高さを固定する。

  タイマーが振動すると、今度は理科準備室のすりガラスが、遠くの水面みたいに一度だけ凹んだ。中の影がこちらを見ている、ではなく、こちらの“視線”の形をなぞっている――そんな感覚。凛音は首を横に振り、数えない。名前を付けない。

  「見える範囲に“壁”を作る」

  幸星の合図で、航大がカバンから白紙の模造紙を数枚取り出す。ガムテープは使わない。チョークの粉と水で作った薄い糊――その場限りで剥がせるもの――を亜衣が指の腹で縁に塗り、すりガラスの“目線の高さ”だけを帯のように塞ぐ。紙は一枚ずつ、等間隔。上下には隙間を残す。空気の逃げ道をふさがない。

  「視線遮断……“見えない壁”」

  亜衣が小声で確かめ、布の端で指を拭う。

  凛音が胸の前で無音の拍を一つ。鈴は鳴らない。ガラスの向こうの凹みが薄くなり、影の輪郭は壁の帯の向こうへ沈む。

  そのとき、準備室の内側から、理科用の磁石が滑るかすかな音がした。〈コト…〉。鉄棚の上で何かがずれ、また止まる。呼ばれているのではない。こちらの“終わり方”を試しているだけだ。

  「入らない」

  幸星は短く、しかしはっきりと言う。

  ブレンダンがノートに『視線帯=紙/上下に風道』と書き、次の行を迷った末に空ける。言葉を増やすほど、向こうに“形”を与えてしまうから。アナリアは付箋に『入室禁止/扉=指2/正対×/横受け』だけを赤で清書し、壁の低い位置――目線より下に貼る。視線を落とすためだ。

  「札も作る。名前は書かない」

  彩菜がカードサイズの紙に三行を書く。

  『準備室の観察は二名以上・三分以内/二分休止

  扉は指二本分開放(閉じ切らない)

  窓の帯を外したら折り畳み、棚番号だけ記録』

  “影”“異常”とは書かない。手順だけ。

  撤収の列を整える前に、もう一度だけ、鈴が鳴った。今度は“遅れて”ではなく、列の動きに合わせて同時に。凌が鍵を握らず、あえて腰に任せる。速度一定。音は一度で終わる。

  「行く」

  幸星が顎で示し、列は崩れずに前進した。

  廊下を数メートル離れたところで、凛音が息を吐く。胸の前で掌を重ねず、近づけるだけ。休符の合図。彼女の目の端に、準備室のすりガラスの帯が白く眩んだ。向こうはもうこちらを見ていない。帯は“壁”として機能している。

  階段にかかると、空気がひとつ軽くなった。そこで幸星は足を止めず、しかし短くまとめる。

  「理科準備室の“終わり方”、確定。

  ――入らない。正対しない。帯を作る。三分観察・二分休止。扉は指二。」

  航大が手帳に清書する。

  『準備室:終=視線帯+無音×3+撤収

  時計遅延→速度一定/鈴=同時

  棚記録=番号のみ(中身名は記さない)』

  配らない。必要なときだけ見る。

  そのとき、後ろを歩いていた悠が小さく手を挙げた。今日は見学だけのはずの一年生だ。

  「さっき、影……目が合った気がしました」

  澪が即座に彼の袖を引き、首を横に振る。凛音は悠の肩に手を置き、目線を壁の白へ戻す。

  「“合った気がする”で止めて。数えない、形にしない。終わり方だけ覚える」

  悠は息を吸い、吐いた。肩の高さが戻る。

  理科棟を出る前に、もう一ヶ所だけ確認した。準備室と同じ階の、空の実験室。黒板に描かれた窓の絵は消してある。机は一列ごとにずらし、視線が一直線に通らないようにしてある。窓の外は薄暗く、雨の予兆の匂いがした。

  「ここは静か」

  亜衣が粉の匂いで判断し、凛音が無音の拍を一度だけ置く。延長しない。

  校舎の出口まで戻ると、掲示板の紙は揃い、階段の無音帯も今日は浅い。外気はすでに夜の匂いで、運動部の掛け声は終わっていた。

  門の前で列を解く前に、幸星はカードをもう一枚作って彩菜に渡した。

  『“名前を記録しない”

  影の見た位置=棚番号のみ

  見えた気がした→壁の白を見る→終わり』

  彩菜はそれを「理科棟巡回」の札束に挟み、配らずしまう。

  帰り道、凌は先頭にも最後尾にも立たず、横を受け持つ。鈴は鳴らない。ブレンダンは英語で『We do not enter, we end from outside.』と書き、日本語で『外側から終わらせる』を重ねた。アナリアはタイマーを十五分に設定し、次回の巡回までの休止を自分に課す。

  原因は求めない。

  影が何で、どこから“遅れ”を連れてくるのか。なぜ鈴は遅れ、なぜ時刻は一瞬だけずれるのか。――書かない。

  必要なのは、正対しない位置を選ぶこと、視線の帯を作って距離を固定すること、三分観察・二分休止で“見る側”の拍を守ること、扉を指二本分残して閉じ切らないこと、そして名前を記録しないこと。

  校門の外の風は乾いて、街路樹の葉は音を立てなかった。

  理科準備室のすりガラスの白い帯は、夜の間も、ただの白としてそこにあり続ける――呼吸をしない“壁”のままで。

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