第27話_焚き火の影

 林間学校の夜、最後のプログラムは焚き火だった。運動場の端に組まれた薪は、夕方から乾かされ、今は赤い芯を見せて静かに燃えている。教員の号令で各班が円になり、距離を等しく取る。外は暗く、杉の幹が等間隔に立ち、上の枝だけ風に鳴る。虫の声は薄く、火のはぜる音がそれに代わって拍を作る。

  幸星は円の向かい合う線を目で測り、外へはみ出す子がいないか肩の高さで示した。凌は火に背を向ける役を自ら受け、外側の見張りを取る。彩菜は退避の矢印を頭の中に二本引き、出入り口の位置を班ごとに確認する。凛音は輪の中にいる一年生の肩へ軽く触れ、呼吸を吸う一、吐く二へ揃える合図をつくる。航大は記録帳を膝に置き、ページの上に『夜/焚き火/輪』とだけ書いた。ブレンダンは胸のノートを閉じ、深呼吸を二回、アナリアはタイマーを音の出ない振動にしてポケットで止めた。

  火が落ち着くと、教員が短く挨拶をし、歌はない拍手だけの遊びが始まる。輪の内側から外側へ、二拍置きの手拍子が回る。手と手が重なるたび、周囲の暗さがほんの少し後ずさる。拍は一定、四の前でためない。

  最初の異変は、影だった。

  焚き火の周りには当然、影が輪になる。足元に自分の影があり、隣とつながり、円が閉じる。ところが三巡目の拍手の途中で、円の外側に、ひとつだけ輪から離れた影が現れた。

  輪から半歩外、伸びる向きは皆と同じ。けれど、持ち主がいない。誰の足元からも繋がっていない。影は輪へ戻ろうとしているようで、輪の縁まで来て、燃え残りの光に弾かれて、また外へ滑る。

  凛音は肩の力を落とし、拍を止めない。幸星は輪の速度を崩させない目配りだけをした。凌は前に立ちすぎず、外の暗さを受け持ちながら、影が人の動線を横切らないかを見張る。拍は回り続ける。

  外れた影は、少しずつ焦れるように跳ねた。輪の光が強くなると外へ引き戻され、弱くなると縁に寄る。焚き火の芯が一度だけ大きく吐いたとき、影は輪の外へ遠ざかりかけ――止まった。まるで足が見えない足場に引っかかったように、動かない。

  幸星は合図を一度。停止。拍が一旦切れ、焚き火だけが話す。火の芯の音が三つほど続いて、夜の空気に吸い込まれる。

  「“戻す”を決める」

  幸星は声にせず、口の形と手の動きの短い合図で示した。輪の全員が彼を見る。

  彩菜が掌の角度で「三」を作る。

  「同時に三回。合図は私」

  彼女は声を出さず、手首ではなく肩で拍の位置を固定した。凛音は一年生の手の位置を直し、指と指の間に無駄な隙間ができないよう支える。アナリアは付箋に『三=戻す』と書き、タイマーの振動を三つに設定して自分の腕にだけ伝える。ブレンダンは小さく頷き、『Together x3』とノートの端に走り書きした。

  凌は円の外側で、退避動線に人が入り込まないよう目線で止め、航大は記録帳の端に『拍×3/同時』とペンの先で叩いて覚え、幸星は輪の中心に視線を置いた。

  彩菜の手が、静かに上がる。

  ――一。

  焚き火の音が一瞬吸い込まれ、輪全体で一拍。手のひらが鈍い音を立て、夜の空気が少し押される。外の影は動かない。

  ――二。

  重ねる。さっきより低い音。吐くを長めに取り、四の前でためない。火が小さく揺れる。外の影の輪郭が薄くなる。

  ――三。

  合図のための吸いを短く、吐きの終わりで全員が同時に合わせる。手の音が輪になって走り、焚き火の明るさが一瞬だけ増す。

  外れた影が、ふっと輪へ寄った。

  縁に弾かれていたはずの場所へ、今度は弾かれずに入る。輪の内側の砂に、すべるように形が重なり、空いた場所に収まる。持ち主の足元に、少し遅れて影が合流し、輪が閉じた。

  誰も歓声を上げない。拍手も続けない。彩菜が掌を下ろし、凛音が一年生の手をやわらかく解く。幸星は輪の端から端まで視線を送って、呼吸が揃っているのを確かめる。凌は外を一度だけ見渡し、暗さが同じ暗さにもどったのを認める。航大は『戻る=三・同時』と線で囲み、ブレンダンは深呼吸を二回、アナリアは『×3→戻る/延長しない』と書いて付箋をたたむ。

  「もう一回、やらない?」

  小さな声で一年生が訊いた。凛音は首を横に振る。

  「やらない。“戻ったら終わり”。終わりを伸ばさない」

  言葉は短く、指先で“終わり”の合図を描く。

  輪を保ったまま、幸星が合図なしに速度を変えず、退避の矢印に沿って椅子を下げる。自分の影が遅れない距離で、半歩ずつ。焚き火の周りにいた影は、すべてそれぞれの足元へ重なってついてくる。外に出た影はない。

  火の見張りの教員が近づき、蓋の取っ手に手をかけた。

  「そろそろおしまいでーす」

  声が輪を切らないよう、低く、短く。彩菜がその声に合わせ、肩の高さで“はい”の印を作る。蓋がおりる。光が一段落ちる。夜の温度がすぐに戻ってきて、虫の拍がまた表へ出る。

  解散の列でも、誰も走らない。凌が先頭で前に立ち、曲がり角で肩を見せる。彩菜は最後尾を取り、離れかける子に手の甲二度を見せ、合流してから数える。凛音は一年生の手袋の端を直し、幸星は列の間隔を詰めすぎないよう歩幅を短くする。航大は班の紙へ『火後=速度同/半歩退/拍×3=戻す』と追記し、ブレンダンは『できた:Together』『できない:すぐにもう一回したい気持ち』と書いてから線で消し、かわりに『終わりを延長しない』と書き足した。アナリアは小さなカードに三行だけを清書する。

  『輪が乱れたら× → 同時に三回

  終わったら延長しない

  退避=半歩ずつ』

  宿舎の玄関前で、幸星が短く言う。

  「“三回”を、合図にする。バラバラの拍じゃなく、同時。理由は書かない」

  誰も異を唱えない。三本の指が同じ角度で上がり、同じ速度で下りる。

  夜は深く、窓は暗い。寝具に入ったあと、凛音は両手を胸の前で合わせ、音を立てずに三回、手の中で小さな拍を作った。肩の高さは変えない。呼吸は吸う一、吐く二。四の前でためない。

  外の杉は風に鳴るが、輪の中にいるときのように、同じ方向に揺れている。

  原因は追わない。

  輪から外れた影が誰のものだったのか、どうして弾かれたのかを名前にしない。必要なのは、輪を崩さないこと、同時の三回で「戻す」こと、戻ったら延長せずに終わること。

  翌朝、校庭の砂は夜露で固く、焚き火の跡は薄い円になって残っていた。輪は閉じたまま、光はもう必要ない場所に戻っていた。

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