第6話 マンドラゴラはどこにいった?

 ドアを開けて廊下に出たとたん、ソーニャはどたたたたっ、という喧しい足音を耳にした。おうおうおう、と、緊急車両のサイレンのような鳴き声をあげながら、ホイエルが突進してくる。そのあまりの勢いに、ソーニャは思わず手から水筒を取り落としそうになった。

「わっ、何、どうしたの?」

「うるーわうっ! おうおうおっ」

 きゅききき、と床を鳴らして停止したホイエルは、ほろのように膨らませた尻尾を振りたてて主人に注進した。

「あうおうおら、わまーる」

「そりゃ、たしかにマンドラゴラを育ててるけど……ホイエル、あれにはイタズラしちゃダメだって言ったよ?」

「なうわうわ。うらーお、うるろわー……」

 ホイエルは首を振って、若い魔女に自分の見たことのあらましを説明した。相棒の言葉に耳を傾けるソーニャの表情が次第に険しいものとなってゆく。

「それ本当?」

 ソーニャの顔に、深い憂慮の色が浮かんだ。

 マンドラゴラは、ミルクで育てている限りそれほど危険なものではない。もちろん、引っこ抜いた場合は別だ。

 その根を引き抜いた際にあげる叫びを聞いた者は狂気に囚われ、場合によっては死に到る。その媚薬としての効能と並び、致命的な叫び声は有名だが、その危険は収穫の時に限定される。

 ただし、ミルクではなく、血、それも人間の血を与えた場合、マンドラゴラはよく似た別種の植物に変化する。ニューイングランドの魔女たちは、それをアルラウネという言葉で区別して呼んでいた。血の味を知ったアルラウネは蔓を使った狩りを行い、それに飽き足らなくなれば、自ら土から根を引き抜いて、地上を闊歩かっぽするようになるという。

 しかし、あの根は、いったいどうやって人の血に触れたのだろう。

「うっかり、蚊を叩いた手で触ったかな?」

 すぐに思い浮かぶのはそれくらいだ。

「とにかく、歩き出す前に収穫しなきゃ……」

 ソーニャはそうつぶやいて、手の中の、小ぶりな水筒を握る手に力を込めた。その中身は、マンドラゴラを無力化する力を持つ液体だ。今夜収穫するつもりで、ソーニャ自身が今しがた用意したものだった。アルラウネといっても、その生理システムは基本的にはマンドラゴラと変わりなく、この液体は有効なはずだ。ソーニャは裏庭に向かおうとくびすを返した。

 その時、廊下に面した引き戸が開き、騒ぎを聞きつけた蔵人が顔を覗かせた。

「なに、どうかしたの––?」

 小走りに廊下を駆けていたソーニャは、突然現れた同居人を避けられなかった。

「はわっ!」

「おっとと!」

 青年の胸板に、ソーニャはどしん、と衝突した。蔵人の腕が、少女の身体を抱き止める。二人はもつれたようになりながらも、あやうく転倒は免れた。

「ご、ごめん! クロード……」

「いや、こっちこそ……」

 言いかけた蔵人の言葉を、カラン、という金属音が遮った。ソーニャの手から落ちた円筒形のものが、廊下をゴロゴロと転がってゆく。

「あっ、あわわわっ」

 慌てて手を伸ばした白魚の指の先で、蔵人がその水筒を拾い上げた。

「はい、どうぞ」

 蔵人はそう言って水筒を少女に差し出した。

 中で液体が、ちゃぽん、と音を立てた。

「うっ……あっ、これっ、そのっ」

 少女の頬は、紅をさしたように染まっていた。

「うおろーろまっ!」

 いったい何をしているんだ、と廊下の先でホイエルがひと鳴きし、じれったそうにその場でドシドシと足踏みをした。

「ご、ごめんねクロード、ちょっと今、緊急なんだっ」

 ソーニャはさっと蔵人の手から水筒を取ると、胸に抱えるようにして使い魔の後を追った。

 少女は灰色猫が飛び出して行った縁側から庭に出た。

 踏み石の上に揃えたサンダルをつっかける。

 その頃にはもう、ふわふわの尻尾は家の角を曲がって裏庭へと回っていた。

 ソーニャはその背を追って、小走りに駆ける。火照った頬に、風が気持ち良い。

 角を曲がると、すぐそこに、ホイエルが立ち止まっていた。

「ちょっと、ホイエル、急に止まらな……」

 あやうく転びそうになったソーニャはそう言いかけて、灰色猫の様子に気づいた。そのピンクの鼻の先に目をやる。

 そこには、掘り起こされた土と、ぽっかりと開いた穴があった。

 今朝まで丹精込めて育ててきたマンドラゴラの姿は、いまやどこにも見えなかった。

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