第2話 魔女のガーデニング

 コップの縁をこえて、ひとすじのミルクが流れ落ちた。

 白い雨を浴びて、緑の葉が歓喜するようにわさわさとうごめき、葉の付け根部分が土の中からせりあがって、太い根がぬっと顔を出した。

 そう、根には顔があった。

 しわくちゃの、固い表面から、瘤のように膨らむ二つの目らしき器官。

 裂け目のような口から、しゅるり、と伸びた根の舌が、顔にしたたる白い液体をぺろり、と舐めとった。

 植物が、うまそうにぺちゃぺちゃとミルクを啜る様子に、ソーニャ・葉月はづき・プリンは目を細めた。根っこは身体に付いたミルクをあらかたなめとってしまうと、グーグーと唸りながら、さらに葉を揺さぶって催促した。

「よしよし、たんとお飲んで大きくなあれ」

 ソーニャはそう言って、手にしたコップをふたたび傾けた。おかわりをもらった根菜は、ぺちゃぺちゃと舌を鳴らしてミルクを貪欲に吸い取っていく。旺盛な食欲で、根の太さも十分。葉にも勢いがある。マンドラゴラは順調に育っていた。

 ある日の昼下がり。

 築半世紀になんなんとする日本家屋の裏庭にしゃがみ込み、ソーニャは地植えのマンドラゴラにミルクを与えていた。

 アラバスターのように透き通る肌。蜂蜜色の長い髪を頭の左右に分けて結び、同色の眉はくっきりとして気の強そうな印象を与える。

 大粒の瞳は橄欖石ペリドットの色をして、釣り気味の目尻とあいまって猫を連想させる。やや尖った顎と、わずかに上を向いた鼻先の与えるシャープな印象を、薔薇色のふっくらした頬と艶やかな桜桃の唇が和らげている。

 すらりとした身体に纏う赤濱大学AKAHAMA UNIVのロゴがプリントされたオーバーサイズのTシャツに、ジーンズ地のホットパンツというラフな格好は、汗ばむような陽気のゆえだった。

 九月ももう終わりに近いというのに、未だ夏の暑さは去りやらず、とはいえこのところは蝉の音もめっきり聞こえてはこない。目にはさやかに見えずとも、実りの秋はすぐそばまでやってきていた……例えば、マンドラゴラの根の太さなどの形をして。

「今夜あたり収穫かな……」

 少女のこぼした呟きには、喜びの色が滲んでいる。

 それは園芸者の喜びと、賭けの勝利者の喜びとが入り混じったものだった。

 赤濱あかはま市。

 岡山県南部に位置するここは、温暖な瀬戸内海性気候で日照時間が長い。ソーニャのもう一つの故郷、アメリカ東海岸に位置するロードアイランド州とはかなり異なる環境で、マンドラゴラが収穫できるまでに育つ確率は五分五分だと彼女は考えていた。高価なマンドラゴラの種を、見知らぬ土地に撒くというのはある意味でギャンブルだ。しかし、いまや若い魔女は賭けに勝利しつつある。そしてその勝利はさらなる偉大な勝利の礎になるはずだった。

 ソーニャ・H・プリンは魔女である。当年十七歳の彼女は、最後の十字軍騎士ルートヴィヒ・プリンから数えて十三代、連綿と続くプリン家の末裔だ。古代エジプトの秘儀を記した魔導書『妖蛆の秘密』を継ぐ者であり、旧き神々のひと柱たるバステト女神の巫女でもある。

 この夏、ソーニャはこの『妖蛆の秘密』をめぐる大事件に巻き込まれていた。洋の東西を股にかけた大立ち回りの末、事件は収まるところに収まったが、妙な成り行きからソーニャは故郷のニューイングランドを離れ、岡山県に居を移すこいお0lととあいなった。少女は目下、従兄の宅に世話になっている状況だ。

 居候の身の上とはいえ、ソーニャは自身に課した『妖蛆の秘密』に精通する、という目標をおろそかにはしていない。魔導書の中身を精読するのみならず、全ての儀式や魔術について実践する。これは母から本を受け継いだ時から始まったソーニャの人生の指針だった。もちろん、大著である『妖蛆の秘密』の内容をマスターできるのは、当分先のことになるだろうと彼女自身も理解していた。

「……これで薬草の章は半分くらい行ったかな?」

 ミルクの入ったコップを空にして、ソーニャは立ちあがった。一つづつ着実に、母や、祖母や、曽祖母の行いをなぞり、受け継いでいく。いずれは、彼女らのような偉大な魔女になる。それが、ソーニャの人生における二大目標の一つだった。

 それに、マンドラゴラはもう一つの目標にも、まんざら無関係というわけでもないし……。

 そこまで考えた時、ソーニャの脳裏に、同居する従兄の端正な顔が浮かんだ。

「……いやいや、これはべつに、そういうつもりで育ててるわけじゃなくってぇ……!」

 ソーニャは打ち消すように手を振った。自分一人しかいないというのに、なぜか弁明口調になってしまう。

 マンドラゴラの用途は多々あるが、誰もがまず思い浮かべるのは媚薬びやくとしての効果であろう。惚れ薬、あるいは懐妊薬としてのあらたかな効能については、旧約聖書をはじめ様々な伝説が伝わっている。ソーニャの取り組んでいる『妖蛆の秘密』にも、マンドラゴラを材料とする薬のレシピがいくつもあり、中には、読んでいて顔が赤らむような具体的な効能も記されているものもある。

 エジプト七千年の歴史ってすごい。

 もっとも、ソーニャとしては、今のところ、このマンドラゴラを媚薬でなにをどうのこうのは考えていない。

 考えてはいないのだが……未来においてもそうであるかは、定かではない。

「……ううん」

 ふと、ソーニャの鼻腔を香ばしい匂いがくすぐった。

 裏庭に面した台所の、ブンブンと回る換気扇から流れてくるのは、モカ・マタリの芳香だった。彼がコーヒーを淹れているらしい。そういえば、そろそろおやつの時間だ。

「……ちゃんとはたらくかも確認しないと、実践したことにならないかな……?」

 磨りガラスの向こうで起居するシルエットを目で追いながら、ソーニャはそう呟いた。

 次の瞬間、少女は自身の発言の意味に気づき、まるでそうすればなかったことができるかのようにパタパタと手を振った。

「べ、別に、今のは変な意味じゃないんからねっ」

 そう言い捨てると、ソーニャはいまだぺちゃぺちゃとミルクを舐めているマンドラゴラの前から立ち去った。大股で勝手口に向かう道すがら、少女はパタパタと両手で顔を仰いだ。

 顔が火照ほてるのは、気温のせいばかりではないようだった。

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