第二話

 その日の夜です。学校の課題をぜんぶ片づけたわたしは、眠くなるまで俳句用の手帳と向き合うことにしました。


 みかづきが昇りきるまで参考書 四ツ国ゆず


 季語としての『三日月』は、陰暦いんれき八月――今の暦でいう十月ごろに昇る三日月を指します。早く昇って、早く沈む。

 受験勉強は大変だけど、この月が頂上に昇るまでの短い時間だけでも机に向かわないと。そんな気持ちを込めました。これなら、先生の前で読み上げられるかも、とは思うのですけど。


「ううーっ……やっぱり先生みたいだよ……」


 出てきたのはため息とひとり言で。


 俳句では、百年ほど前まで日本で使われていた言葉遣い――文語体をよく使います。でも、今使われている言葉遣い――口語体で詠まれた俳句もたくさんあります。わたしも離水先生もふだん文語体で詠んでいるから、口語体に変えたら離水先生とちがう感じになれるかなって、浅はかな考え。

 案の定、口語体にしたところで先生の句風の影響が抜けていませんし、先生と比べてなにもかも足りません。そもそも、目先を変えるだけでは意味がないのでした。

 露山先生のご講評は、わたしの句と誠実に向き合ってくださったからこその、厳しくも正しいもの。痛いほどわかっています。わたしの俳句から離水先生を引いたら、なにも残らないのかなあ。

 ……だめだめ、自信を持たなきゃ! わたしの俳句の真ん中には離水先生がいるんだから。それはきっと、いつまでも変わらないから。


『離水先生の弟子』


 部屋の壁に貼った半紙がでかでかと主張しています。

 中学校の授業の一環で、市の俳句コンテストに出した句。それがたまたま、特別審査員をされていた離水先生の目に留まったこと。授賞式で少しだけお話ししたときのちょっとした話の流れ。そんな幸運のおかげで、とても素敵な句を詠む先生がわたしの師匠でいてくださる。その事実をずっと心に刻んでいたら、少しは自信を持てる気がして。弟子になってすぐ、丁寧に丁寧に筆で書きました。

 ……遊びにきた友達からは苦笑いされますけど。「浮きすぎ」とか。「部屋かわいいのに」とか。「理由はすっごくいいんだけどね」とか。でもどう言われたって、この半紙は大事なものなので。

 前を向くのです、わたし。これからどうするか、どうしたいか、自分で考えなきゃ。俳句用のメモ帳を、はじめて俳句以外に使おうと思います。


 『大事にしたいこと』


 そう書いて、なんだろうと考え……ううん、考えるまでもないです。

 これからも離水先生のもとで学びたい、ということ。まずはそれなんだと思います。そうやって先生の背中を追いかける中で少しずつ自分なりの俳句を育てていけたら、もっといいなって。

 でも、だからこそ今、わたしがまだ知らない、先生の深いところにあるなにかと向き合わなければいけないんだろうな。まだまだ弟子三年目のわたしに先生がそれを許してくださるかはわかりませんが、気持ちとしてはそうなのです。

 次のお稽古までには戻るとおっしゃっていた離水先生。それを信じるなら、このままにしていても何事もなかったかのように戻ってこられて、お稽古が続いていくのでしょう。でも、それではいけないと思うんです。だって。……だって。あんな真っ青で苦しそうなお顔を見てしまったら、もう。

 自分勝手でも。ありがた迷惑でも。わたしにもできることがあるか、考えずにはいられないんです。

  

 ふだん寝る時間も、日付が変わる瞬間も、いつの間にかとっくに飛び越えていて。でも頭はふわふわしないまま、メモ帳と一緒に考え続けていたら。

 やっぱり、先生のおっしゃっていた『あれ』の正体を知ることがいちばんの近道な気がしました。

 そのためにはひとつ、準備が必要だと思ったので。明日は絶対、先生のお屋敷に電話をかけます。先生はもうおられないかもですけど、きっと、屋敷のお手伝いさん――絵梨子えりこさんが出てくださるはずです。

 がんばります。わたしの進む先には、離水先生がいてほしいから。



 ☆



 この土日、週末には珍しくアルバイトがお休みです。この機会を逃さないように、土曜日、わたしは先生のお屋敷を訪れました。

 しっかりと手入れのされたお庭を通り抜けて母屋おもやにたどり着いたら、呼び鈴を鳴らします。

 すぐに引き戸が開きました。からからからから、軽やかな音です。


「はーい! ゆずちゃんやね?」


 縦にも横にも大きな身体。ショートカットをうしろでざっくりとお団子にした髪型。お庭によく響く、関西の人だなあって話し方の声。絵梨子さんです。


「絵梨子さん、こんにちは。電話で事情はお話ししましたが、その……お邪魔して本当にかまいませんか?」

「かまへんで! せんせは『一、二週間ほど旅に出る。悪いが屋敷の管理を頼む。仕事はする』言うて行ってもたわけやけど。さ、上がって上がって」

「ありがとうございます。失礼します」


 先生のいないお屋敷に入るのは、いつもとちがう緊張がありました。玄関で靴を丁寧にそろえ、絵梨子さんについていきます。


「書斎に用があるんやったかいな」

「そうです。……あの」

「ん? どしたん、ゆずちゃん」

「ここまできて訊くことじゃないんですけど。「ゆず君ならいつでも書斎を見ていっていい」というお言葉、先生がいらっしゃらなくても有効でしょうか……』

「有効でしょ。せんせ、絶対怒らへんよお」

「だと信じます」


 離水先生。次にお会いできたら、ごめんなさいを伝えます。

 ……あっ。思わず足取りがとぼとぼしてしまって、すたすた歩きの絵梨子さんに置いていかれそう――と思ったら、止まってくださいました。頭を下げてから追いつきます。


「しっかしゆずちゃんも大変やねえ。せんせ、結局なにがあったかも言わんと、ゆずちゃんを家ぇ帰したんやろう?」

「……はい。でも、よほどのことがあったんだと思います」

「まあ……せやろなあ。せんせ、めっちゃ偏屈みたいな見た目やけど、勝手なことはせんもんな」


 顔は見えませんけど。今の絵梨子さん、優しい顔をされているんだろうなあ。


「はい着いた。鍵は開けとくさかい、終わったら呼んでなあ」

「ありがとうございます」


 長い縁側の突き当たり。古びた木の扉が書斎の入り口でした。

 結局まだ入ったことのない場所です。この中に離水先生の言う『あれ』は、先生の深いところに少しでも近づくきっかけは、あるのでしょうか。それから――わたしが俳星新人賞に出した連作のいったいどの句が、先生をあそこまで動揺させてしまったんだろう。あれほど動揺されていた中でなお「きみに責任はないんだ」と言ってくださったのですから、本当は気に病まなくてもいいのだとは思いますけど。

 たくさんのことを知りたくて、今日ここに来ました。


「……あっ、せや」


 立ち去りかけていた絵梨子さんが、なにかを思い出したようにこちらを振り返ります。


「なんでしょう」

「この中にはなあ、せんせだけやなくて、千春ちはるちゃん……本名じゃわからへんか。風月ちゃんの作品集やら俳句のメモやらもあるんよ。ここの掃除任されとるから知っとるだけで、中身は見たことあらへんけどな。あたし、風月ちゃんとはちいちゃいころからの仲やったでなあ、大事に読んだげてな」 

「はい。もちろん、落としたり破れたりしないように気をつけますっ」

「アハハハハッ。そこは心配してへんよお」


 心底愉快そうでとても気持ちのいい、絵梨子さんの笑い声。わたしまで笑顔に――って、あれ? 一瞬通り過ぎてしまいましたけど、聞き間違いじゃなかったら。


「絵梨子さんと風月さんは、その……幼馴染、だったんですか?」

「せやで。知らんかった?」

「初めて知りました。というより、風月さんのことはそこまで存じ上げないんです。句集も一度読んだことがあるくらいで」

「せやったんや。ま、言われたらたしかに、あたしもあの子のことそない話してこんかったかもなあ。せんせなんかもっとやしね」

「はい。先生にいちばん近いところで寄り添い、高め合われていたはずの奥様ですから、どんな方だったのかずうっと気にはなっているんですけど。先生があまりご自身からお話しにならない以上、勝手に踏み込むのはちがうなと思ったので、わたしからは風月さんのことに触れてこなかった……というのはあります」

「そこは遠慮せんでええやろし、せんせも絶対話すのいやがらんと思うけどな。ま、ゆずちゃんらしいわねえ」


 ふふっ、とやわらかく笑いかけてくださったあと。


「んじゃ、またあとで。あたしは『あれ』がなにかは知らんけど、そのせんせの言い方やと、句集とかで表に出しとるやつとはちゃうんかもなー。なんとなくおもただけやけど」


 そうおっしゃいながら、絵梨子さんはくるっとわたしに背を向けました。

 ……やっぱり、そうなのでしょうか。『あれ』の正体は、作品として発表されているものではないのかも、とはわたしもうっすら思っていました。たとえば先生の個人的な創作メモだったり、ボツ句を集めたものだったりとか。

 先生が奥底にしまっている大事なもののふたをわたしが意図せず開けてしまったから、あそこまで動揺されたのかな。そんな風に考えてしまいます。

 軽い足取りで遠ざかっていく絵梨子さんのうしろ姿に、「ありがとうございます」と声をかけました。





 先生の言う『あれ』の正体。さっそく探し始めます。

 本棚、本棚、戸棚、本棚。たまに飾り棚。そんな書斎のどこから手を……ええっと、入り口近くからにしようかな。風月さんの作品やメモもとても気になりますが、まずは先生ご自身のものから見ていきます。

 目についた戸棚の引き出しに、『離水 メモ・推敲すいこう用 の六』という表紙のメモ帳がありました。でも……其の六を全部見ても、わたしが俳星新人賞に応募した句たちと似たものは見つかりません。其の十五も其の一も違いました。どうしよう、手がかりがありません。

 わかったことはふたつだけ。ひとつは、お若いころの先生はいろいろな句風に挑戦していたということです。中には、自由律俳句――五・七・五の定型のリズムに縛られない、自由な俳句まで。

 有名な俳人さんそっくりの句もいくつかありました。特に、先生やわたしと同じ、伊丹出身の俳諧師はいかいし――『西の芭蕉』上島鬼貫うえじまおにつら先生に近い句風のものが多く見えます。離水先生の『自然体で素直で、たまに愉快なことまである詠み口だけど、いろんな想像のできる深みも併せ持つ俳句』は、もしかして鬼貫先生の影響がおありなのかな。そんなことを思いました。

 ただ、もしそうだとしても、先生が今の句風を形作られるまでには、鬼貫先生のもの以外にもたくさんの俳句を通ってきているのでしょう。このメモ帳たちからは、離水先生の足跡が見えるようです。


『あれも違う』

『これも違う』


 自分だけの色を見つけたくて、あっちこっちの句風をたずね歩く。そんなお若いころの先生の声が聞こえてきます。

 今はご自身の句風をしっかり持っておられる離水先生。いろんな句風をさまよってみたら、いつかわたしもどこかにたどり着けるのかな。そう思いながら読んでいると、かなり最近のものらしい『其の四十二』のメモ帳にたどり着きました。そこで詠まれていた句は、没だったり推敲途中のものだったりするとはいえ、初期のもの以上に好みで。

 もうひとつわかったこと。それは、わたしはやっぱり、離水先生が長い時間をかけてたどり着かれた今の句風がいちばん好きだということでした。


 自分の好きなものは改めてわかったけど、また時間を使ってしまったわたしです。どうしようとなりながら、目の前にある歳時記――季語が『春・夏・秋・冬・新年』の項目別に載っている、季語の辞典のようなもの――の棚を見ていると。中でもいちばん厚いものが気になったので、取り上げてみます。すると、明らかに見合わない軽さで。どうやら外箱だけで、中身の歳時記は抜かれているようでした。

 でも、完全に空っぽではなさそうな感覚もあって。外箱の中に手を入れてみます。

 これは……日記帳? 紙は少し黄ばんでいますが、透明なブックカバー越しに見える表紙にはほとんど傷がありません。一緒に入っていた湿気取り用の乾燥剤からも、大事にしまわれていたのがわかります。

 わざわざ関係のない外箱まで用意して、ひっそりと、でも丁寧に保管されていた一冊の日記帳。これだ、と直感が働きました。中身は――やっぱり日記だけど、ふたり以上で書いている? 名前欄には『離水』と『風月』。一冊で交換日記をされていたようです。お互いが一日交替で書き、いちばん下の行で一句詠むかたち。

 その日記は、六年前から五年前にかけて、おそらくは風月さんが亡くなられる少し前まで続いていたようでした。闘病日記のような重たい内容もありましたが、風月さんの筆致はいつでも明るく、あたたかいものでした。文章だけを見ると、むしろ離水先生のほうが弱っておられるようにも思えて――あっ。

 あっけないくらいすぐ、目に飛び込んできました。離水先生が書かれた、七月十九日ぶんの日記の中です。


 胃薬のやたらにがくて木下闇こしたやみ 花山離水

 胃薬のやたらにがくて蝉時雨 四ツ国ゆず


 先生の句と、わたしが俳星新人賞に出した連作の中の一句。ちがうのは下五だけ。その下五だってどちらも、樹木の周りで感じ取れる夏の季語です。木下闇はたしか、樹木の葉っぱで光がさえぎられてできる陰のこと、だったはずだから。

 この句が動揺させてしまったんだ。先生はこれを見て動揺されたんだ。わかりはしましたけど――先生のあのご様子には、『近すぎる』以上のものがあった気がしてならないのです。


 「たった十七文字だ。意図せず既存の句と似通ってしまうことはままある。けれどもそれを恐れるな。先人の領域を侵したと自分を責めるな。たとえ発想が既存の句に似たとしても、形容の仕方・用いる季語・表記や語順、助詞などによるニュアンスの違い……つまり言葉と、それに託した想いの違いによって、まったく味わいの異なる句になりうるのだから」


 わたしが先生に弟子入りしてしばらく経ったころのお稽古で、先生ご自身がそうおっしゃっていたのを思い出します。

 わからないことも多いですけど――まずは七月十九日ぶんの日記を読み込みます。ちゃんと背景を知らないと。


 六年前にはもう、風月さんは前からのご病気が進んでしまっていたようです。『今日から入院です』『風月が一時退院した』のような入院と退院の繰り返しが、この日記だけでも複数回。七月十九日は、日記の中で二回目の入院の日でした。

『胃薬のやたらにがくて木下闇』は、離水先生が風月さんのお見舞いに行った、夕暮れの帰り道で詠んだ句のようです。その背景を感じながら読めば、びりり、と。ずしん、と。いつもならすんなり飲み込めるはずの胃薬が、反対に自分を飲み込んでくるかのような痛みをより感じます。

 胃薬を飲んでも風月さんのことを気に病む心の痛みは治まらず、むしろ薬の苦さを強く感じるばかり。苦みとかなしさで思わずうつむきながら歩く先生の視線の先に入り込んでくる、かたまりのような木下闇。ゆらゆらざわめく、底のない闇。

 そんな情景さえ見えてきます。


 わたしの句も、心地よさと騒がしさを行ったり来たりする蝉の大合唱を実際に聴きながら、たくさん考えて詠みました。この蝉時雨となんとなく響き合いそうな経験や感情がわたしの手の届く範囲にないか、思い出と想像の中を掘り起こしながら。

 けれど、離水先生の句と比べたら、やっぱり実感のこもり方も、情景を呼び起こすパワーも足りないのだと自覚してしまいます。情景に取り合わせる季語の違いひとつでそうなってしまう。それは、わたしがまだ言葉の一つひとつを繊細に扱えていないということで。

 わかってはいましたが、離水先生のおられるところとは果てしない距離があることを改めて実感します。


 七月十九日よりあとも読み進めていると、やがて、風月さんが最後に書かれた日記までたどり着きました。

 読み終えたわたしは、思わず日記帳を両手で包み込んでしまっていて。はっと気づいたあと、慎重にケースへとしまいました。そしたら書斎の外へ。絵梨子さんを呼びます。


「終わりました!」

「はいよーっ! ……よっしゃ、鍵かけた。玄関まで送るわあ」

「ありがとうございますっ」

「ゆずちゃん、なんか声明るいわねえ。ええもん見つかった?」


 ふたりで元来た方向に戻る最中、絵梨子さんが楽しげな声で話しかけてきます。


「大事なものを見つけました。探し物をしたおかげで、先生に伝えたいことがまとまりました。だから――わたし、できるなら迎えに行きたいです。そうしなきゃ先生、ふわっと消えちゃいそうだったから」

「ほんまになあ。『しばらく旅に出る』言うて出てったときのせんせの顔は、親とはぐれたちいちゃい子みたいやった。一、二週間言うてたけど、あの調子じゃあもっとかかるか……下手したらな、もう帰ってこんかもしれん。本気でそう思たんよ。あたしもあの後、せんせに持たせとる携帯にかけたで? やけどぜんぜん出てくれんかったわ。どこにおるかはわかっとんやけどな」

「ほんとですか!?」

「ん。城崎きのさき温泉や。お休みとるときはいつもそうなんよ。せんせと言えばあの句やろ?」

「たしかに。それに、先生から城崎温泉のお話を聞いたこと、何度かあります」


 湯上がりて城崎の荒星あらぼしを浴ぶ 花山離水


 離水先生の代表句は、冬の城崎の情景を詠んだものです。とてもお気に入りの場所なのでしょう。


「せやろ。あと、泊まり先もわかっとるで。ひいきのお宿があるんよ。やからもう、お宿に電話しておかみさんに確認取ったんやけどな。せんせ、目に見えてしょぼしょぼしとったらしいわ」

「ああ……」


 絵梨子さんの言葉に、思わずふやけた声が漏れてしまいます。わたしのせいだ、という気持ちは、どうしたってこびりついて離れません。今わたしが会いに行っても、先生を傷つけてしまうだけなのでは。そんな気持ちにもなります。


「ゆずちゃんのせいやないとは思うけど……気にするわなあ。じゃあ、あとで電話番号と詳しい場所教えるさかい」

 

 なります、けど。

 城崎はちょっと、いや、かなり遠いですけど。同じ兵庫県でも、伊丹のほぼ真反対ですけど。行ったことのない場所ですけど。もう気持ちは決まっています。


「お願いします。……わたし、明日、城崎に行ってこようと思います」

「うん、うん。明日かあ。せんせはさあ、ちょっと気にしすぎなんよ。風月ちゃんの俳句はきっと、最期まで風月ちゃんだけのものやったし。ゆずちゃんの俳句もきっとそうよ。ゆずの木みたいによう育つって」

「だといいなあって、思います」


 樹木のように背筋を正して、そう答えました。

 すると、絵梨子さんのぽつり、ぽつりとした言葉。いつもの明るい表情に、今は少し影が差して見えます。


「あたしは俳句のことようわからんし。見てわかるやろけどテキトーに生きとる自覚はあるしなあ。そんなんでもせんせのやわっこいとこに寄り添おうとしてはみとるけど……正直、できてへんとこもあるのはわかってまうんや。せんせのとこに行くの、ほんまはあたしの役目やで。けどな、今のせんせにいちばん寄り添えるんはたぶん、ゆずちゃんなんやと思う。ほんまに悪いんやけど、託してかまへん? ごめんなあ」


 絵梨子さんはそう言い終えると、深く深く頭を下げられました。

 わたしの答えは決まっています。にっこりと、しっかりと。自信をもって言うのです。


「はいっ。託されました」

「……ありがとうなー!」


 ゆっくりと頭を上げながら、絵梨子さん。


「きっと天国の風月ちゃんも浮かばれるわあ」

「ふふっ。天国にいるなら浮かばれているじゃないですか」

「ほんまやなー! じゃ、気ぃつけて帰りよー」


 お宿の電話番号などを教えていただきながら、玄関口まで。絵梨子さんはいつもの豪快な笑顔で、大きく手を振ってくださいました。

 家に帰ったらすぐ、先生のごひいきのお宿に電話しようと思います。

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