第1話:街と偏見

 朝の光は淡く、冬の街を寒く見せる。

 石畳は夜露を抱え、吐く息はすぐ白に変わってほどけた。

 街の片隅。香水屋の扉を押すと、鈴が澄んだ音を落とす。


 壁一面の棚に琥珀や翡翠の液体が並び、光を受けて小さな湖面のように震えてきらめく。

 甘い花、柑橘の鋭さ、樹脂の苦み、酒精の冷たさ——匂いの層が冬の空気に色を塗る。


「こんにちは、今日は指先が冷えてるでしょう。手、こちらに」


 黒髪を肩に波打たせた店主の女性が、笑みを含んだ声で客の手首を取った。白い磁器の匙で滴を落とし、細い羽根でふっとあおぐ。


「……寝付きが悪いわね。蜂蜜とレモンを温めて——夜は灯りを早めに切って。新しい香りも一本、試す?」

「さすがサンドラさん、わかるのね。お願いしても?」


 サンドラと呼ばれた女性は蓋を閉める直前、右手の親指で小さな火打ちライターを弾いた。

 青白い点火炎が瓶口に一瞬だけ触れ、揮発を落ち着かせる。火はすぐ消える。無駄のない所作だった。


「じゃあ、今裏から新作を――」


 ——ぼふっ。

 店の奥、扉の向こうで鈍い音がした。床板が少しだけきしみ、天井からぱらぱらと埃が落ちる。

 白い煙が隙間からふわり。薬液の甘さと、布の焦げた匂い。


 サンドラは目を閉じて小さくため息をつくと、客に小瓶を手渡す。


「……少々お待ちを。奥の、うちの黒焦げを回収してくるから」


 彼女が振り返ったところで扉が開いて、その黒焦げが出てきた。

 二十に満たないのだろうと伺わせる、どことない少女らしさの残る顔立ち。

 首あたりの長さの癖のついた白髪――もっとも今は煤で灰色がかっている――、碧い目だけが変に鮮やかだ。

 右手には分厚い手袋、肩に小さな鞄、頬には煤の模様。


「……クリス?」

「えっと……ちょっとだけ予定外の燃え方をしただけで——実験は順調です!」


 少女――クリスは胸を張った。

 煤がぽろぽろ落ちる。張った意味は半減する。


 視線が、笑いと怯えの間で揺れる。


「錬金術師……」「裏で何してるんだ」「不老不死とか?」「墓場で死体を漁ってたって聞いた」「香水屋のふりでしょ」


 空気の温度がひとしずく下がる。偏見は香りより速い。


「ご心配なく!」


 クリスは慌てて手を振った。


「今日は、えっと、薬の実験で! 解熱用の薬を——泡の出方を調整しようとして、ちょっと火が……」


 サンドラが咳払いで遮る。


「クリス。説明はいいから、奥に下がって顔を拭いてきなさい」

「はい」


 濡れ布巾で煤を拭きながら、胸の内で舌を出す。


 錬金術は、歴史の中で常に忌避されやすい学問だった。

 人々にとっての当たり前や常識――要するに、教会の倫理に反している。

 死者蘇生、不老不死、生命創造――錬金術の分野の中には確かにそういった類の研究も含まれるが、それが全てではない。

 ない、が、それらの話題は、人を治療する薬の調合の話よりもよっぽど人を惹きつけるものだ。


 香水の裏で薬、と言うだけでこれだ。

 うまくやれば「街の薬屋」、一歩違えば「墓荒らし」。

 でも、薬は誰かの熱を下げる。匂いは嘘をつかないし、効き目も嘘をつかない。

 笑ってみせる。喉は少しだけ、笑いを拒んだ。


「それで」


 サンドラがカウンターに肘をつき、青い目で刺すように見る。


「爆発の原因は?」

「酒精の濃度が少し高くて、攪拌が——」

「“少し”の定義は?」

「……いつもの二倍」

「二倍は少しではないわ。スピンドルの目盛り、見えなかった?」

「煤で、ちょっと」

「先に顔を洗って」


 何人かは笑い、何人かは眉をひそめ、何人かは視線を逸らして小瓶を握ったまま出ていく。

 サンドラは最後の客を送り出し、扉の鍵を音もなく回してから息をついた。


「——で、本当は?」

「本当は、発泡を抑えるために樟脳系を微量足したら、思った以上にガスが出て。それで、計算が、ちょっと」

「そのでいつか店ごと吹っ飛ばす日が来ないといいんだけれどね? クリスティーナ・ソレーア?」

「来させません!」


 サンドラはこめかみを押さえ、降参するように肩をすくめる。


「……いいわ。まぁ、無事でよかった。今日はお使いを頼める?」

「任せて! 何を買えばいい?」

「食材をいくつか、薬瓶、錠剤の型、酒精二瓶。納品三件——リストはこれ。人目が気になるならフードを深く。それと――」


 小袋が渡される。サンドラは苦笑を添えた。


「――無茶はしないで。変に目立たないことも、仕事のうちよ」

「はーい」


 屋根裏からフード付きのローブを掴んで被る。鏡に映る自分は、煤の残りと白髪のコントラストがひどい。


「……ねえサンドラさん、黒こげで歩くの、評判に響く?」

「“いつも通り”に見えるから大丈夫」

「ひどい」

「日が傾く前に帰って。騎士団が昨夜から慌ただしいから、何かあったのか――でなければ、これから何かあるかも」


 鈴が鳴り、扉が閉まる。冬の通りが白い息を吐いた。


 ◆


 フードを深くかぶり、市場へ。

 パンの香りが角から押し寄せ、蜜入りの焼き菓子が追いかけてくる。魚屋の塩、皮革の渇き、鍛冶屋の鉄。匂いだけで地図が描ける。


「クリスちゃん、今日も黒いねえ」


 パン屋のおかみが笑って紙袋を渡す。


「今日のは黒いけど焦げてません! このパンと同じ」

「あら上手」


 かじると、蜂蜜の温度が舌にひろがる。


 薬瓶屋では店主が右手の手袋をちらと見たが、何も言わなかった。


「錠剤の型、いつもの。あと、飲み込みやすい滑剤で新しいのがほしい」

「研究熱心だね、香水屋の子が」

「香りと薬は隣ですから」


 路地では視線が刺さる。


「錬金術師だ」「香水屋に居候」「死体を弄繰り回すって」「不老不死」


 白い息の粒に、言葉が混じる。

 笑って流すつもりが、今日はちょっとだけ下手だ。


 大通りに出ると、空気の色が変わっていた。

 人、人、人。道の真ん中に人だかりが出来て、誰かが「退け!」「道を空けろ!」と叫ぶ。

 背伸び、つま先立ち、見えない。肩と背中しか見えない。


「何があったの?」

「北の廃城だ!」

「調査隊がやられた!」「全員重症!」


 声が重なり、噂が形を取る。氷の言葉がちらついた。

 胸の内で、冷たい音が小さく割れた。

 こういうとき、どうしようもなく体は弾かれたように前へ進もうとするのだ。

 頭が助けろと告げるよりも、魂が地面を蹴り出す方がずっと早いのだ。

 自分のことはよくわかっている。

 このまま教会の騎士たちの前に飛び出て、それでどうする?

 そんなことは後から考えればいいのだ。

 差し伸べられる手を握ったままにしておいたら、自分でさえ自分のことを肯定できなくなる。

 クリスは必死に人の波をかき分けた。


「ごめん、通して——すみません!」


 前列へ。見えた。

 担架。血の染みた聖布。霜で焼けた皮膚。銀縁の武器。

 男の指が動かない。装甲を失った腕の傷は、まるで獣に噛みつかれたような形をしていた。

 身体が先に動く。


「すぐ止める! 布、貸して! ぬるい水——冷やし過ぎないで!」


 粉末止血剤、清拭、指の根元を揉む、心臓に近い側を温める——手が覚えた順番。


 が、それより早く、がし、と肩を掴まれた。

 振りむけば、聖教会の騎士が真正面から見下ろす。

 若い。鎧はよく磨かれ、視線は揺れない。


「触れるな」

「でも、このままだと——」

「時期に治癒術師が来る。規定に従え」

「ボクは——」

だろう」


 吐き捨てる調子ではない。ただ決まりを言う口調。

 それが一番、きつい。

 クリスは唇を噛み、手をほどいた。離れる指先に、担架の男の冷えが残る。


「仲間なんでしょ? 助けたくないんですか!」

「そのために異端の手を借りると思うのか?」

「ボクが、噂通りにあなたの仲間で実験でもすると思ってるの? 本気で?」

「……これ以上余計なことを言うなら、黙らせるために別の手段を使うことになるぞ」


「おい、さっさと下がらせろ!」

 別の騎士の怒声。

 周囲から囁きが飛ぶ。


「ほら見ろ」「死体漁り」「気色が悪いわ」


 言葉が背に刺さる。刺さる。刺さる。

 人の縁まで押し出される。

 最後に振り返ると、詠唱の声が白い蒸気になって揺れていた。

 ——何もできない時は、ある。今日は、今がそれだ。


 フードを深く被り直す。袋の紐を握る手に、少し汗。

 もう少しだけ、残った買い物を済ませたら、早めに店へ戻ろう。

 夕方、もし気力が残っていたら——酒場に顔を出すかもしれない。たぶん。

 冷えた指先の感触を思い出しながら、歩調だけは崩さずに歩く。


 冬の匂いは薄くて、少し苦い。

 それでも、この街の生活の匂いだ。

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