錬金術師と吸血姫
じるつ
第一章 偶然、あるいは運命
プロローグ:氷と血
月も見えぬ曇夜。
雪山の谷間に、崩れかけた石造りの城が沈んでいた。
黒ずんだ尖塔は硝子を失い、風が吹き抜けるたびに窓枠が低く唸る。
苔むした石壁は濡れ、空気は塩を噛むように冷たい。吐いた息が白く浮かんで、すぐ砕ける。
風化によってボロボロになった絨毯の下に、地下へと延びる石階段があった。奥からは、水の雫が絶え間なく落ちる音。
教会から派遣された調査隊の面々の、靴音と鎧の擦れる音が、それに混ざって重奏を作る。
松明の光が壁の滴を照らすたび、光は歪み、伸び、石の苔の上で揺れた。
「……魔力の反応の中心は、この扉の先です」
司祭が言い、松明の陰が唇を滑った。年若いが目は落ち着いている。
前に立つ三人の騎士は肩をすくめたり、顎をさすったりして視線を交わす。
「城の隠し地下室、ねぇ。……宝物庫とか?」
「吸血鬼の城の隠し地下室、だろ」
「でも確か、百年くらい前に滅んだんだろ?」
「ああ。でも吸血鬼の宝が俺たちの考える金銀財宝だと思うか?」
「って言うと?」
「餌が詰め込まれてるかもな」
「うえ、もしそうなら今日の野営は干し肉抜きだな」
「違いない」
若い騎士は、冗談めかした声の裏で、指先をこっそりこわばらせた。鉄の籠手に覆われた革手袋の中で汗ばむ。
騎士たちは扉の前に隊形を組みなおし、互いに頷き合って、扉を引き開ける。蝶番は意外に軟らかく、ぎ……と湿った音で動いた。
重い石の匂いが吐き出され、空気が微かに焦げ臭くなる。埃とカビの匂いは、思っていたよりは酷くない。それ以上に鼻を強く差すのは、冷えた鉄の匂い。
部屋は広くはなく、あまりにも物が少なかった。
中央には大理石の棺。蓋は硝子張りで、内側がうっすら曇っている。
その硝子の隙間から、一筋の黄金がこぼれていた。長い髪の先。白い頬が半ば見える。
若い騎士は、思わず喉を鳴らした。
生の気配? いや、死の静けさ?
どちらともつかない。
「どうする?」
「俺がこれを見ておく。他で部屋を見回れ。司祭、記録を」
「了解」
松明二つが離れ、壁の残影が揺れる。若い騎士と司祭は棺のそばに立った。
硝子の向こう。眠る少女の肌は雪よりも白い。金の髪は月光を捕らえたように艶を帯び、頬には死人の静けさが乗っている。
「……何か、見解は?」
「この棺自体が魔具のようです。埋め込まれた魔石から魔力を受けて、刻まれた術式が動いている」
「どんな術式だ?」
司祭は静かに、棺の蓋を埋め尽くすルーン文字に視線を滑らせていく。
「棺の中を対象範囲にした領域魔術です――基本形は」
「っていうと? 何か特別な術なのか?」
「構成を見る限り……おそらくは、時の流れを緩慢にするような、そういった類の効果が入っているように見えます。つまるところ、中の時間の進みが外よりもずっと遅い。……おそらくは、ですが」
「随分と自信なさげだな。アンタ確か、魔術学院の出身だろう?」
「学院を出た程度では読み解くだけで精一杯なほどに、高度なものだと思っていただければ」
「……城の地下に隠しておくくらいには十分な価値のある魔術、ってことか」
「間違いなく」
司祭は棺の魔術陣の一部が、棺からその台へ、その台から、自分の足元へと伸びていることに気が付く。
足元を通り越して、魔術陣と視線とが行きつく先には、先ほど自分たちが開けた扉があった。
「――扉が開くと棺の術式が止まる仕組みか!」
――次の瞬間、空気が凍りついた。
白い吐息が一斉に舞い、松明の炎が悲鳴をあげる。ぱきり。
火は硝子細工のように凍り、折れ、闇が膨らむ。
判断が遅かった――棺の術式が切れたら何が起こる?
体がこわばる中で、思考だけが加速するようにして状況を読み解こうとする。
耳の奥で、氷が育つ音だけが大きくなった。澄んだ弦の高音めいた、きぃん、という響き。
床石の目が裂け、霜が苔の上を呑み、空気の密度が変わる。
「クソ、松明は使い物にならないぞ。司祭、光球を――」
若い騎士が言い切るより早く、床から透明な槍が突き出た。
刃先が魔力の光を受けて虹を纏い、甲冑が弾かれる。
突風のような冷気が上腕を切り裂き、指の感覚がぬるく遠のく。
傷口から氷が這い登るようなぞわりとした感触が背中を撫で、彼は歯を食いしばった。
棺の蓋がひとりでにずれ、重たい音と共に石畳に落ちる。
目を離せない。
地下へ吹き込むゆるやかな風が、眠っていた彼女の頬を撫でた。
足を動かせない。
金の髪が夜を裂く光のように流れ落ち、白い頬にかかる。
目が、開いた。
瞳は、血よりなお赤い。闇を裂く光点のように、彼らを射抜く。
そしてその背には、人間にはあり得ない、蝙蝠のような大きな一対の翼が供えられていた。
「……喉が、乾いた」
声音は低く、氷の刃のように鋭い。
吹雪めいた魔力の圧が肌の上を這い、若い騎士の胃の底を握る。
武装した異端者と相対したときのそれとは異質。
自分が見られている。選別されている。
戦いに身を置く騎士としての直感が叫ぶ。
――獣。
「動くな! 我々は聖教会の――」
剣を抜きはらい、構え、体にまとわりつく恐怖を振りほどくように叫ぶ。
が、言い終えるより先に、彼女はもう動いていた。
獣じみた脚力で跳躍。最短で、血の匂いの濃い傷に飛ぶ。
若い騎士の、鎧の剥がれた腕に――噛みついた。
閃き。肉が裂け、温かい液体がどっと溢れる。
鉄錆の匂い。喉を潤す甘い熱。
耳の中で、心臓の鼓動が轟く。それが彼女の胸でも反響する。
「……あぁ」
こくり、こくり。
喉を鳴らし、鉄臭く塩気の強い血を胃へ流し込む。
血が体内を駆ける。空白が埋まり、飢餓の痛みがほどけていく。
苔むした石壁の匂いが薄れ、人の匂いだけが世界を満たす。
「そいつを放せ、化け物が!」
別の騎士が斬りかかる。氷槍がひらと迎え撃ち、刃を外させる。
彼女はそちらを見ない。赤い瞳は獲物だけを見ている。
牙がもう一度深く沈み、若い騎士の膝が折れた。
「司祭、詠唱を――っ」
司祭は弾かれるように手印と文句を組み合わせた魔術の詠唱に移る。
少女は騎士の腕から飛びのくと、紅い瞳で司祭を射抜く。
「……
すぐに、司祭の声が震えた。
喉を握られたかのように言葉が詰まる。呪文の次の一句が頭から飛ぶ。
心臓の鼓動が、遅くなる。末端から、痺れが広がる。
思考に霞がかかり、身体が自分のものではないように鈍る。
赤い瞳が、ひとりを撫で、またひとりを撫でる。
そのたび、今まさに斬りかかろうとしていた騎士たちの動きが鈍り、少女は飛び回る蝶を躱すような緩慢さで次々に剣を避ける。
剣を振りぬいた脇腹に、鋭く拳が振りぬかれ、騎士は大きく転げた。
鉄板の甲冑が歪み、衝撃が臓腑を駆ける。
次いで一人の胸倉を掴み、ぐるりと体を回す勢いで無造作に放り投げる。
壁に激突した後に床にずるずると崩れ、視界と地面がぐにゃりと歪む感覚に陥る。
圧倒、蹂躙。一方的と表現する他ない実力差。
彼女が開いた手を軽く掲げると、チラチラと光を反射する氷の結晶がそこに折り重なり、ゆっくりと氷の刃を作り上げる。
その刃先が、腕を抑えてうずくまる若い騎士の喉元に影を落とす。
とどめを刺そうとしたその瞬間、しかし少女はぴたりと動きを止めた。
彼女の脳裏に、別の炎が閃いた。
火砲の咆哮。倒れ伏す兵士。焼ける城壁。炎に飲まれる都。血の海に浮かぶ顔。
自分を抱いた母の、早鐘のような鼓動。
胃の底が痙攣する。
激しい吐き気が襲い、氷刃を落とす。からんと音が石に転がる。
「やめろ……!」
金髪が乱れ、赤い瞳が歪む。
司祭が手印を突き付けるようにして叫ぶ。
視界が強烈な光に覆われ、世界が城に染まる。
「退け、今だ!」
騎士たちは重傷者を引きずり、出口へ身を投げた。
鎧がぶつかり合い、落とした剣が床で火花を散らす。
足音が遠ざかる。残るのは、冷気と血の匂いだけ。
彼女は追わなかった。
ただ、濡れた唇を舐め、徐々に戻った視界で、真っ赤に染まった自分の手を見る。
指先に残る温もり。口の奥に広がる鉄の味。
耐え切れず、吐いた。
石床に赤黒い痕が広がり、凍りつく。
「……マーガレット」
そう誰かの名を呟く声は、氷より脆く、震えていた。
次の瞬間、部屋に張り巡らされていた氷が、ひびを刻み、音もなく崩れていく。
彼女は血の匂いから逃げるように踵を返し、崩れた石階段を昇った。
曇天の吹雪のなかへ。赤い瞳を覆い、音もなく夜に紛れた。
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