第2話:伝説の始まりは、一頭のユニコーン
王都を出発してから、馬車に揺られること十数日。舗装された街道はいつしか獣道に変わり、人家もまばらになっていった。そしてついに、セレスティアは目的地である辺境の村、テュールに到着した。
そこは、王都の華やかさとはまるで無縁の、素朴で小さな村だった。石造りの家々が肩を寄せ合うように建ち並び、村人たちは王都では見かけない、日焼けした逞しい顔つきをしている。突然現れた、場違いなほど上質な服を着たセレスティアに、彼らは奇異と警戒の入り混じった視線を向けたが、彼女はそれを気にする素振りも見せなかった。
「こんにちは。この近くの土地の権利書を持っているのですが、手続きはどちらで?」
にこやかに村長らしき老人に話しかけると、相手は目を丸くした。あの広大で、魔獣が出ると噂される荒れ地を、こんな若い娘がたった一人でどうするつもりなのか、と顔に書いてある。
だが、セレスティアが用意していた金貨を見せ、正式な権利書を提示すると、手続きは滞りなく進んだ。彼女は村の片隅にある小さな空き家を買い取り、そこを拠点にすることにした。
いよいよ、夢にまで見た牧場作りの始まりだ。
彼女が手に入れた土地は、村から少し離れた森の入り口に広がる、広大な土地だった。人の手が全く入っていないため、雑草は伸び放題で、大きな岩もゴロゴロしている。しかし、背後には雄大な森が広がり、澄んだ小川が流れ、空気はどこまでも清らかだった。セレスティアの心は、見たこともないほどの解放感で満たされた。
「最高だわ……!」
次の日から、セレスティアの奮闘が始まった。公爵令嬢だったとは思えないほど、彼女は働き者だった。まず、村で買ったクワと斧を手に、土地を切り拓くことから始めた。慣れない力仕事は、すぐに彼女の白い手を豆だらけにした。汗と泥にまみれ、毎日日が暮れる頃にはくたくたになった。
それでも、彼女の心は不思議なほど軽やかだった。自分の手で、自分の場所を、一から作り上げていく。その喜びが、どんな疲れも吹き飛ばしてくれた。少しずつ、しかし着実に、荒れ地は牧場としての姿を見せ始めていった。
そんなある日のことだった。薬草を摘むために、いつもより少し深く森の奥へと足を踏み入れたセレスティアは、ふと、か細い呻き声を耳にした。
(何の音かしら?)
警戒しながら音のする方へ近づいていくと、木々の間に、信じられない光景が広がっていた。
そこにいたのは、一頭のユニコーンだった。
純白の毛並みは月光を編み込んだように輝き、額からは螺旋を描く美しい一本の角が伸びている。絵本でしか見たことのない、伝説の聖獣。しかし、その神々しい姿は見る影もなく、後ろ足は狩人が仕掛けたのであろう、錆びついた鉄製の罠に深く食い込み、体中には無数の切り傷があった。おそらく、罠にかかった後、魔獣か何かに襲われたのだろう。荒い息を繰り返し、その大きな瞳には苦痛と人間への警戒心が色濃く浮かんでいた。
人々が恐れ、敬う聖獣。下手に近づけば、その聖なる力で吹き飛ばされてもおかしくない。
だが、セレスティアは躊躇わなかった。彼女はそっと、持っていた薬草の入ったカゴを地面に置くと、両手を前に出して敵意がないことを示した。
「大丈夫よ。怖くないわ。助けてあげるから、ね?」
彼女は、まるで怯えた子猫に話しかけるように、優しく、穏やかな声で語りかけた。セレスティアには、昔から動物に好かれる不思議な体質があった。どんなに凶暴な猟犬も、彼女の前では尻尾を振って甘えたのだ。
ユニコーンは、最初こそ警戒して唸り声を上げていたが、セレスティアの澄んだ瞳と、彼女から発せられる不思議なほど温かい気に触れ、少しずつ体の力を抜いていった。
セレスティアはゆっくりとユニコーンに近づき、罠に手をかける。固く食い込んだ罠を外すのは、大変な作業だった。しかし、彼女は諦めずに力を込め、ついに罠をこじ開けることに成功した。
そして、持っていた傷薬を塗り、綺麗な布で手当てをしていく。ユニコーンは、その間、まるで全てを委ねるようにじっと動かなかった。
「よし、これで大丈夫。あとはゆっくり休んで」
手当てを終えたセレスティアが微笑むと、ユニコーンは感謝するように、その頭を彼女の肩にそっと擦り付けてきた。
これが、セレスティアの持つ特別な力が、聖獣を相手に初めて発揮された瞬間だった。
セレスティアは、ユニコーンが回復するまで、毎日森に通って献身的に世話をした。新鮮な水と、ユニコーンが好みそうな瑞々しい若草を運び、優しく話しかけ続けた。
数日後、すっかり傷が癒えたユニコーンは、立ち上がることができるようになった。セレスティアは、彼が森に帰るものだと思っていた。
「元気になってよかった。もう森にお帰り」
そう言って背中を撫でてやると、ユニコーンはしかし、その場を動こうとしなかった。それどころか、セレスティアが家に戻ろうとすると、その後ろを静かについてくるではないか。
そして、彼(彼女はなんとなく彼だと感じた)は、セレスティアが作り始めた牧場の柵の中に自ら入っていくと、そこにゆったりと腰を下ろした。まるで、「ここが私の新しい家だ」とでも言うように。
こうして、伝説の聖獣ユニコーンは、セレスティアの牧場の記念すべき最初の住人となった。
その夜、セレスティアは、月明かりの下で静かに草を食むユニコーンの隣に座っていた。言葉は通じなくても、確かに心は通じ合っている。一人と一頭の間には、穏やかで温かい時間が流れていた。
「これから、よろしくね」
セレスティアがそう呟くと、ユニコーンは応えるように、優しい鼻息を彼女の頬に吹きかけた。
この小さな出会いが、後に大陸中にその名が轟くことになる「聖獣の楽園」の、伝説の始まりとなることを、まだ誰も知らなかった。
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