第5話
終業のチャイムが鳴る。今日も今日とて懲役8時間が終わった。さて、これからは懲役延長戦だ。社会人たるもの、残業は嗜みだろ。ただ俺は新卒で初めて入った会社がこうなので他を知らない。多分みんな他の会社でもたくさん残業をしているって信じている。そう思わないと心が耐えられない。特に最近は残業が多いからな。
気合い入れ直すために一服してくるか。階段を降りて喫煙所に向かう。帰る支度をしている別部署の人に「お疲れ様です」と挨拶をし、心の中で俺はまだ帰れないけどな。と付け加える。
ゆっくり1人で煙草を吸おうと思っていた喫煙所には先客がいた。相手の顔を見て舌打ちしてやろうかと思ったけど、一旦考え、昨日の愚痴でも聞いてもらうことにするか。
「一ノ瀬、お前もサボりか?」
「お、佐藤か。お疲れさん」
1人電子タバコを吸いながら黄昏れていた男は同期の一ノ瀬、無駄に顔がいいことで有名でムカつく。割と仲は良い方だし、2人で飲みに行ったりもする。いつも酔っ払った俺を介抱してくれるので良い奴なのは知っている。でもムカつく。なので普段からキツく当たっている。でも顔がいいので心に余裕があるから気にしない。だからムカつく。
さも当然のように1つの灰皿を挟むように場所を取り、煙草に火を付ける。
「なあ、俺ってもしかしてだけれど、認めたくはないけれどおっさんなのか⋯⋯?」
「うーん、うちの業界が割と高齢だからまだ若手でも通じると思うけれど、世間一般的にはおっさんと言われてもおかしくはない年齢だとは思うよ」
「じゃ、じゃあお前はおっさんて言われるか?」
「いやー、俺はあまり言われないけどさ。一般論としてね」
そう爽やかに言い放つ。やっぱりお前は言われないんじゃないか。俺等同い年だぞ。この差はなんだ、やっぱり顔なのか。ムカつく。
「まあ、佐藤はさ。思考とか行動とかが一々おっさんくさいって言うのが多分に関わってきているとは思うけどね」
「そんなにか?」
「おしぼりで顔は拭くし、未だに男とはこうあるべきだみたいな思考も強いしさ。年頃の女の子を過剰に怖がっていることもおっさんくさいよね。あれもう工業系の童貞たちのことを笑えないレベルだよ」
とてつもない侮辱を受けた。思わず殴りかかりそうになる気持ちをぐっと堪え、深呼吸をするように煙を深く吸って吐き出す。工業系の童貞、ようするに女の子と目を合わせてまともに話せないことを揶揄する言い方だ。そんなことはない、だって俺はガルバでもちゃんと話せているし。
「いやいやー、いくらなんでも工業系の童貞共と同列はないって。一ノ瀬クンさ、お前自分がどれだけひどい暴言を吐いているのかわかってるの?」
「わかった上で大差ないって言っているよ。ちなみに店員さんとかはノーカウントだからね」
ぐぬぬと俺が顔を歪ませたことを確認して、一ノ瀬は見せつけるように煙を吐き出してくる。とりあえず口では勝てない事がわかったので、ケツに軽く蹴りを入れる。抗議の目線を向けてくるが、それは一旦無視をする。
「大体な、最近は何が流行っているのかを俺に聞いてくるくせに佐藤自身若者向けのアプリとか一向に入れないじゃないか。せっかく教えても覚える気がないのは、それこそおっさんの証拠だよね」
「あ、そのアプリなら昨日入れたよ」
何故か一瞬時間が止まったようだった。え、なんでだか全くわからないんだけれど。怖いんだけれど。
長い沈黙の後に、一ノ瀬は「⋯⋯ほおう」とだけ呟いた。口角がどんどん上がっていくのが見える。いつものムカつくキザイケメンスマイルじゃなくて、下衆のような笑みだった。もしくは空腹の肉食獣が獲物を見つけたかのような表情。⋯⋯どちらにせよ、ろくでもないことは確かだった。
「佐藤クーン、全く持ってどのような心境の変化があったのかな? 俺にも教えて欲しいな」
媚びた声、しかしながらそこに込められた意味は嘲笑だった。確かにこれまでは一ノ瀬を相手に明確に拒み続けていたのに、端から見たら何かあったのだと思うだろう。実際問題何かあったわけだし。
失敗した、だからこそ情報を与えたくない。こんなもん正直に話してみろ。飲み会で玩具にされるのが関の山だ。
「おう、次の飲みで奢ってくれるならいいぞ」
先延ばし、つまりは今ここでただでは話さないことの意思表示。一ノ瀬は顎に手を当ててしばし考え込む。もうここからは俺と一ノ瀬の心理戦だ。内容は低レベルだけどな。
「佐藤、喉乾いてないか? コーヒーでも飲むか」
「魅力的ではあるが、生憎今はそういう気分じゃなくてな」
睨み合い、実際一ノ瀬相手なら話しても良かったかもしれない。しかし求められるなら答えたくなくなるというもの。なんでかな、天邪鬼だからかな。こうなったらテコでも動かないぞ。
「はあ、わかったよ。それでどんな動画見ているの?」
「ダンス動画だな」
「へえ、それこそ意外だ。一体佐藤にどんな心境の変化があったのやら。今度飲み会のときにでもじっくり聞かせてもらうよ」
「話すとは限らないけどな」
「相変わらず意固地だなー」
後から来た俺が灰皿に煙草を投げ入れる。喫煙者同士なら伝わる、会話終了の合図だった。無言でも2人とも事務所に足が向く。残業時間中とは言え、むしろ残業時間中だからこそ早く戻らないと怒られてしまう。この喫煙時間にも給料は発生しているわけだしな。
自分のデスクに着いた俺は、まだ残る仕事の多さにため息をついた。大人になるってこういうことだよな。おっさんである自覚は断じて無いが、大人である自覚は辛うじてあるのかもしれない。世知辛い。
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