偶像になりたい君、俺の日常
池峰奏
第1話
夕暮れの公園は、住宅地の中にあるというのに静かなのがお気に入りだった。聞こえるのは街路樹が風で揺れる音、遠くで走る車の音、離れたところから響く鳥の声。そして、女の子の踊る足音。
この公園は、バスを降りてから家に帰るまでの間にあり、横切るのが近道だった。それにこの場所に寄るのはもう1つ理由がある。そちらがメインの理由だった。なんとこの公園には喫煙所があるのだ。最近、もっぱら子どもの遊ぶ場所にそんなものは撤去されているはずだ。未だに残っているのは、それだけここを使用する子どもが少ないことの証明なのかもしれない。
この場所は平凡な会社員のささやかなオアシスだ。シャツのボタンをもう1つ外し、喫煙所のベンチに腰を下ろす。ライターをカチッと鳴らし、煙草に火をつける。煙を吐くと、風に吹かれてあっさり消えていった。今日もなんとか生き延びた。ようやく一日の疲れが少しだけ溶けていく気がした。
視線を前に戻すと、広場の片隅でいつもの女の子が踊っていた。ポニーテールがリズムに合わせて揺れ、大きめのTシャツが彼女の細い体を少しだけ隠している。今日はスマホを三脚に立てていないから、練習の日で撮影はしていないんだろうな。直接は聞いたことはないけれど、多分そう。
半年くらい前からここでダンスの練習してるのを見かけるようになった。「若いなぁ」と、つい呟いてしまう。彼女の動きには、なんかこう、眩いエネルギーがあって、良くないことだとは思いつつも目で追ってしまう。誰に対しての弁明でもないが、邪な気持ちがあるわけではない。例えるならば高校球児を応援しているような気持ちが近いだろう。若い子が頑張っている姿を見るだけで、応援したくなる。
でも、27歳の成人男性が若い女の子をジロジロ見るなんて、ただの怪しいおっさんだ。いや、おっさんじゃない。お兄さんだ。まだ27歳は若者の部類に入るはずだ。自分にそう言い聞かせる。確かに最近寝ても疲れが取れなくなったが、それは関係ないはずだ。
あまり凝視し過ぎるのは良くないな。彼女とは関わらない、それが大人としての常識だ。なによりも世間の目が怖い。俺みたいな社会人は普段なにも気にしていないようだけれど、そういうものだけには人一倍敏感なんだよな。過剰な自意識と言い換えられるかもしれないが。
煙草を灰皿に押しつけて、中に落とす。ジュッと水に火が触れる小気味のいい音がした。俺はこの音が地味に好きだったりもする。
公園を立ち去ろうとしたその時、踊っている彼女が何か落としたのが目に入った。偶然だった。そこまで視力が良いわけでもないし、なによりも彼女と俺までにはそれなりに距離もある。だから彼女がなにを落としたのかまではわからない。
彼女は気がつかず、またダンスに夢中だ。「さて、どうするかな⋯⋯」声をかけてダンスを止める、そして拾って渡すのは正直簡単だ。しかしながら、知らない女の子に話しかけるのはぶっちゃけハードルが高い。世の中には変な奴も多いし、あのぐらいの年頃の子には警戒されるに決まってる。
「それでもなぁ⋯⋯」放っておいたらそのまま忘れて帰ってしまうかもしれないし、誰かに踏まれてしまうかもしれないし。なによりも今踊っている彼女自身が踏みつけてしまう可能性も高いだろう。
はあ、と大きな大きな溜め息をつく。これからやることを考えたら少しだけ気が重くなる。面倒くさい仕事を始める前と同じ気持ちだ。それでもまあ、善意のつもりで行ってみるか。
ゆっくりと彼女に近づく。彼女はまだ俺に気づいていない。近づいてわかったが、ワイヤレスのイヤホンをつけている。それに、周りが見えなくなるくらい真剣なのかもしれない。
「あの、すみません」
突然の声に彼女がビクッと振り返る。目が合った瞬間、明らかに警戒した表情。そうだろうな。俺、滅茶苦茶怪しい奴に見られている。初手で警察に通報されなかっただけ儲けものだろう。敵意がないことを示すように、ゆっくりと両の手を上げる。降参のポーズとも言う。
「いや、変な意味じゃないだよ。ほら、落とし物したから。踏んづけちゃうとまずいと思って」
我ながら情けないくらいに挙動不審だった。しかしながら彼女は下に落としたケースを見つける。イヤホンのケースだろうか。
彼女は俺とケースを交互に見て、ちょっと硬い表情のまま数秒固まる。ははは、完全に警戒されちまってる。変な親切心なんか出すから。とは言え、落とすのを見てしまったのだからこのまま帰るのも目覚めが悪い。
緊迫した時間が流れる。ほんの数秒だろうか。俺には耐え難いほど長く感じる。冷や汗が背中を伝う。どうしよう、逃げた方がいいか?
「⋯⋯ぷっ、ふふ、あはは!」
突然、彼女が声を挙げて笑いだした。え、なになに怖い。お箸が転がっても笑っちゃうお年頃なの?
「ご、ごめんなさい。なんか、私よりも焦っていますし、徐々に後退してましたし⋯⋯!」
彼女はくすくす笑いながら、ケースを受け取る。近くで見ると、思ったより小柄で、笑顔が妙に人懐っこい。警戒が解けたのか、彼女は少しリラックスした様子で話し始めた。
「ありがとうございます、お兄さん。これ、大事なイヤホンなんですよ。助かりました」
お兄さんと言ったか⋯⋯。よし、ちゃんと「お兄さん」って呼ばれたな。内心嬉しさを隠しつつ、平静を装って答える。ついでにじりじりと後退していたことも忘れて欲しい。本当に無自覚だった、指摘されて初めて気がついた。
「いや、よかった。踏まれる前に拾えて」
「本当に助かりました! 私、いつもここでダンスの練習してて⋯⋯、って知ってますよね。それで、つい夢中になっちゃうんですよ」
「ダンス、か。素人目線だけど、結構キレキレだよね。いつも⋯⋯いや、通りがかりに見えるだけだけど」
しまった、これでは俺が彼女をいつも見ているみたいじゃないか。見てはいるけれども、不可抗力な部分もあるはずだ。再び後退の準備を始める。でも彼女はまたくすりと笑って、スマホを手に持つ。
「ありがとうございます。実は、配信者やってて。アイドル目指してるんです」
「アイドルか。へえぇ、すげえな」
思わず感嘆の声が漏れる。アイドルって、なんか遠い世界の話だと思ってたけど、こうやって目の前で夢を追いかけてる子がいるんだな。ちょっと眩しい気分になる。
この子ぐらいな頃の俺はどうだっただろうか。変にひねくれて夢を持てていなくて、かと言って現実がわかっているわけでもなくて。ぼんやりと会社員になるのだろうな、なんて思いながら進学したな。実際、会社員になったわけだけれども。
「でも、親には反対されてて。だから事務所のオーディションじゃなくて、配信でコツコツやってるんです。人気者になったら親も認めてくれるだろうし、オーディション受けるのにも有利かなって」
彼女は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、ポニーテールを揺らす。なんか、すごい楽しそうに話すな。俺まで少し元気もらった気がする。これがアイドルと言うものなのかなと独りでに納得をした。
「そっか。若いのに頑張ってるんだな。応援してるよ」
「え、本当ですか。やった! 1人ファンを獲得出来ましたね!」
そう言って、彼女はニッコリ笑う。名前も配信者名も聞かなかったけど、なんか奇妙な縁ができた気がした。どうせこの公園に来れば会えるわけだし。
煙草の匂いが残る公園を後にして、俺は家に向かって歩き出す。
「若い子から元気もらったなんて、俺もおっさんくさくなったな⋯⋯いや、お兄さんだ」
自虐的に笑いながら、胸の奥で小さく思う。ようし、明日の仕事もなんとか頑張ってみるか。いつもよりも足取りは軽く感じた。
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