第5話 中村円太脱走始末

 中村円太、京都において縛りに就き国に護送せらるや、警護として足軽頭江川登作外一名足軽六十余名を率いその任に当たれり。円太途上に行く行く江川等に説くに、勤皇の大義名分をもってせしかば彼ら大いに感服して、縛を解き敬意を払い士礼をとりたり。円太思えらく、彼ら我志のある所に感じ優遇歓待する好意にもとり、逃脱を試むるはいささか不義なるも、邦家(ほうか・国家)の経倫(けいりん・国家を治め整える)をもって自ら任するの我は、私人に対する区々(くく・まちまち)たる情義を考えうるに遑(いとま)あらずと密かに脱走の機を待てり。


 舟は淀川を下り大阪に入る、警護は甚だ寛にして機逸すべからず円太かねて用意したる裏白潜伏羽織を着し、板梯子の渡しあるを便りにとっさに対岸に上り夜暗に乗じて逃走せり。江川等大いに驚き追跡すれども捕らうるあたわず、途に白き羽織を着せしものに遇しも円太は黒き羽織を着けしかば気づかざりき。江川はもし追捕すること能わざれば、その罪実に大なりと大いに部下を叱咤督励して、必ず彼を捕らえんことを命じ八方捜索して㐮きに白羽織を着つけしものを捕うれば即ち円太なり。


 江川その行為の陋劣(ろうれつ・卑劣)なるを激怒憎悪し、足軽をしてこれを搏たしめ四肢を傷つく、傷痛み円太起つこと能わざるも再び逃走を恐れ更に首に枠を施し足に錠を下し警戒厳を加えたり。


 江川等、円太を護送して青柳に宿し明日箱崎着するの報せ、予と竹馬の友にして共に高田の門人たる江川の子傅次郎よりつたえ来りぬ。円太に一弟あり、根中恒次郎と呼ぶ、予は彼と同窓の友にして剣を吉富に鎗を高田に学び共に同段にして朝夕相往来親交あり。予彼に書を遣わし報じて曰く「令兄(れいけい・他人の兄を敬った呼び方)江川等に護送せられ、明日帰国す、君もし見んと欲せば予と共に来りき面接の労をとるべし。君が姓、令兄と異なり人その兄弟たるを知らざるべければ大いに便宜なり」と。


 この夜彼来訪して友誼(ゆうぎ・友情)の厚さを謝し、共に行かんことを乞う。彼辞し帰って江川来り明朝同行せんこと勧むといえども、予は根本と約あるをもって言を左右に託してこれを辞す。翌日根中をともない箱崎に至れば、江川登作等に御茶屋に到着し居れり。


 予まず安着(あんちゃく・無事に着く)を祝し、長途(ちょうと・長いみちのり)の労苦を慰めければ、彼は出迎えへの厚意を謝しなお語って曰く「中村円太は容易ならざる罪状あり、これが護送の途中において逃走を企てたるも厳密なる捜索をなしたるをもって、ついに再び逮捕せられたり。逸走(いっそう・走って逃げる)せしめたらん事はまさに割腹して怠慢の罪を謝せざるべからざりし」と。


 予は陽に(ように・うわべでは)彼が事ここにいたり、なお怯儒の挙動に出でしを嘲笑し江川に問うて曰く「今彼を拘置せらるるは何れなるかな」また脱走の恐れなき牢と江川右方を指示して曰く「彼はその宝にあり、拘禁厳なれば嚢中(のうちゅう・袋の中)の鼠」と。一般の且つ杖縛をしてほとんど歩行するあたわず、もはや逃走の憂い無しと大酒をあおいで気を安んじたりき。


 予は根中を招き、襖を開いて円太を見せしめ、「これ中村円太なり、この醜状実に晒う(わらう・失笑)にたえたり」と、彼等兄弟にあらざる信もってす。根中熟視これを久しうし感想胸にせまり、骨肉の情禁ずるあたわずで密かに血涙を絞りたり。


 予他人に覚知せられんことを恐れすみやかに襖を閉じ江川に語っていわく、円太は不日(ふじつ・近いうち)重刑に処せられん、彼が無謀陋愚(むぼうろうぐ・愚かな)の行為。まことに憐れむべしとことさらに嘲笑の意を表し、江川等と酒杯を挙げて他意なきもののごとくす。根中密かに謂いえらく家兄の事、実に関心に堪えず君予が為に善後の策を構ぜよと、予これを諾し共に去りて網屋鰻屋に赴く。


 根中愁然として予に謂いて曰く「家兄をして刑場の露と消えしむる、実に慨嘆に堪えず。監守を斬りこれを奪い去って共に自刃せんと欲す如何」と。予これを止めて曰く「非なり、入獄を待って破獄脱出せしむる策の安全なるものなり。予に策あり、君憂うるなかれ」と、根中予が言に従う。


 これよりしばしば海津(幸一)月形、建部、藤、今中、伊藤、森等と野村望東尼方に会合熟議し機至るや、まず別宴を野村の山荘に開き古藤宇蔵が内応(ないおう・敵と通じ裏切る)により、上番、下番を縄縛しついに円太を脱出せしめ、これを近寺に潜匿し二日を経て海路、建部方に赴かしめ転じて、博多牛町千田雪女方に一宿しついに長州に走らしむ。根中も同じく円太を救出せし後、野村及び予が家に三泊して長州に脱走せり。これと同時に吉田、中原等は姦奸の徒を斬り、また長州に走れり。


 予は郷国にあり、はるかに相応じて計画する所あり。別宴の席上、左の句を書し根中は槍穂一本を残しもって記念となす。



円心貫海外  無可

夷等の国を残らず討鎮め光輝く大和魂  元壽(元武の前名)

別れてもまた逢う時はよしの川花の散る様に共に散るらん 元壽

夏過ぎて秋はきぬらん都路へにしき着てこそ我は待つらん 望東


後ち恒次郎は京都の変に斃れる惜しむべきかな。


※補足説明【中村三兄弟】 

中村用六 1825-1873

筑前竹槍一揆の鎮撫総裁となりますが、一揆勢の県庁乱入の責任をとり切腹。


中村円太 1835-1865

佐幕派が席巻し筑前勤王党が危機な時に下関より芸者を伴い博多に現れたために筑前勤王党により暗殺される。


中村恒次郎 1841-1864

禁門の変で戦死。


中村円太については1863年に藩命を無視し、桝小屋の獄に捕らえられましたが、本文のように1864年に脱獄します。長州に逃れますが、その後同じ年に長州から亡命した高杉晋作を連れて博多にやってきます。博多の勤王商人石蔵卯平宅に潜み、中村は高杉を残して真夜中に月形洗蔵宅に走ります。月形は中村から事の次第を聞き、盟友の鷹取養巴宅に行き協議の末に高杉のいる石蔵卯平宅へ明け方に行きます。


高杉晋作と面会して九州各藩有志者連合の趣旨を聞きます。高杉は佐賀藩、福岡藩、対馬藩、長州藩と団結しようとします。高杉を今中作兵衛、伊丹真一郎、江上栄之進等が護衛して対馬藩の領地、田代に行きます。九州連合の必要性を説きますがかなわず、博多に戻ります。中村円太はここで一行と別れます。この後は高杉晋作は野村望東尼の平尾山荘に匿われます。この話はここでは割愛します。


※第7話に江島茂逸著の「高杉晋作略伝入筑始末」を筑前潜入の部分を抜粋して記載しています。高杉晋作の筑前亡命は今もこの話がベースになっています。


長州では俗論派政府が席捲し、奇兵隊さえも解散命令が出ていて動けず、高杉晋作は中村円太から筑前亡命をすすめられる。福岡藩、佐賀藩、対馬藩と連携を謀るも無謀な計画だったと分かり、他藩を頼らず自分で長州藩の藩論を変える功山寺の挙兵のきっかけになったのではないでしょうか。


中村円太

文久三年(1863)12月藩命無視で捕縛され桝小屋獄に収監

元治元年(1864) 3月脱獄して長州に亡命

元治元年(1862)11月1日頃 高杉晋作、中村円太、大庭伝七(白石正一郎の弟)に下関から博多に向かう。3日頃博多着、石蔵屋に潜伏する。









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