風の書と16歳の図書館

トモさん

第1部:風の書の読み手 第1話運命の書 

 放課後の教室は、もうほとんど人影がなかった。佐山あきは、誰もいなくなった窓際の席で、教科書をぼんやりと眺めていた。もうすぐ夏休みだというのに、彼女の心は晴れなかった。理由は、机の上に広げられた一冊の文庫本、そしてその横に置かれた白紙の原稿用紙にある。


高校2年生の夏休みの宿題──読書感想文。


それは、佐山あきにとって、最も恐ろしい課題だった。


彼女は、本が嫌いだった。文字を追うだけで、頭がずきずきと痛み、吐き気がこみ上げてくる。それは小学生の頃から続く、どうしようもない体質だった。小学校4年生まで、あきは文字を読むことも書くことも苦手だった。周りの子どもたちが楽しそうに絵本を読んでいる中、彼女だけはそれができなかった。必死に練習し、なんとか読み書きはできるようになったものの、本に対する拒絶感は消えなかった。


クラスメイトたちは、「面白い本があるよ」と気軽に話しかけてくるが、そのたびに曖昧な笑顔でごまかすしかなかった。読書感想文という言葉を聞くたびに、あきの心は重くなる。これまでにまともに感想文を書いたことなど一度もなかった。


「はぁ……」


小さなため息が漏れる。今日はどうしても、この課題を少しでも進めておきたかった。あきは重い足取りで、学校の旧校舎へと向かった。そこにあるのは、生徒たちに忘れ去られたような古い図書室。新校舎に新しい図書館ができて以来、ほとんど使われていない場所だ。


埃っぽい空気が、懐かしい匂いを運んでくる。あきは、誰にも見つからないように、静かに扉を開けた。窓から差し込む夕焼けの光が、図書室の空気に揺れる。古い木の棚には、背表紙が色褪せた本がぎっしりと並んでいた。


「……誰もいない」


ここなら、誰にも邪魔されずに、自分とこの本、そして苦手な読書感想文という課題と向き合えるかもしれない。あきは、壁際の隅にある、大きな窓に面した席に腰を下ろした。


文庫本を開く。しかし、一行目を読んだだけで、頭がガンガンと鳴り始める。心臓が早鐘を打ち、胃のあたりがむかむかしてきた。だめだ、やっぱり読めない。無理だ。


あきは諦めて本を閉じ、顔を上げて窓の外を見た。オレンジ色の空に、どこからか風が吹いてきて、窓ガラスを揺らす。その風に誘われるように、あきは立ち上がって、ふと目の前の本棚に目を向けた。


埃を被った、一冊の薄い本。


他の本とは明らかに違う雰囲気を放っていた。背表紙には、タイトルも著者名もなく、ただ翡翠色の模様が描かれているだけだった。それはまるで、風に舞う羽根のようにも、木の葉のようにも見えた。


好奇心に駆られて、あきはそっとその本に触れた。その瞬間、本が淡い光を放ち、あきの指に吸い付くように手のひらに収まった。


「え……?」


信じられない光景に、あきは呆然とする。手に持った本は、暖かく、まるで生きているかのように脈打っていた。恐怖と驚きが同時に押し寄せ、あきは本を床に落とそうとする。だが、本は彼女の手にぴたりと張り付いて離れない。


本が、勝手に開いた。


一番最初のページに、たった一文だけが書かれていた。それは、まるで筆で書かれたかのような流れるような文字で、あきの名前を呼んでいるようだった。


── 佐山あき、運命の読み手


その文字を読んだ瞬間、あきの脳内に、直接語りかけてくるような声が響いた。


『やあ、ようやく見つけてくれたね、ボクの読み手』


声は幼く、どこか生意気で、そして自信に満ち溢れていた。あきは驚いて、あたりを見回す。もちろん、誰もいない。


『キミの頭の中にいるんだよ。正確には、キミの手に持たれているこの本、ボクの名前はポン。これからよろしく』


「……ポン?」


あきが震える声で呟くと、本から小さな光の玉が飛び出し、くるくると宙を舞い始めた。淡い金色の光が、埃の舞う図書室で輝いている。


『キミ、読書が苦手なんだって? そんなんでどうやってボクの力を引き出すんだい?』


ポンの声が楽しそうに響く。あきの頭痛は、さっきまでのものとは比べ物にならないほど強くなっていた。


「な、何なの……あんた……」


『んー? ボクは君の相棒。そして、ボクがキミの力を引き出す。……読めないなら、頭に直接流し込んでやる』


ポンがそう言うと、光の玉が強く輝いた。その光は、あきの心臓を直接掴むかのように、強烈な痛みと頭痛を引き起こす。


「うっ……!」


あきは激しい痛みに耐えきれず、その場に膝をついた。目の前がぐらぐらと揺れ、視界が真っ白になる。意識が遠のいていく中、最後に聞こえたのは、ポンの生意気な声だった。


『……さあ、風の始まりだ』


そうして、あきの意識は完全に途切れた。

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