Bar 3rd Friday

Spica|言葉を編む

Chapter 1:Negroni

『ネグローニ』


甘くて、苦くて、深い赤色のカクテル。 ジンの輪郭に、カンパリの沈黙、ベルモットの余韻。


ひとたび混ぜれば、もう戻れない味になる。 ──恋が終わった夜に、よく似ている。


—————————


あの夜も、第3金曜日だった。


午後8時過ぎ。 浜松町の裏通りは静かで、春の気配がほんのわずかに漂いはじめていた。


店内には、チック・コリアの「Crystal Silence」が低く流れている。


彼がよく言っていた。

「これ、エモすぎるんだよな」


先に来ていたのは、いつもの2人だった。 水割りを手に、軽口を交わし合っている。


妻帯者の男と、離婚歴のある男。


あの3人の中で、もっともよく笑い、そして、もっとも黙るのが、この2人かもしれない。


ドアが開いた。 少し遅れて、彼が現れた。


黒いジャケットに、ノータイ。

どこか、肩が沈んで見えた。


「終わったわ」


カウンターの隅に腰を下ろし、吐き出すようにそう言った。


店の空気が、ほんの少し変わる。彼が、こういう声で話し出すときには、いつもそうだ。


———————


俺は黙って、グラスに氷を落とした。 次に注ぐ酒は、すでに決まっている。


ジン。 カンパリ。 スイートベルモット。


ステアはしない。

氷とともに、赤く苦い色が、静かに広がっていく。


彼はグラスを見つめながら、しばらく何も言わなかった。


俺は手を止めずに、グラスを整える。


「……マスター、今日はお任せでいいですか」


穏やかな声だったが、どこか力がない。 それだけで、十分だった。


「苦めの方が合う夜だろうな」


俺は、ネグローニを差し出した。


彼は受け取りながら、少し笑った。


「……いつもながら、察しが良すぎますね」


「9ヶ月か……俺にしては、まあまあ続いた方ですよ」


一口飲んで、ぽつりとつぶやいた。


「それは……長い方やね」


水割りの男が、静かに応じる。


「お前が“付き合ってる”って言ったの、俺たちには初めてじゃない?」


離婚した男が、眉を少し上げる。


「そうだっけ?」


彼は目を伏せ、苦笑いする。


「その子の名前、聞いてなかったけど」


「うん、今も言うつもりはないよ」


————————


──出会ったのは、去年の春。


その日もイベントだった。

渋谷の、いかにも意識の高そうなカフェバー。


ノマド、資金調達、プロダクト思考。

そんな言葉が飛び交う中、彼女は黙々と会計の作業をこなしていた。


笑顔はあった。

でも、無駄がない。

誰にでも愛想がいいのに、なぜか俺にだけ視線が長かった気がした。


たぶん、俺が空気を読まずにスーツで来ていたからだろう。


「あなた、ベンチャーの人ってより、外資のエグゼクティブって感じですよね」


──その第一声が、妙に引っかかった。


名刺を交換し、LINEを交換し、次の週末には食事に行った。


きっかけなんて、いつもそんなもんだ。 ただ──今回は、続いた。


それが、いつもとは少し違った。


彼女はやわらかいのに、芯があった。

笑っていても、どこかすべてを見透かしているような瞳だった。


だからこそ、「軽く遊んでる」自分を演じられなかった。


──惚れてたと思う。 たぶん、本気で。


でも──


「あなたって、“選ばれる”人じゃない気がするの」


彼女は、そう言った。


「器用で、頭がいいのに、なぜか“ここにいる”って感じがしない。 いつも、どこかに逃げ場を作ってる」


何も言えなかった。

自分でも、薄々気づいていた。この10年、ずっとそうだった。


スタートアップ。 ジョブホッパー。 フリーランス。 プロジェクト契約。


選んできたようで、選ばれてこなかった。


“浮いてる”とは思っていなかった。

でも、あの言葉を受けて初めて、自分が“根のない人間”だったことに気づいた。


──別れたのは、秋だった。


明確な別れもなかった。

ただ、連絡が少しずつ減っていき、ある日ふと、LINEのアイコンが変わっていた。


その中の彼女は、俺が知っていたどの瞬間よりも、穏やかな顔をしていた。


—————————


ネグローニのグラスには、まだ三分の一ほど残っていた。


彼はそれを見つめ、ゆっくりと揺らしている。


「……ま、俺にしては上出来だったと思うよ……」


誰も、茶化さなかった。


「そういう相手ほど、あとを引くよね」


水割りの男がぽつりと言った。


「ずっと忘れられない人って、いるよね」


離婚した男の言葉に、彼は少し目を細めた。


「──そういうもんなのかね」


そう言って、残りを一息で飲み干す。


俺は黙って、空いたグラスを引き取った。


「来月も、第3金曜でいいよな」


水割りの男が言う。


「変わらないさ」


IT男が短く応じる。


「じゃあ、次は春の話でも聞かせてくださいよ」


離婚した男の声は、少しだけ軽くなっていた。


IT男は無言で立ち上がり、ジャケットを羽織る。


その背に、東京タワーの赤い灯が淡く映った。


——————————


苦味と、余韻。


──恋が終わる夜は、いつも“甘さのあとに来るもの”だけが、残る。


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