第2話 待ち合わせのない約束
―交差するまえの静寂―
男は待っていた。
この街を離れる朝、なぜか足は自然と駅へ向いた。
最後にこの場所を見ておきたかった──そう思ったのは表向きで、 本当は、彼女の姿を探している自分がいることにも気づいていた。
土曜の午前、春休み。
駅構内はどこかぼんやりと静かで、数人の家族連れがホームへ向かうのが見えた。
スーツ姿の人影はない。
改札横の掲示板には、手書きの案内と行き先表示が貼られている。
その隣に、緑の公衆電話が二台。かすかに揺れる受話器の線が、昔の習慣を思い出させた。
番号は覚えていた。
何度か、かけようと思ったこともある。
けれど、そうしなかった。自分のなかの答えが、既に出ていることを知っていたからだ。
木製のベンチに腰を下ろすと、背中に冷たさが伝わった。
腕時計を見たが、針の位置は曖昧なままでいい気がした。
時間よりも、ここに来たという事実だけが意味を持っていた。
今日はもう、誰かを待つ日ではなかった。
ただ、自分の中にある気持ちに、最後の区切りをつけるために。
──「これで終わらせよう」
男は、かすかに呟いだ。
———————
女は待っていた。
この駅に来るのは、何年ぶりだっただろう。
彼と別れてからは避けていた場所──けれど今日は、なぜかその静けさが必要だった。
彼が今日、街を離れることは知っていた。
誰かから聞いたわけではない。
ただ、なんとなく、彼の仕草や言葉の端々から察していた。
駅に向かう坂道。
風に乗って沈丁花の香りがした。
春の空気は柔らかく、けれど胸の奥には重さが残っていた。
構内に入ると、掲示板が目に入った。
色褪せた路線図、その隣に伝言スペースのような小さな黒板。
そこには誰かの走り書きが残っていた。意味はなかったが、足が止まりそうになった。
“彼に会いたいわけじゃない”
そう思いながらも、どこかで姿を探している。
たとえ見かけたとしても、声をかけるつもりはない──そのはずだった。
けれど、もし“何か”が起きたら。
そのかすかな予感が、今日ここに足を運ばせた。
──「もう一度だけ、彼の顔を見てみたかった。」
女は想いを確かめ、言葉にした。
————————
彼と彼女は、それぞれの理由で、同じ駅を目指していた。
だがその時間は、ほんのわずかにずれていた。
————————
―すれ違いの先にあるもの―
電車がホームを通り抜ける音だけが、空気を震わせた。
彼は顔を上げず、その風をただ受け止めていた。
いつの間にか、ベンチの隣に座っていた子ども連れの親子も、どこかへ行ってしまっていた。
何も起きなかった。
それで良かった。
いや、少しだけ、胸の奥が静かに疼いたのは事実だ。
だがそれでも、言葉にしてしまえば、全部が台無しになる気がした。
ベンチから立ち上がると、鞄の肩紐が少しだけきしんだ。
最後に改札を一度だけ振り返る。けれど、そこには誰の姿もなかった。
歩き出す。
階段を昇り、発車時刻の近いホームへ向かう。
背中に朝の陽射しが差し込み、少しだけ目を細めた。
──「……やっぱり、来なかったんだな」
男は、確信めいた乾いた声で呟いだ。
————————
構内へ入った女は、ゆっくりと歩いた。
すれ違う人は少なく、音だけがやけに大きく響く。
電車が走り去ったあとで、空気がすっと軽くなった気がした。
改札を抜け、構内に広がるホームへ。
ベンチが見えたとき、そこには誰もいなかった。
駅に流れる風が、何かを追い越していったような気がした。
彼は来ていなかった──そう思いながらも、 なぜかそのベンチには、誰かが座っていたような痕跡が残っていた。
木の質感、足元に落ちる影。
わかっていた。
彼はもう、この街にはいない。
でも、来たのだ。きっと。
それを知ってしまったことで、涙が出るわけでも、後悔があふれるわけでもない。
ただ、“自分の心の一部がやっと追いついた”気がした。
──「……一足、遅かったのね」
ため息の様な、小さな声だった。
————————
男は、列車に乗っていた。
窓の外には、いつもの街並み。もうすぐ、それも遠ざかる。
何も変わらないはずの景色が、今日は少しだけ違って見えた。
たぶん、自分が変わろうとしているからだろう。
鞄の内ポケットに、一枚の未使用の乗車券が残っていた。
数年前、ふたりで一度だけ計画した小旅行──結局、その日彼女は現れなかった。
それでも、彼はその切符をずっと持っていた。
今日、この駅を離れる直前に、ようやくそれをゴミ箱に滑り込ませた。
女は、構内をあとにした。
ベンチには寄らなかった。ただ、視界の端に焼きつけて、踵を返した。
“これでよかった” それを言葉に出さずに思えるようになるまで、随分とかかった気がした。
春の陽射しが少しだけ強くなっている。
歩く足取りが軽くなったわけではない。
けれど、戻る場所は確かにある。
二人は、すれ違った。
わずかな時間、わずかな距離。
でも、それは“想いが交差する”には十分だったのかもしれない。
彼は上り、彼女は下り。
電車は交差せず、それぞれの方向へと静かに走り出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます