男と女-珈琲一杯のストーリー-
Spica|言葉を編む
第1話 とある珈琲店にて
「やあ、久しぶりだね」
男がそっと声をかけると、女性は顔を上げて、ふっと笑った。
「……あら、アナタなのね。何年ぶりかしら」
「少なくとも、このカフェで会うのは十年ぶりだと思う。」
「そうね、北野に来るのも、随分久しぶりよ」
彼は軽く頷くと、注文の合図をして、椅子を引いた。
「向かい、座ってもいい?」
「もちろん。昔と同じ席ね」
ふたりの間に、コーヒーの香りが立ち上った。
「相変わらず、ブラック?」
「いや、最近はミルクも入れることが増えたよ。歳を取ったからかもしれない」
「それは変わったわね。昔は頑なに、砂糖すら拒んでたくせに」
「うん、ただ恰好つけてたんだろうな。今思えば、いろいろ見栄、見せ方にこだわっていたと思うよ。」
女はカップを手にしながら、少しだけ目を伏せた。
———————
「アナタ、神戸に戻ってきたの?」
「ああ、つい最近。いろいろあってね」
「……いろいろ?」
「うん、少し前に離婚してさ。1つの区切り、ってやつだと思ってね。
転職とセットで、神戸に戻って来たよ」
「そう。……そっか、色々あったのね。」
「君は?幸せにやってるとSから聞いたよ。
「ありがとう。……まぁ、いろいろあるけど、それなりにね。」
彼女は、カップの縁に唇を近づける前に、ふと微笑んだ。
「娘がね、ホットココアが好きで。最近はつられて、また私も飲むようになったの」
男は少しだけ驚いたように、けれど優しく笑った。
「そっか。今も好きなんだね、ホットココア。……シナモンも、相変わらずかい?」
窓の外には、北野坂の石畳が、午後の光を細く反射していた。
彼の背中越しに聞こえるのは、グラインダーの音と、店主の低い笑い声。
あの頃、二人が交わした言葉よりも、交わせなかった言葉の方が、今はよく思い出される。
しばらく沈黙した後、男がぽつりと漏らした。
「あの時、もう少し、こうやって本音で話せていたら、違ったのかな。」
女は視線を外したまま、笑うような、ため息のような声を出した。
「……私も、そう思うことあるわ。でも、あの時の私たちには、無理だったと思う。」
「たしかに。若さとか、余裕のなさとかね。ただ、自分の事で精一杯だった。」
二人のカップは、いつの間にか空になっていた。
女がスマートフォンを取り出し、画面をちらりと見た。
「そろそろ行かなくちゃ。娘が待ってるようなの」
「うん、そっか。……元気で」
彼女は席を立ち、鞄の紐を肩にかけながら、ふと振り返った。
「……会えてよかった。ありがとう」
「こちらこそ。何より今の君の幸せを、大切にね。」
彼女が店を出ていったあと、男はしばらく扉の向こうを見つめていた。
空になったカップには、珈琲の僅かな残り香だけがあった。
それから男は、空になったカップを優しく両手で包み込んだ。
ぬくもりはもう残っていないけれど、不思議と、その重さが心に残った。
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