凛として、お隣さん。~クールな和紙職人の彼女は、俺だけに甘くとろける癒やしをくれる~【ボイスドラマ】【G’sこえけん】
☆ほしい
第1話
【SE: 電車の走行音、ゆっくりと減速し停車する音、プシューというドアの開く音】
主人公:(モノローグ)東京の喧騒から逃げるようにして、俺は故郷の町に帰ってきた。心療内科の医者には「環境を変えるのが一番です」なんて、分かりきったことを言われた。燃え尽き症候群。それが、がむしゃらに働いた俺に与えられた、不名誉な病名だった。
【SE: キャリーケースを引く音(アスファルトの上)、遠くで鳴くひぐらしの声】
主人公:(モノローグ)古い木造アパート。今日からここが俺の城だ。隣の部屋からは、トントン、と何かを打つような、規則正しい音が聞こえてくる。……まあ、ご近所付き合いなんて、どうでもいいか。今はただ、静かに眠りたい。
【SE: 鍵を開け、ドアを開ける音。ギィ、と少し軋む】
部屋に入り、荷物を放り出す。段ボールの山を見て、ため息が漏れた。その時だった。
【SE: 隣の部屋の障子がスッと開く音】
凛(りん):「……あの」
声がした方を見ると、隣の部屋の窓から、一人の女性がこちらを覗いていた。夕陽を背にしたその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。長く艶やかな黒髪。透き通るような白い肌。そして、全てを見透かすような、静かで涼やかな瞳。
凛:「……もしかして、今日越してこられた方、ですか?」
主人公:「あ、はい。そうですけど……」
凛:「……やっぱり。その声、覚えてる。……久しぶり、だね」
主人公:「え……?」
彼女はふわりと微笑んだ。その笑みは、俺の記憶の奥底に眠っていた、大切な何かを揺り起こした。
主人公:「もしかして……りん……? 如月、凛か?」
凛:「ふふ。やっと分かった。……おかえりなさい」
主人公:(モノローグ)凛。俺の、幼馴染。昔はいつも俺の後ろをついてくる、泣き虫な女の子だったはずが……。目の前にいる彼女は、凛とした空気をまとう、知らない女性のようだった。その手には、俺の知らない、インクか墨のような染みがついていた。
***
【SE: 衣擦れの音、ゆっくりと閉まる障子の音】
凛の部屋、というより工房に、俺は招き入れられた。六畳ほどの和室には、大きな木の作業台が置かれ、壁には様々な道具が整然と並んでいる。部屋全体が、どこか懐かしい、紙とインクの匂いに満たされていた。
凛:「散らかっていて、ごめんなさい。今、仕事の途中で」
主人公:「いや、すごいな……。凛、ここで何してるんだ?」
凛:「和紙を、作ってるの。手漉き和紙。……見ていく?」
彼女はそう言うと、作業台の前に座った。その所作は、無駄がなく、洗練されている。
【SE: 凛が木の枠(簀桁・すげた)を手に取る音。カタリ、と軽い音】
凛:「これが『簀桁』。これで、紙の原料を漉いていくの」
彼女は大きな水槽(漉き舟)に簀桁を浸し、ゆっくりと揺らし始めた。
【SE: 水槽の中で、水と繊維がチャプチャプと優しく混ざり合う音。低く、心地よい水音】
凛:(真剣な、少し低い声で)「こうやって、繊維を均一に絡ませて……。水の流れと、呼吸を合わせるように。……静かに、丁寧に」
主人公:(モノローグ)彼女の横顔は真剣そのもので、俺の知っている凛とは別人のようだ。でも、その声と、水が立てる音は、不思議と俺のささくれだった心を落ち着かせていく。
【SE: 簀桁をゆっくりと持ち上げる音。水がサラサラと滴り落ちる】
凛:「……ふぅ。これで一枚。これを重ねて、圧をかけて、乾かして……。気の遠くなるような作業だけど、私は好きなの。無心になれるから」
彼女は立ち上がると、今度は急須と湯呑を準備し始めた。
【SE: 急須に茶葉を入れるサラサラという音。やかんで沸いたお湯を、少し冷ましてから注ぐ音。トクトク…】
凛:「あなた、すごく疲れた顔をしてる。……東京で、何かあったの?」
主人公:「……まあ、色々とな」
凛:「そう。……無理にとは言わない。でも、ここでは、無理しなくていいから」
【SE: 湯呑を俺の前に置く、コトリ、という音】
凛:(優しい囁き声で、右耳へ)「お茶、どうぞ。……少しは、落ち着くと思うから」
主人公:(モノローグ)差し出された湯呑から立ち上る湯気。その向こうで、凛が優しく微笑んでいた。クールな職人の顔と、昔と変わらない優しい笑顔。そのギャップに、俺の心臓が、少しだけ跳ねた。
***
【SE: しとしとと降る雨の音。屋根を静かに打つ雨垂れ】
主人公:(モノローグ)翌日は、一日中雨だった。何もする気が起きず、ベッドの上で天井を眺めていると、隣の部屋から声がかかった。
凛:「……いるんでしょう? ご飯、作りすぎちゃったから。よかったら、一緒にどうかなって」
おずおずと工房にお邪魔すると、そこには小さなちゃぶ台と、湯気の立つ土鍋が用意されていた。
主人公:「……すまん。世話になる」
凛:「いいの。気にしないで。……それより、肩、凝ってるでしょう。ずっと同じ姿勢でいたから」
主人公:「まあな……」
凛:「ちょっと、失礼」
彼女は俺の後ろに回り込むと、そっと俺の肩に手を置いた。
【SE: 凛の手が主人公の肩に触れる、衣擦れの音。ゆっくりと、指が肩を揉みほぐす音。こりこり、という筋肉の音と、指の圧がかかる音】
凛:(耳元で、心配そうな囁き声)「うわ……すごい、石みたいに硬いよ。……こんなになるまで、我慢してたの? ……だめだよ、ちゃんと自分のこと、労わってあげなきゃ」
主人公:「……ん」
凛:「痛くない? 大丈夫?」
主人公:「……大丈夫。気持ち、いい……」
凛:(左耳へ、少し吐息混じりに)「よかった。……ここは、特に凝ってるね。パソコンとか、ずっと見てたんでしょう。……指、少し冷たいかもしれないけど、ごめんね」
【SE: 指が首筋から肩甲骨にかけて、ゆっくりと滑る音。オイルなどはない、素肌の温もりが伝わるような音】
凛:「ふぅ……。少しは、柔らかくなったかな。……昔、よくこうやって、お母さんの肩、揉んであげてたんだ。喜んでくれるのが嬉しくて」
主人公:(モノローlog)彼女の指が触れるたび、体の力が抜けていく。雨音と、彼女の優しい声と、指の温もり。その全てが、俺の心を溶かしていくようだった。
凛:(優しい声で)「……手も、見せて」
彼女は俺の前に座り直すと、俺の手を取った。
【SE: 凛の指が、主人公の手のひらを優しく押す音。指を一本一本、丁寧に揉みほぐす音】
凛:(囁き声で)「この手で、たくさん頑張ってきたんだね。……えらい、えらい。……もう、十分頑張ったよ。だから、今はゆっくり休んで」
主人公:(モノローグ)彼女の言葉は、誰にも言ってもらえなかった言葉だった。肯定の言葉が、乾いた心にじんわりと染み渡っていく。俺は、ただ黙って、彼女のなすがままになっていた。
***
【SE: 晴れた日の朝。遠くで鳥のさえずり。工房に差し込む柔らかい日差し】
凛:「ねえ、あなたもやってみない? 和紙作り」
主人公:「俺が? 無理だよ、不器用だし」
凛:「大丈夫。私がちゃんと教えるから。……それに、自分で作った紙に、これからの目標とか、書いてみるのもいいかもしれないよ」
断りきれず、俺は凛に並んで作業台の前に立った。
凛:「じゃあ、まずは私がお手本を見せるね。……もう一度、よく見てて」
【SE: 凛が簀桁を水槽に入れ、リズミカルに揺らす音。チャプ、チャプ、ユラ……。非常に滑らかで、無駄のない音】
凛:(落ち着いた声で)「このリズムが大事。焦らず、ゆっくりと。……紙の神様と、対話するみたいにね」
【SE: 簀桁から水が滴り落ちる音。濡れた和紙のシートが、板の上に置かれる、ペタリ、という湿った音】
凛:「はい、どうぞ。あなたの番」
俺は恐る恐る、見よう見まねで簀桁を水に浸す。
【SE: 主人公が簀桁を揺らす音。バシャ、バシャ!と不格好で、水が跳ねる音】
主人公:「うわっ! 全然うまくいかない!」
凛:(くすくすと笑う声)「ふふっ、力みすぎ。……もっと、肩の力、抜いて。……ちょっと、失礼」
凛は俺の後ろから、そっと俺の手に自分の手を重ねた。
【SE: 凛の手が主人公の手に重なる。衣擦れ】
凛:(右耳のすぐ側で、囁くように)「こう。……私の動きに、合わせてみて。……そう、上手、上手」
彼女の体温と、優しい声がすぐ側にある。俺は心臓がうるさいのを必死で誤魔化しながら、彼女のリードに身を任せた。
【SE: 二人の手によって、簀桁が滑らかに揺れる音。チャプ……チャプ……。さっきよりずっと穏やかな水音】
凛:「……うん、すごくいい。……綺麗にできたよ」
二人で漉いた一枚の和紙。それは不格好かもしれないけれど、温かみのある、特別な一枚になった。
凛:「乾いたら、何か書こうね。……あなたの、新しい始まりの言葉を」
主人公:(モノローグ)彼女の笑顔を見ていると、俺も、もう一度何かを始められるかもしれない、なんて思えた。空っぽだった心に、小さな灯りがともったような、そんな気がした。
***
その日の夜。俺は、どうしても凛に礼が言いたくて、彼女の部屋を訪ねた。
主人公:「凛、今日、ありがとうな。……なんだか、少し、前を向けそうな気がする」
凛:「……よかった。……ねえ、もしよかったら、もっと癒やしてあげようか?」
主人公:「え?」
凛:「耳かき、好き?」
彼女は悪戯っぽく笑うと、ちゃぶ台の上に小さな箱を置いた。中には、竹製の耳かきと、ふわふわの梵天が入っている。
凛:「はい、こっち来て。……私の膝、貸してあげる」
主人公:「いや、それは……」
凛:「いいから。……ほら、遠慮しないで」
俺は、言われるがままに、彼女の膝に頭を乗せた。ふわりと、彼女の優しい匂いがする。
【SE: 凛が竹の耳かきを手に取る、カチャリ、という小さな音】
凛:(右耳へ、吐息が混じるほどの囁き声で)「じゃあ、右のお耳から、失礼しますね……。……動いちゃ、だめだよ?」
【SE: 竹の耳かきが、耳の入口あたりを、カリ……カリ……と優しく掻く音。非常に繊細で、心地よい音】
凛:「どうかな……? 気持ちいい?」
主人公:「……ん……」
凛:「ふふ。よかった。……ここは、どう? ……あ、ここ、気持ちいいポイントでしょ。……分かるよ、あなたの耳、私が一番知ってるんだから」
【SE: 耳の少し奥を、コリ……コリ……と、絶妙な力加減で掻く音。時々、竹の先端が壁に当たる、コン、という乾いた音】
凛:「たくさん、溜まってたねぇ。……毎日、色んな音を聞いて、疲れちゃったんだね。……お耳も、お休みさせてあげないと」
主人公:(モノローグ)彼女の囁き声と、耳の中で響く音が、脳を直接マッサージしているようだ。意識が、だんだんと蕩けていく。
【SE: 耳かきを置き、今度は梵天(綿毛)を手に取る音】
凛:(囁き声で)「仕上げは、これで……。ふわふわ、するよ……」
【SE: 梵天が耳の周りを、サワサワ……フワフワ……と撫でる音。くすぐったくて、気持ちいい音】
凛:「ふふ、くすぐったい? ……もうちょっとだけ、我慢してね」
右耳が終わると、今度は左耳。同じように、丁寧で、優しい時間が流れていく。
凛:(左耳へ、囁きながら)「……はい、おしまい。……綺麗になったよ。……よく、頑張りました」
彼女はそう言うと、俺の頭を優しく撫でた。
凛:「……眠くなっちゃった? ……このまま、寝てもいいよ。……私が、ずっとそばにいてあげるから」
主人公:(モノローグ)もう、ほとんど意識がない。彼女の膝の上で、俺は久しぶりに、何の心配もない、深い眠りに落ちていった。
エピローグ:君と綴る、新しい一日
【SE: 朝の鳥のさえずり。障子越しの柔らかい光】
目を覚ますと、俺は自分の布団の中にいた。いつの間に運ばれたのだろう。枕元には、一枚の和紙と、筆が置かれていた。昨日、二人で漉いた和紙だ。
【SE: 隣の部屋から、トントン、と和紙を打つ砧(きぬた)の音。規則正しく、心地よい音】
主人公:(モノローグ)凛は、もう仕事をしている。あの凛とした横顔で、紙と向き合っているのだろう。
俺は筆を手に取った。何を書こうか。少し迷って、そして、一言だけ、綴った。
『ありがとう』
その時、隣の部屋の音が、ふと止んだ。
【SE: 障子がスッと開く音】
凛:「……起きた?」
窓から顔を覗かせた凛は、少し照れたように笑った。
凛:「おはよう。……朝ごはん、できてるよ。一緒に、食べよ?」
彼女は、もうクールな職人の顔をしていなかった。俺だけが知っている、甘くて優しい、幼馴染の顔だった。
主人公:「……ああ。おはよう、凛」
俺は、和紙をそっと机に置き、彼女の元へ向かった。
主人公:(モノローグ)空っぽだった俺の心は、いつの間にか、彼女の優しさで満たされていた。この町で、彼女の隣でなら、きっと、新しい毎日を綴っていける。そんな確信が、胸の中にあった。
【SE: 二人の穏やかな笑い声。遠くで鳴るお寺の鐘の音。フェードアウト】
***
【SE: 障子を開ける音。秋の虫の声。遠くで聞こえる砧の音。トントン、トントン…】
主人公:(モノローグ)あの日から、季節は一つ巡った。俺の心にあった焦燥と虚無感は、凛の隣で過ごす穏やかな時間の中に、ゆっくりと溶けていった。燃え尽きたはずの心に、再び小さな火が灯っていく。それは、決して激しく燃え盛る炎じゃない。寒い夜に、そっと体を温めてくれる、炭火のような、じんわりとした温かさだった。
俺は今、凛の工房の仕事を手伝っている。と言っても、専門的な技術が必要な紙漉きじゃない。完成した和紙の検品や梱包、それから、俺が東京で嫌というほど培った知識を活かして、ホームページを作ったり、オンラインで販売する手伝いをしたり。
凛:「……ん。これ、お願い」
主人公:「はいよ。……すごいな、今日の紙も。光が透けて見えるようだ」
凛は、黙って一枚の和紙を俺に手渡す。その横顔は、初めて会った時と同じ、凛とした職人の顔。でも、俺はもう知っている。その涼やかな瞳の奥に、どれだけの優しさが隠れているのかを。
【SE: 和紙を一枚一枚、丁寧にめくる音。サラ、サラ…】
主人公:(モノローグ)隣の部屋から聞こえていた砧の音は、いつしか俺の日常の音になった。あの規則正しいリズムが、今は心地いい。彼女がすぐそばにいる。その事実が、俺の心を何よりも安らがせてくれる。俺たちの関係は、幼馴染という言葉だけでは、もうしっくりこない。かといって、恋人というには、何か一歩が足りないような、そんな曖昧で、でも居心地のいい空気に包まれていた。
その均衡が、静かに揺らぎ始めたのは、冷たい風が吹き始めた、ある日の午後だった。
【SE: 工房の引き戸が開く音。カラカラ…】
男:「ごめんください。こちら、如月さんの工房でよろしいでしょうか」
スーツを隙なく着こなした、都会の匂いがする男が立っていた。その手には、上質な革の鞄。俺が東京にいた頃、毎日見ていた人種だった。
凛:「……はい、そうですけれど。どちら様でしょうか」
凛は作業の手を止め、すっと立ち上がる。その声には、俺に向けられるものとは違う、微かな緊張と警戒が混じっていた。
男:「これはこれは、ご丁寧にどうも。私、東京の画廊でキュレーターをしております、長谷川と申します。如月凛様の作品を拝見し、その類稀なる才能に感銘を受けまして。ぜひ一度、直接お話を伺えればと」
長谷川と名乗る男は、流暢な口調でそう言うと、深々と頭を下げた。
凛:「……わざわざ、遠いところをありがとうございます。どうぞ、お上がりください」
凛は俺に目配せすると、長谷気ない仕草で、俺と凛の間に線を引いた。
長谷川:「失礼します。……ほう、素晴らしい工房ですね。伝統と、そして凛とした創作の意思が感じられる。あなたの作る紙そのものです」
男は、品定めするような目で工房の中を見回す。その視線が、俺の上を通り過ぎる時、一瞬だけ、値踏みするような色を帯びたのを、俺は見逃さなかった。
【SE: 畳の上を歩く足音。衣擦れの音】
ちゃぶ台を挟んで、凛と長谷川が向かい合う。俺は、邪魔にならないように部屋の隅で、黙って梱包作業を続けていた。でも、意識はすべて、二人の会話に集中していた。
長谷川:「単刀直入に申し上げます。如月さん、東京で個展を開きませんか? 我々の画廊が、全面的にバックアップします。あなたの和紙は、ただの工芸品ではない。もはや芸術です。こんな小さな町に埋もれているべき才能ではない」
主人公:(モノローグ)東京。個展。その言葉が、俺の胸に鋭く突き刺さる。
凛:「……過分なお言葉です。私はただ、父から受け継いだやり方で、紙を漉いているだけで」
長谷川:「ご謙遜を。あなたの作品には、伝統を守るだけではない、新しい息吹がある。特に、この『月白(げっぱく)』と名付けられたシリーズ。闇夜に浮かぶ月光を、そのまま和紙に閉じ込めたかのような、静謐な美しさ。これならば、海外のコレクターにも必ずや響くはずです」
男は、立て板に水のごとく賞賛の言葉を並べる。凛は、静かにその言葉を聞いていた。表情は変わらない。だが、その指先が、ほんの少しだけ、強く握られているのを俺は見ていた。
長谷川:「もちろん、活動の拠点を東京に移していただくのがベストだと考えています。最高の環境をご用意します。創作に専念できるよう、雑事はすべて我々が引き受けます。あなたは、ただその才能を、思う存分発揮してくださればいい」
主人公:(モノローグ)東京に来い、と。この男は、そう言っている。凛を、この場所から連れ去ろうとしている。俺が逃げ出してきた、あの街へ。頭の中で、警報が鳴り響いていた。やめろ。彼女を、俺たちの時間と空間を、土足で踏み荒らさないでくれ。
凛:「……お話は、よく分かりました。ですが、少し、考えさせていただけますでしょうか」
長谷川:「もちろんです。ですが、これほどのチャンスは滅多にないということだけは、心に留めおいていただきたい。では、資料はこちらに。良いお返事を、心よりお待ちしております」
男は分厚いファイルを置くと、満足げな笑みを浮かべて立ち上がった。そして、工房を出る間際、俺の方をちらりと見て、こう言った。
長谷川:「……そちらの方は、お弟子さんか何かで?」
凛:「……いいえ。私の、大切な人です」
凛の言葉に、長谷川は少し意外そうな顔をしたが、すぐに営業用の笑みに戻り、「それは失礼」と言い残して去っていった。
【SE: 引き戸が閉まる音。カラカラ…ピシャリ】
工房に、沈黙が落ちる。砧の音も、虫の声も、何も聞こえない。ただ、俺の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
凛:「……ごめん。邪魔しちゃったね」
主人公:「いや……」
凛は、何事もなかったかのように作業台に戻ろうとする。その背中が、やけに遠く見えた。
主人公:「……すごい話じゃないか。東京で、個展なんて」
俺は、自分でも驚くほど、乾いた声で言った。
凛:「……そう、だね」
主人公:「……どう、するんだ?」
聞きたくない。でも、聞かずにはいられない。彼女が、俺の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという恐怖が、喉元までせり上がってくる。
凛:「……言ったでしょう。少し、考えるって」
彼女は、こちらを振り向かなかった。その横顔は、俺の知らない、厳しい光を宿しているように見えた。
その夜、俺は自分の部屋で、眠れずにいた。隣の部屋は、静まり返っている。いつもなら聞こえてくる、凛が生活する小さな物音もしない。彼女もまた、眠れずにいるのだろうか。東京。その言葉が、悪夢のように俺の頭をぐるぐると回る。あの街の、人を人とも思わないスピード。息苦しいほどの情報の洪水。俺は、そこから逃げてきた。凛は、その世界で輝ける才能を持っている。俺が、彼女の可能性を、この小さな町に縛り付けているだけなんじゃないか。
【SE: 自分の部屋の障子を、そっと開ける音】
月明かりが、静かに差し込んでいる。隣の工房の窓にも、同じように光が当たっていた。その時だった。
【SE: 隣の部屋の障子が、スッと開く音】
凛:「……眠れないの?」
月光を背に、凛が立っていた。その手には、小さな土瓶と、二つの湯呑が乗ったお盆を持っている。
主人公:「……凛こそ」
凛:「ふふ。おんなじだね。……よかったら、これ、飲まない? 体が温まるよ」
彼女はそう言うと、俺の部屋と彼女の部屋を隔てる縁側に、ちょこんと腰を下ろした。俺も、吸い寄せられるように、その隣に座る。
【SE: 凛が縁側に座る音。湯呑を二つ、コトリ、コトリと置く音】
凛:「生姜と、蜂蜜と、それから、ちょっとだけお酒。おばあちゃんの秘伝。……風邪のひきはじめとか、眠れない夜によく作ってくれたんだ」
【SE: 土瓶から、湯気の立つ飲み物が湯呑に注がれる音。トクトクトク…】
湯気と共に、甘くて、少しだけスパイシーな香りが立ち上る。
凛:(優しい囁き声で、右耳へ)「はい、どうぞ。……火傷しないでね」
差し出された湯呑を受け取ると、指先からじんわりと温かさが伝わってきた。一口飲むと、生姜の辛さと蜂蜜の優しい甘さが、喉を通って、胃の腑に落ちていく。体の芯から、強張っていた筋肉が解けていくようだった。
主人公:「……うまい」
凛:「よかった」
しばらく、二人で黙って、月を見ていた。どちらからともなく、同じタイミングで息をつく。
凛:「……昼間のこと、気に、してる?」
主人公:「……当たり前だろ」
凛:「……そっか」
彼女は、湯呑を両手で包み込むように持って、じっとその中を見つめている。
凛:「すごい話だって、思ったよ。東京で個展なんて、昔だったら、夢みたいだって、飛びついてたかもしれない」
主人公:「……じゃあ」
凛:「でもね」
彼女は顔を上げて、まっすぐに俺の目を見た。
凛:「あの人が、私の紙を『作品』とか『芸術』とかって言うたびに、なんだか、すごく違和感があったん。……私の漉く紙はね、誰かの生活の中で、使われて、初めて意味を持つものだから」
【SE: 凛が湯呑を置く、コトリ、という音】
凛:「誰かが、大切な人に手紙を書くための便箋になったり。赤ちゃんの、最初の名前を書くための命名紙になったり。……おじいちゃんが、破れた障子を嬉しそうに張り替える、その一枚になったり。そういう、誰かの温かい時間の一部になるために、私は紙を漉いてるの」
彼女の声は、静かだったが、強い意志が込められていた。
凛:「東京に行けば、もっと有名になれるかもしれん。もっと、お金持ちになれるかもしれん。でもね、私の紙は、この町の水じゃないと、漉けないんよ。この町の空気の中で乾かさないと、この風合いは出ないの。……そして」
彼女は、少しだけ言い淀んで、それから、俺の手をそっと握った。
【SE: 凛の冷たい指先が、主人公の手に触れる音。衣擦れ】
凛:(左耳へ、吐息混じりに)「……そして、あなたがおらんくなるのは、嫌だから」
その言葉は、ほとんど囁きに近かった。でも、俺の心には、どんな大声よりもはっきりと届いた。握られた手が、熱い。
凛:「私ね、あなたがこの町に帰ってきてくれて、本当は、すごく嬉しかったんだよ。……昔みたいに、また隣で、あなたの声が聞けるのが。……あなたが、私の作ったご飯を『うまい』って言って、食べてくれるのが。……あなたが、私の漉いた紙を『綺麗だ』って、褒めてくれるのが。……毎日、すごく、幸せだった」
彼女の瞳が、月明かりに濡れて、きらりと光った。
凛:「だから、行かないよ、どこにも。私の居場所は、ここだから。……あなたの、隣だから」
主人公:(モノローグ)ああ、俺は、なんて馬鹿だったんだろう。彼女の才能を信じていなかったわけじゃない。ただ、怖かったんだ。俺の世界から、彼女がいなくなってしまうことが。俺が、また一人になってしまうことが。
俺は、空いている方の手で、彼女の頬にそっと触れた。
主人公:「……俺も、どこにも行かない。凛の隣が、俺の居場所だ」
凛:「……うん」
主人公:「凛。俺は、お前のことが……」
言いかけた俺の唇を、彼女の指が、そっと塞いだ。
凛:「……言葉は、いらない。……今は、ただ、こうしてて」
彼女はそう言うと、俺の肩に、こてん、と頭を預けた。彼女の髪の匂いと、温もりが、すぐそばにある。俺は、壊れ物を抱きしめるように、そっと彼女の体を抱き寄せた。
【SE: 二人が寄り添う衣擦れの音。遠くで鳴く鹿の声。静かな夜風の音】
主人公:(モノローグ)言葉にしなくても、分かった。俺たちの心は、もうとっくに、一つに重なっていたんだ。
それから数日後。俺たちは、二人であるものを作っていた。
【SE: 大きな和紙の上を、刷毛が滑る音。サーッ、サーッ…】
凛:「そう。もっと、均一に。……糊がダマにならないように、丁寧にね」
主人公:「こ、こうか? なかなか難しいな……」
俺たちは、二人で漉いた、とびきり大きな和紙を使って、一つの照明……行灯(あんどん)を作っていた。凛のデザインした透かし模様が入った、特別な和紙だ。
凛:「ふふ。不器用なんだから。……ほら、貸して」
彼女は俺の後ろに回って、俺の手に自分の手を重ねた。あの日のように。でも、あの時とは、もう意味が違う。
【SE: 凛の手が主人公の手に重なる。衣擦れの音】
凛:(右耳のすぐ側で、囁くように)「こうやって、刷毛の先だけを使って、優しく撫でるみたいに。……紙と、対話するの。……私たちの、これからみたいにね。丁寧に、優しく、時間をかけて」
彼女の吐息が、耳をくすぐる。心臓が、甘く跳ねた。
【SE: 二人の手によって、刷毛が滑らかに動く音。糊が均一に伸びていく音】
二人で木枠に和紙を貼り、乾かし、仕上げていく。その時間は、言葉は少なかったけれど、たくさんの喜びに満ちていた。時々、指先が触れ合うたびに、二人で小さく笑い合った。
そして、夜。完成した行灯を、工房の真ん中に置いた。
主人公:「……よし。じゃあ、点けるぞ」
【SE: スイッチを入れる、カチリ、という小さな音】
ふわり、と。柔らかく、温かい光が、工房全体を包み込んだ。和紙の透かし模様が、美しい影となって、壁や天井に映し出される。それは、まるで満月の光のようでもあり、夜明けの光のようでもあった。
凛:「……きれい」
うっとりと光を見上げる凛の横顔は、今まで見たどんな彼女よりも美しかった。
主人公:「凛」
俺は、彼女の前に跪くと、ポケットから小さな箱を取り出した。
主人公:「東京には、行かせない。その代わり、俺の名字を、もらってくれないか」
凛は、大きく目を見開いて、それから、ふわりと、花が綻ぶように笑った。
凛:「……ばか。そんなの、とっくに決まっとる」
彼女は、涙ぐんだ声で、でも、はっきりとそう言った。方言混じりの、俺だけが知っている、とろけるように甘い声で。
俺は、彼女の左手の薬指に、シンプルな指輪をはめた。
主人公:「これからは、ずっと一緒だ」
凛:「……うん。ずっと、一緒」
俺たちは、どちらからともなく、そっと唇を重ねた。
【SE: 優しいキスの音。行灯の光に包まれて、二人の穏やかな息遣いだけが響く】
主人公:(モノローグ)都会の喧騒に疲れ、空っぽの心で帰ってきたこの町。ここで俺が見つけたのは、失ったものを取り戻すための癒やしだけじゃなかった。新しい未来を、愛する人と共に綴っていくという、温かい希望の光だった。隣の部屋から聞こえる砧の音は、もう聞こえない。なぜなら、その音を立てる彼女は、今、俺の腕の中にいるのだから。
【SE: 二人の幸せそうな笑い声。行灯の温かい光。遠くで鳴るお寺の鐘の音。ゆっくりとフェードアウト】
凛として、お隣さん。~クールな和紙職人の彼女は、俺だけに甘くとろける癒やしをくれる~【ボイスドラマ】【G’sこえけん】 ☆ほしい @patvessel
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