第13話

 死に戻ったからといって、前世のことを忘れたわけでないように、死に別れたからといって、夫を忘れたわけではない。


 クリスフォードのことを、ヒルデガルドが忘れるわけがない。


 クリスフォード・ウォール・ロングフォール。ロングフォール侯爵家当主。


 初めて会ったその日から、ヒルデガルドはクリスフォードに心を傾けていた。


 同い年の彼から、どんな縁でそうなったのか縁談が持ち上がったときに、たとえそれが政略としての縁であっても、ヒルデガルドは構わないと思った。

 寧ろ、愛ばかりを求められない貴族の婚姻に、心を寄せる夫を得られたのは恵みのようだと思っていた。


 哀しくないから泣かなかったわけではない。哀しくても泣けない時があることを、あの葬儀の日にヒルデガルドは知ったのだ。


 横で号泣するヘレンを、オースティンはヒルデガルドを慮って五月蝿いだの静かにしろだの注意をしたが、彼が本心からヘレンを邪険にしたわけではないことも、ちゃんとわかっていたのである。


 それとも、最期の別れくらいヘレンと一緒に思いっきり泣いてしまえばよかったのだろうか。

 そうすれば、神に死に戻りを願うなんてこともなく、泣き疲れて寝落ちして、新しく目覚めた朝には、主を失った侯爵家を盛り立てるべく頑張ろうと思えたのかもしれない。




「姉上、どうしたの?どこか調子が悪いの?」


 自分のほうが遥かに体調が辛いのに、ローレンは言葉少ななヒルデガルドを心配そうに見つめた。


 ローレンと向かい合わせで座る朝餉の席で、ヒルデガルドは現実、死に戻って回帰した現実に引き戻された。


 恐れたように、目が覚めたあとは夢だったなんてことにはならなかった。二度目の朝も無事に迎えて、ヒルデガルドはこれからまた学園に通う。


 父から聞いていたのだろう、母はなにか思うような顔であったが、それでもヒルデガルドに煩いようなことを言わないでくれた。


 何も知らないローレンだけが、ヒルデガルドに元気がないと、心配してくれているのである。


「大丈夫よ、ローレン。今日の学食のメニューがなんなのかを考えていただけなの」


 斜め向かいで父がスープを吹いたが、放っておいた。


「私が思うに、今日はムニエルな気がするわ。気分はムニエル」


 父が咳き込むのは放っておいた。


「なんのムニエルだろうね」


 流石はローレン。ちゃんと話題作りに乗ってくれる。だからヒルデガルドも乗り返す。


「鱒よ、きっと鱒。春の鱒はサイコーに美味だもの。タルタルは必須ね。タルタルがあるなら、多少の脂っこさも乗り越えることができるわ」


 学生食堂の料理人が聞いたなら、慌てて鱒を仕入れに行くことだろう。


 心が元気をなくしたときは、何でも良いから先ずは食事である。食べられないなんて言ってないで、無理にでも、一口でも口にするなら、身体はちゃんと元気を取り戻して、ヒルデガルドは笑うことができる。


 あの夜死んでしまったのは、クリスフォードの身体も魂も弔い見送ったことで、絶望のあまり何も口にすることをしなかったからだ。

 元気の欠片も湧かないまま、もうこの先を生きる意味を見出すことができなかった。


「ねえ、ローレン」

「ん?なに?姉上」

「どんなに苦しいときにも、重湯で良いから口にしてね。舐めるだけでよいの。それできっと小麦の粒ほどは元気が出るはずよ」

「随分小さな元気だね」

「その小さな小麦の粒が集まれば、こんな美味しいパンになるのよ」

「今度、教会に行ったときに、その話を司祭様に話してみるよ。きっとその次の週の礼拝で、司祭様、みんなに説法にして聞かせてくれるよ」


 それはパクりなのではないか、ヒルデガルドはそう思ったが、ケチなことは言わないことにした。


 大盤振る舞いなら慣れっこである。

 夫を年下の子爵令嬢に奪われて、悋気の一つも起こすことなく、静観を通した豪胆と言われ続けた人生だった。


 夫はそれで幸せだったのだろうか。

 子を成せなかった妻をさっさと離縁して、ヘレンを迎えることだってできたのに、あの夫はそうはしなかった。


 オースティンまで与えてくれて。


 もしかしたら、ローレンが亡くなった時に、彼は離縁を考えたのかもしれない。

 伯爵家には後継が必要で、ヒルデガルドが出戻る場所はあったのだ。


 ひと足先にアトレイが養子に入って、それでタイミングを失ったまま有耶無耶になってしまったのだろうか。それでその後の十五年を、ヘレンと添い遂げることもできずにいたのだろうか。


 この日は、馬車の中でも考え込んでしまって、折角の春の風景を楽しむことすら忘れていた。


「今からでも間に合うかしら」


 ヒルデガルドは窓に顔を寄せて、慌てて外の風景を見る。残念ながらそこには、既に学園の門扉が見えていた。



 景気をつけようと馬車のステップをぴょーんと一足飛びで降りてみた。やればできるぞ、流石は身体は十六歳。


 四十には無理なことも今ならできる。

 ステップを元気に降りただけでもこの多幸感。

 ヒルデガルドは幸せを噛み締めながら教室へと向かった。



 午前中も安定の頷き具合で締めくくり、ヒルデガルドは本日の楽しみ「学食」へと向かう。


 学生食堂を「学食」と縮めることがまことに学生らしいと思う。学生に限らず略するものであるのだが、貴族夫人はそこのところの言葉遣いがしっかりしているから、噂で暗々のうちに揶揄する時以外は、単語は正しくフルで言う。


 若者らしく略するとは、一体他にはどんな言葉があるかしら。


 食堂までの道すがら、ヒルデガルドはそんなことを考えた。


「ヒルデガルド」


 だから急に背中から声をかけられて、慌てて略して返してしまった。


「なあに?アーチー」


 アトレイは、途端に耳まで赤くなった。





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