第3話

 ヒルデガルドが涙を堪えるうちに、ローレンは起きてしまったらしい。

 キィと扉が開いて、外開きの扉であったから、ヒルデガルドのおデコに扉がゴンと当たった。


「だ、大丈夫?姉上」


 ごめんなさいとローレンが慌てる。なんのこれしき、ローレンに会えた喜びに比べたら。


「ローレン⋯⋯」


 暗算に強いヒルデガルドは瞬時に計算して、ローレンと会うのは十五年ぶりだと思った。だが、今、目の前にいるローレンは、最期の彼より更に十歳若い。


「大丈夫?」


 身長ばかりは、小柄なヒルデガルドを追い抜いて、けれども日を浴びない肌は抜けるような白さである。


「おはよう、ローレン。お久しぶりね」


 つい、前世の記憶のままに挨拶すれば、


「そうだね、姉上。昨日ぶり」


 姉の可怪しな挨拶にも、優しいローレンは乗ってくれた。


「どうしたの?姉上。眠れなかったの?」


 ローレンのほっそりした指がヒルデガルドの手に触れた。そのままやんわり手を掴んで、ローレンは自室にヒルデガルドを招き入れた。


「ヘレンに見つかったら叱られちゃう」


 そうだった。ローレンの侍女はヘレンと言った。真逆の旦那様の最愛と同じ名前である。

 死に戻った先までヘレンに追いかけられているようで、些か憮然となったが仕方ない。

 ヘレンとは、そんな女性だった。なんだか憎めなかったのだ。あんな彼女であったから、夫は彼女を長く愛したのだろう。


 早朝から感傷に襲われたヒルデガルドをすくい上げてくれたのは、ローレンだった。


「姉上、お腹減ってない?クッキーがあるんだ。叔父上からお見舞いにもらった」


 ローレンはヒルデガルドの手を取って、ソファまで歩く。それから、そっと手を離して、ソファに座るように促した。


 なんて優しい子なのだろう。

 早朝に寝間着のまま訪ねてきた姉を、体調が良好ではないのに気遣ってくれる。


 叔父とは父の弟である。縁戚の子爵家に婿入りしており、彼の次男が後にこの家を継ぐことになる。


 それは、ローレンが儚くなって後継を失ったからで、両親は弟の次男を迎え入れてから安堵して、その後ともに鬼籍に入った。


「叔父様がお見舞いに?」

「うん、アトレイも一緒だったよ」


 アトレイ。ヒルデガルドと同い年の従兄弟。彼が件の後継となる青年である。


「姉上と一緒に学園へ通ってるんだよね」


 ああ、そうだった。すっかり忘れていたが、学園に通わねばならない。


「面倒だわね」

「え?」


 おっと、うっかり前世脳で語ってしまった。だが、本当に面倒だ。ヒルデガルドは既に学園を卒業している(二十三年前)。


「(もう一度)通わなくても良くない?」

「え?姉上、それは駄目だよ」


 ええ?どうして?二度も通うだなんて面倒よ。そう言えたなら楽だろう。


「姉上はしっかり学んで素敵な淑女になって、良家に嫁がないと」


 確かに良家には嫁いだ。嫁いだ先で夫からは愛されなかった。


「私はその必要を感じないのだけれど」


 本心からそう言えば、ローレンは眼差しを優しく緩めて言った。


「僕に教えて欲しんだ。学園のことを」

「ローレン⋯⋯」


 ローレンは身体が弱い。寝たきりまでは行かずとも、外出できるほどの体力を持っていない。だからきっと、自分は通学できないと思っているのだろう。


 ヒルデガルドは教えてあげたかった。


 貴方、とっても頑張ったのよ。保健室の主となりながら、頑張って学園に通ったのよ。ちゃんと学を修めて成績優秀者と表彰されて卒業するのよ。


 だが、それは決して口に出してはならないと、本能が告げていた。

 前世の事実は、明かしてはならないことに思えて、ヒルデガルドは口をつぐんだ。


「わかったわ。学園には行くわ(面倒くさいけれど)」

「良かった」


 病弱な弟にいさめられて、これでは年上として不甲斐ない。ヒルデガルドの魂の実年齢は四十一。両親よりも年上だ。


 そうか、私はこの家の年長者なのだわ。

 侯爵夫人として培った、家長の妻というリーダーシップが蘇る。

 ヒルデガルドに何が出来るか分からずとも、残りの十年をローレンに捧げて、その後はこの家を守っていこう。


「ん?」


 ヒルデガルドは、回帰早々壁にぶち当たった。


 ヒルデガルドがこの家に残ったら、アトレイはどうなるのだろう。子爵家次男の彼は、ローレン亡きあと養子に迎えられて伯爵家当主となったのだ。


 そこで前世の彼を思い出した。


 従兄弟であっても、ヒルデガルドやローレンと違って、彼は生家の母に似て金髪に琥珀色の瞳をしていた。


 見目よい青年貴族で、ご令嬢がたに大層人気であったのに、何故なのか、彼は独り身を通していた。もしかしたら、自身の死後に、オースティンに爵位を譲るつもりではないのかと、ヒルデガルドはそんなことを考えていたのである。


 オースティンは、ヒルデガルドの生家とは血縁にあたる家の子である。

 遠い血ではあるが、他人ではない。律儀なアトレイはきっと、ローレンの死後、自分が預かった生家を、ヒルデガルドの養子に託したいだなんてことを考えていたのではないだろうか。


 まあ、それも予想の範囲である。

 なにせ、ヒルデガルドは死んだのだ。後のことは知りようもない。


 そこでヒルデガルドは、再び壁にぶち当たった。

 では?私が後々この家を当主となって守ったとして、それは未来を変えることになるのでは?


 そこまで考えて、気がついた。

 そもそもここに死に戻ったのなら、もうそれで未来は変わる前提だろう。


 アトレイには、何処か可憐なご令嬢の元へ婿入りを勧めて、自分は父の執務を手伝いながらローレンに寄り添い、その後はこの家で女伯爵となって身代を守ろう。


「そうだわ、ローレン。貴方の言う通りだわ。私は勉学に励んで、この後は貴方とこの家をもりもりに盛り立てていくわ」


 ローレンは、使命を胸にキリッとした顔を見せた姉を、眩しいものをみるように目を細めた。





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