第2話

「えーと、どうだったかしら」


 ヒルデガルドは目を瞑り、若い頃のルーティンを、えーとと思い返す。なにせ二十年以上前の記憶だ。そうそう思い出せるものではない。


 結局、侍女が部屋に来る時間さえ思い出せず、先ずは今がいつなのかを確かめることにした。


 若い頃のヒルデガルドは、日記を書いていた。文机の引き出しに日記があるはずだ。


「なんてスムーズ」


 寝台から降り立つ動きの滑らかさ。立ち上がるとみなぎる生命力。

 生きているだけで身体が躍動している、そんな感じだ。


 ヒルデガルドは夫のクリスフォードと同い年だった。つまり、没した齢は夫と同じ四十一歳。若くはないがご老人のお仲間には些か早い。なのに、身体の衰えがあれほど顕著であったのは、忙しくするあまり我が身を大切にしていなかったからだろう。


 夫の愛を失って、本当なら自分こそ自分のことを大切にしてあげるべきだった。

 それももうどうにもしてあげられない。だって死んでしまったのだもの。


 なんで死んでしまったかも、今更である。確かに神に祈ってみたが、あれくらいで死に戻っては、人生百回はやり直せる。


 それもこれも、もう過去のことであるからどうにもできない。今の未来が過去だという不条理には目を瞑る。


 身体の冷えも感じない。起き抜けから手足に血が通っている。指先が冷たくなることもない。

 若さって。

 若い頃にも悩みは色々あったのに、今なら思える。生きているだけで人生、輝いている。


 ふとそこで、我が身について思い出し、部屋の隅の姿見に歩み寄った。


 焦げ茶色の髪に青い瞳。

 元々特別美人ではなかったが、肌に艶があるだけ感動できた。


「毛量が⋯⋯」


 頭髪がふさふさしている。昨日までの自分も薄毛ではなかったが、髪の毛の一本一本が細くコシを失って、それだけで淋しい風情を醸し出していた。


「オースティン。ごめんなさいね」


 鏡に映る自分の姿に、置いてきた義息子を思い出す。

 今頃驚いているだろう。なにせ当主の葬儀の夜に夫人が絶命しているのだから。


「こんなことなら三日前に死んでおくべきだったわ。そうすれば、手間も一度で済んだでしょう。いえ、そうではないわね、やっぱりあとから死ねてよかったのよ。取り敢えず、旦那様だけでも送ってあげられた。あれを一人で執り行うのはキツわ。葬儀って大変だもの」


 何より。ヘレンに指輪を渡せたわ。


 記憶ばかりは半日も経っていないから、直ぐに前世に引き戻されてしまう。


 オースティンを思い出したのは、鏡に映る自分の姿を見たからだ。

 ヒルデガルドが子を成せなかった故の養子だったオースティン。なのに夫は、養子にヒルデガルドと同じ色の髪と瞳を持つ少年を選んでくれた。


 年齢まで、不妊に悩んだ四年を遡るように、四歳の男の子を選んだのだ。


「貴方ってば、優しいのかそうでないのかわからない人だったわね」


 十代の顔で四十の夫を思い出す。

 夫を思い出して微かに笑った目元は、何故か四十代のヒルデガルドに見えた。


 胸に張りがあるのと、腰回りに肉が付いていないのに軽く感動してから、ヒルデガルドは漸く文机に辿り着いた。


 あまり回想ばかりしていては、無駄に時間を取られてしまう。日記を読んで、早く現実に戻ろう。


 記憶の通り、日記はあった。

 最後のページで日付を確かめる。


「学園に入ったばかりだわ。やっぱり春だったのね」


 そこで改めて部屋を見回した。久しぶりの生家だ。父も母も存命だ。ローレンも。


 死に戻る前のヒルデガルドの生家は、父の弟である叔父の息子が継いでいた。生家を最後に訪ったのも、随分前のことだった。


 令嬢らしい設えの部屋を見回す。トルソーに制服が掛かっている。文机の上にあるインクの瓶は、赤、青、翠と色々だ。

 ブラックとブルーブラックのインクしか使わなかった昨日とは違うのだ。


 ほんの四半刻ほどで急激に身体と記憶が馴染んできて、ヒルデガルドはどうにも衝動を抑えられなかった。

 きっと侍女に叱られてしまう。こんな明け方にローレンを訪ねたら、ご令嬢がはしたないと注意されるだろう。


「いくらでも叱られて良いわ。だって、ローレンが生きているのだから」


 ヒルデガルドは寝間着にロングカーディガンを羽織っただけで、静かに部屋の扉を開けた。

 耳を済ませば微かに階下から音がする。

 使用人たちの朝は早い。もう今日の支度に取りかかっているのだろう。

 だが、侍女が来るにはまだ間がある。


「ローレン、起きてるかしら」


 ローレンは、ヒルデガルドの弟だ。

 ヒルデガルドが学園に入学した年であるから、二つ年下のローレンは十四歳。

 彼がこの世を去るまであと十年ある。


「ローレン。今度は私がそばにいるわ」


 夫からは必要とされなかった前の人生。

 だが、女の一生を経験できたのは感謝している。貴族夫人としての経験なら十分できたから、今度は結婚しなくて構わない。


 だからこの人生では、最後の一日までローレンのそばにいようと心に決めた。短い生涯だった弟のそばにいられなかった後悔。


 二つ目の後悔を、今生では経験したくない。


 音を立てぬように廊下を歩く。ああ、屋敷の匂いが違うと思う。侯爵家の匂いと生家の匂い。どちらも思い出しながら、廊下の先、陽当たりの良い角部屋を目指した。


 見覚えのある扉に胸が熱くなる。

 小さくノックをしてみれば、少し間をおいてからあ「誰?」と聞こえた。


 ローレンが、扉の向こうにいる。


「私よ」

「姉上?」


 ああ、声が高い。成人してからも高めの声ではあったけれど、まだ少年の名残りのある声音に、ヒルデガルドは扉に額を押し当てて、零れそうになる涙を堪えた。





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