第35話 決闘前夜、魂のコーチング

決闘を翌日に控えた夜、狩人の小屋は、重い沈黙に支配されていた。


リックとゴードンは、気遣ってか、あるいは自らの緊張を紛らわすためか、黙々と最後の武具の点検を繰り返している。レオンは、その輪から少し離れた場所で、一人、夜空を見上げていた。


地獄のような六日間の訓練を乗り越え、仲間の想いという名の武具も手に入れた。心身ともに、準備は万端のはずだった。だが、決戦が目前に迫るにつれて、心の奥底から、じわりじわりと、冷たい霧のようなものが湧き上がってくるのを感じていた。


恐怖。


明日、自分は、あの最強の騎士ヒルデガルドと、たった一人で対峙する。殺されるかもしれない。無様に打ちのめされ、仲間たちの想いを、村の男たちの希望を、全て裏切ることになるかもしれない。


一度芽生えた不安は、次から次へと、最悪の未来を想像させ、レオンの心を蝕んでいく。あれほど鍛え上げたはずの精神が、揺らいでいた。




その、レオンの背中に、静かな声がかけられた。


「…眠れんか」


ジョウイチだった。彼は、いつの間にか、レオンの隣に腰を下ろしていた。


「コーチ…」


「無理もない。決戦の前夜というのは、誰にとっても、最も長く、そして最も暗い夜だ」


ジョウイチの声は、不思議なほど穏やかだった。彼は、レオンの心の揺らぎを、全て見透かしているようだった。


「…怖いです」


レオンは、初めて、師の前で、素直な弱音を吐いた。


「明日、リングに上がった時、体が動かなくなったらどうしよう、と…頭が、真っ白になったらどうしよう、と…考えると、足が震えて…」


その、魂の告白を、ジョウイチは、ただ黙って聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後、ぽつりと、自らの過去を語り始めた。それは、弟子たちが今まで一度も聞いたことのない、彼の物語だった。




「俺も、昔、お前と同じように、どうしようもない恐怖に支配されたことがある」


ジョウイチは、遠い目をして、かつて自分がいた世界を思い出していた。


「それは、俺がまだ、コーチではなく、一人のアスリートだった頃の話だ。全てを懸けた、人生で一番の大勝負。俺は、その舞台で、格上の、絶対に勝てないとさえ言われた相手と戦うことになった」


彼の語る口調は、淡々としていた。


「試合の前、俺は、今のお前と全く同じだった。手足は震え、心臓は張り裂けそうになり、胃の中のものを全て吐き出した。勝つことよりも、負けることの恐怖。観客の視線、期待の重圧…全てが、俺の魂を押し潰そうとしてきた」


ジョウイチが、恐怖を感じていた。その事実が、レオンには信じられなかった。


「結局、その試合で、俺は惨敗した。実力を出すどころか、体の動かし方さえ忘れちまったかのように、無様に打ちのめされた。恐怖に、魂を食われたんだ」




その敗北の経験が、彼を、選手からコーチの道へと導いたのだという。


ジョウイチは、そこで一度言葉を切ると、レオンの目を、真っ直ぐに見つめた。


「いいか、レオン。恐怖を感じるな、とは言わん。恐怖は、生物として当然の反応だ。危険を知らせ、感覚を研ぎ澄ませるための、重要なアラームでもある。問題は、その恐怖との付き合い方だ」


彼は、レオンの震える肩に、その分厚い手を置いた。その手は、岩のように力強く、そして、不思議なほど温かかった。


「恐怖に、魂を食わせるな」




その言葉は、レオンの魂の芯に、深く、そして重く響き渡った。


「恐怖を感じろ。心臓がうるさいほど鳴り、手足が震えるのを、ただ感じろ。だがな、それは、お前の肉体の反応だ。お前の魂まで、明け渡すな。恐怖は、客観的に観察するものであって、お前自身が、恐怖そのものになるな」


ジョウイチは、立ち上がった。


「体の震えは、武者震いだと思え。心臓の鼓動は、決戦を告げるゴングだと思え。恐怖を、飼いならせ。自らの力を、最大限に引き出すための、燃料へと変えるんだ」




そして、彼は、最後に、最高のコーチとして、最高の言葉を、クライアントに贈った。


「俺は、お前を信じている。お前が、この六日間で流した汗を、乗り越えた恐怖を、そして、その内に秘めた、決して折れることのない魂の強さを、俺は、誰よりも知っている」


「だから、明日は、何も考えるな。ただ、お前が信じる、お前の戦いをしろ。それで、いい」


ジョウイチは、それだけ言うと、小屋の中へと戻っていった。




一人残されたレオンの心には、もはや、先ほどまでの冷たい霧はなかった。


恐怖が、消えたわけではない。だが、その恐怖は、もはや自分の心を支配する主人ではなく、自分が使いこなすべき、一つの道具へと変わっていた。


師が、自分を信じてくれている。仲間が、自分を支えてくれている。


レオンは、ゆっくりと立ち上がると、夜空に輝く月を見上げた。その瞳には、決戦を前にした、戦士の、静かで、そして澄み切った光が宿っていた。


長い夜が、明けようとしていた。


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