第6話 変化の兆し、不穏な視線

鏡の前で自分を乗り越えたあの日から、数週間が経過した。


レオンを取り巻く環境は、もはや以前のそれとは全く異なっていた。夜明けと共に起き、日が暮れるまでトレーニングに明け暮れる。食事は、ジョウイチの指導のもと、自ら森で調達した高タンパクな獲物と栄養価の高い野草。そして何より、心には常に「自分は変われる」という、ジョウイチによって灯された熱い炎が燃え続けていた。


その変化は、まず彼の肉体に顕著に現れ始めた 。




「…よし、9、10! 見事だ、レオン!」


ジョウイチの快哉の声が飛ぶ。数週間前には一度もできなかった腕立て伏せを、レオンは今や、正しいフォームで10回連続でこなせるようになっていた。


かつて骨と皮ばかりだった体には、うっすらとだが確かな筋肉の鎧がつき始めていた。特に、背中の広背筋と肩の三角筋が発達したことで、猫背気味だった姿勢は嘘のように改善され、常に胸を張った堂々とした立ち姿になった 。栄養状態の改善で顔色も良くなり、窪んでいた頬にも健康的な肉がついてきた。






だが、最も変わったのは、その「眼」だった。


以前のように地面ばかりを見ていた卑屈な光は消え、まっすぐに前を見据える強い意志が宿っていた。ジョウイチと会話する声も、以前の蚊の鳴くような声ではなく、腹の底から発せられる、大きく張りのあるものに変わっていた 。




「コーチのおかげです」


汗を拭いながら感謝を述べるレオンに、ジョウイチは首を横に振る。


「違うな。お前自身の努力の成果だ。誇れ」


その言葉に、レオンは照れくさそうに、しかし誇らしげに微笑んだ。




変化は、喜ばしいことばかりではなかった。レオンの変貌は、当然、周囲の人々の目にも留まることになる。特に、かつて彼を虐げていた者たちにとっては、その変化は理解しがたい「不気味」なものとして映った 。




その日、薪を調達するために街へ出たレオンは、路地裏でかつての女チンピラたちと鉢合わせになった。彼女たちは、最初レオンのことに気づかなかった。だが、すれ違いざまに見たその顔つきと、以前とは比べ物にならない堂々とした体格に、ようやく目の前の男が、かつて自分たちのサンドバッグだったレオンであると気づいた。


「…おい、あれ…レオンじゃねえか?」


「嘘だろ…なんか、雰囲気違わね…?」


彼女たちは、声をかけることもできず、ただ遠巻きに囁き合う。レオンは彼女たちに気づいていたが、もはや恐怖は感じなかった。ジョウイチの教え通り、胸を張り、まっすぐ前を見て通り過ぎる。


その、自分たちを恐れるでもなく、かといって見下すでもない、ただ「無関心」であるかのような態度が、彼女たちのプライドをいたく傷つけた。


「…なんだよ、あいつ…」


「気味悪い…男のくせに、あの目つき…」


彼女たちの口から出たのは、賞賛や畏怖ではない。自分たちの理解を超えたものに対する、生理的な嫌悪感と、得体の知れない恐怖だった 。




その日を境に、街には奇妙な噂が流れ始めた。


「路地裏のレオンが、おかしくなったらしい」


「ああ、聞いたぜ。なんだか急に体つきが良くなって、女を睨みつけるようになったそうだ」


噂は、尾ひれがついて急速に広がっていく。そして、その変化の裏に、一人の巨大な男がいることも、すぐに知れ渡った。


ジョウイチの存在は、瞬く間に「危険な思想を持つ男」として、悪評と共に村中に広まっていった 。






「男に妙な自信をつけさせる、ヤバい奴がいる」


「男はか弱く、女に守られるべきだという、この世界の秩序を乱そうとしている」


「いずれ、あの男のせいで災いが起きるに違いない」


人々は、ジョウイチと、彼と共にいるレオンを、好奇と侮蔑、そして恐怖が入り混じった視線で見るようになった。彼らが市場を歩けば、ひそひそと陰口が叩かれ、あからさまに避けられる。穏やかだったはずの世界が、急に敵意に満ちたものへと変貌していた。




周囲からのあからさまな敵意に、レオンの心はささくれ立っていった。せっかく掴みかけた自信が、不穏な視線に晒されるたびに、少しずつ削られていく。


(僕が何か、間違ったことをしているんだろうか…)


(やっぱり、男はこうしてちゃいけないんじゃ…)


かつての卑屈な思考が、亡霊のように頭をもたげてくる。彼は、ジョウイチの隣を歩きながらも、気づけば俯きがちになっていた。


そのレオンの心の揺らぎを、ジョウイチが見抜けないはずがなかった。


彼は、レオンの肩をガッシリと掴むと、無理やりその顔を上げさせた。


「どうした、レオン。その目は」


「…だって…みんなが僕たちを…変な目で…」


怯えたように言うレオンに、ジョウイチはカッと目を見開き、一喝した。




「胸を張れ。変化を恐れるな」




その言葉には、有無を言わさぬ力がこもっていた。


「いいか、レオン。周囲の視線は、お前が変わったという何よりの証拠だ。停滞した水に石を投げれば、波紋が起きるのは当たり前だろう。お前は今、この歪んだ世界の常識という名の水面に、最初の波紋を広げているんだ」


ジョウイチは、レオンの目をまっすぐに見つめた。


「波紋を恐れるな。いずれ、それは大きな波となり、この淀んだ世界を洗い流す力となる。お前がその先頭に立つんだ。だから、前だけを見て歩け」




ジョウイチの熱い言葉が、レオンの心に巣食い始めていた恐怖を焼き払っていく。


そうだ。恐れることはない。これは、僕が前に進んでいる証拠なんだ。


レオンは、大きく息を吸い込むと、もう一度、固く決意を宿した瞳で前を向いた。背筋が、再びピンと伸びる。


だが、彼らはまだ知らなかった。その小さな波紋が、すぐにでも次の大きな試練を呼び寄せることになるということを。


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