第5話 鏡の中の“筋肉(とも)”

数日間、基礎的な肉体トレーニングと、栄養管理を徹底した指導が続いた。レオンの体は、まだ目に見えて大きくはなっていない。だが、彼の内側では確かな変化が起きていた。以前より寝起きが良くなり、体の芯に微かな力が宿り始めたのを感じる。何より、思考を覆っていた濃い霧が晴れ、物事を前向きに考えられる瞬間が増えていた。




その日の早朝、ジョウイチはレオンをトレーニング場所には連れて行かず、街の廃品置き場へと導いた。


「今日のトレーニングは、ここで行う」


「え…? ここで、ですか?」


瓦礫やガラクタが散乱する場所で、一体何をするというのか。レオンが戸惑っていると、ジョウイチは巨大な瓦礫の山から、埃まみれになった何かを軽々と引きずり出してきた。


それは、縁が欠け、表面にいくつもひびの入った、大きな姿見だった。


「コーチ…?」


「立て」


ジョウイチは多くを語らず、その古びた鏡を壁に立てかけると、レオンにその前に立つよう命じた 。






レオンは、躊躇した。鏡に映る自分の姿を見るのが、何よりも嫌いだったからだ。そこにいるのは、痩せて、覇気がなく、いつも何かに怯えている、卑屈な少年。姉と比べられ、誰からも期待されず、自分自身でさえ見捨ててきた、忌むべき自分の姿。


「…嫌です」


思わず、拒絶の言葉が口をついて出た。視線を地面に落とし、鏡から顔を背ける。


しかし、ジョウイチはそれを許さない。分厚い手がレオンの顎を掴み、無理やり顔を上げさせ、鏡へと向き直らせた。


「見ろ、レオン」


その声は、普段の熱血指導とは違う、静かで、しかし逆らうことを許さない響きを持っていた。


「今から行うのは、メンタルトレーニングだ。強靭な肉体には、それを支配する強靭な精神が不可欠だ。そして、精神を鍛える第一歩は、己と向き合うことから始まる」


鏡の中には、怯えきった表情の自分がいる。ジョウイチに顎を掴まれ、なされるがままになっている情けない姿。レオンは唇を噛み締め、目を逸らそうとするが、ジョウイチの力がそれを許さない。




「いいか、レオン。そこにいるのは誰だ?」


「……僕、です」


「そうだ。だが、そいつは今の『敵』だ。お前の中から『どうせ無理だ』という声をささやき、お前の足を引っ張る、卑屈な心そのものだ」


敵。その言葉は、腑に落ちた。そうだ、鏡の中の自分はずっと大嫌いな敵だった。


だが、ジョウイチは続けた。その言葉は、レオンの予想を裏切るものだった。


「だがな。そこにいるのは、お前が超えるべき最初の敵であると同時に、お前の生涯の相棒でもあるんだ」






「…相棒…?」


「そうだ。親も、兄弟も、友人も、いつかはお前から離れていくかもしれん。だが、そいつだけは違う。死ぬまで、お前と共にある。お前が決意すればどこまでも強くなり、お前が諦めればどこまでも弱くなる。そいつは、お前の魂の器であり、唯一無二のパートナーだ」




レオンは混乱した。敵であり、相棒。相反する概念が、頭の中をかき乱す。


「でも…こんな体…弱くて、何の役にも立たない…」


心の声が、そのまま漏れた。自己嫌悪が、再び彼を飲み込もうとする。


その、魂の叫びを聞き届けたジョウイチは、雷鳴をその身に宿したかのように、吼えた。彼のコーチングが、今、クライマックスを迎える。




「鏡を見ろ、レオン! そこにいるのが、お前が唯一裏切れない“筋肉とも”だ!」




“筋肉”と書いて、“とも”と読ませる。その魂を揺さぶる言霊が、レオンの心の奥深くに突き刺さった。




「そいつを裏切るということは、自分自身を裏切るということだ! 弱音を吐き、卑下し、その可能性から目を背けることは、生涯を共にするはずの最高の相棒を、自らの手で貶める、最も愚かな行為だ!」


ジョウイチの言葉が、レオンの自己嫌悪という名の分厚い壁を粉々に打ち砕いていく。


涙が、レオンの頬を伝い始めた。だが、それはいつもの無力な涙ではなかった。


「さあ、言え。レオン」


ジョウイチの声が、少しだけ穏やかになる。


「鏡の中にいる、お前の相棒の『長所』を一つだけ言ってみろ。どんな些細なことでもいい。お前が、そいつを認めてやれる点を、お前自身の口で言うんだ」




長所。そんなもの、あるはずがない。レオンの思考は停止した。いくら探しても、自分の好きなところなど、一つも見つからない。


「…ありません…僕には、何も…」


「嘘をつくな。俺には見える」


ジョウイチは、レオンの瞳を覗き込むように言った。


「お前のその瞳は、絶望の縁にありながら、まだ悔しさの光を失ってはいなかった。お前のその手は、惨めな現実を突きつけられても、逃げずに『0』という数字を書き記した。お前のその足は、今、この場所から逃げ出さずに、自分の意志で立っている。…さあ、言え。お前の口で!」


ジョウイチの導きで、レオンの心に、一つの光が灯った。


そうだ。僕は、逃げなかった。あの時も、今も。


震える唇が、ゆっくりと開く。




「……に、逃げなかった…ことです…」




かろうじて絞り出した、その一言。


それを口にした瞬間、レオンの中で何かが堰を切ったように溢れ出した。


「う…うわあああああああああん!」


彼は、子供のように声を上げて泣きじゃくった。生まれて初めて、自分の意志で、自分のほんの僅かな「強さ」を認めることができた。その事実に、魂が震えたのだ 。






それは、卑屈な自分と向き合い、それを乗り越えた瞬間の、産声にも似た咆哮だった。


ジョウイチは、泣き崩れるレオンの背中を、ただ黙って力強く支えていた。朝日が、瓦礫の山の間から差し込み、二人の姿を照らし出す。それは、一人の少年が、自分自身という名の最初の敵に打ち勝ち、最高の相棒と和解を果たした、記念すべき夜明けだった。

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