第10話 被告の論理、官の論理

第10話 被告の論理、官の論理




第2回口頭弁論。


花霞地方裁判所桜都支部の大法廷。

記者、市民で傍聴席は満席。

開廷前からざわめきが渦を巻いていた。


桐生重信が裁判長席に座り、開廷を告げる。



「これより、第2回口頭弁論を開始します。

 本日は原告、被告の証人尋問を行います」



菊乃は速記用ペンを握る。

睡眠不足で視界がかすみ、呼吸も浅い。


(……胸が潰れそうですわ……)


法子は陪席から片手を振る。



「おキクさん、顔真っ青。徹夜明けで倒れないでよ☆」


「判事っ……! 今はふざけている場合では――」



――最初の証人が入廷した。



桜都建設工業の社長、山田修二。

五十代半ば、小柄で疲労の色濃い顔。

証言台に立ち、手を握りしめた。



「……わが社は三十年以上、この桜都市で建設業を営んでまいりました。

社員は三十人あまり、皆、地元で家族を持つ者ばかりです」



その言葉に、傍聴席からざわめきが漏れる。

一般の傍聴人たちの顔が、少しずつ真剣さを帯びていった。



「今回の契約……遅延損害金は一日1%。

すでに数百万円の負担を強いられています。

設計変更は何度も繰り返された。そのたび資材の手配、人員の組み直しが必要になった。

しかし費用は一切認められない……!」



声が震え、拳が小刻みに揺れる。



「社員たちは……寝る間を惜しんで働いております。

現場で倒れた者もいます。

資金繰りはすでに限界。

このままでは会社そのものが、家族の生活ごと、潰れてしまうのです……!」



菊乃は速記ペンを走らせながら、胸が締め付けられた。

文字が滲み、涙がにじむ。


(……これが、現実……。

契約に従えば、弱き者はただすり潰されるだけ……!)


傍聴席から嗚咽が漏れ、記者たちは一斉にペンを走らせる。


弁護人席から大河内俊郎が発言する。



「以上のとおりです。

公益を旗印に掲げながら、弱者を犠牲にする契約は許されません!」



桐生裁判長がうなずき、証言を記録に留める。

法廷内には、重苦しい沈黙が広がった。



――次に呼ばれる証人の名を耳にした瞬間、菊乃の背筋に冷たいものが走った。



「被告側証人、東條カンパニー取締役・東條雅乃氏」



菊乃の肩がびくりと跳ねた。

喉が詰まり、呼吸が浅くなる。


扉が開く音が鋭く響く。


長身に無駄なく沿ってう黒のスーツ姿。

まとめ上げられた黒髪は一筋の乱れもなく、足音は規律を刻むように整っている。


――東條雅乃。

桜都市はもちろん、国内で知らぬ者はいない大企業の名を背負う人物。

東條家の令嬢にして、次期社長候補。


彼女が一歩進むだけで、傍聴席の市民も記者も息をのんだ。


証言台に立った雅乃は、静かに一礼すると、裁判官席を真っ直ぐに見据えた。

その視線は刃のように鋭く、場内を支配する。



「桜都市水族館建設計画は、州の将来を担う公益事業でございます。

観光振興、雇用創出、地域の活性化――その効果は計り知れません」



澄んだ低い声が法廷に響く。

菊乃は手の震えを必死でこらえながら、速記を続けた。



「ゆえに、長期的な維持保証が不可欠。

追加工事の条項も、施設の品質を保つための合理的な措置にすぎません。

そして、工期の遅延については……原告側の施工能力不足が主因でございます」



淡々とした口調。

だが一言ごとに確信と自負がにじむ。

「公益のため」という言葉が重くのしかかった。


菊乃は速記用ペンを握りしめたまま、全身が強張っていた。

姉の声を聞くだけで、背筋が冷たく硬直する。


(……やはり、姉様は――完璧。

わたくしごときが立ち向かえる相手では……)


ペン先が震え、インクが滲む。

それでも速記を続けるしかなかった。


傍聴席では雅乃の演説に感嘆が漏れる。

記者たちの手も止まらない。


桐生裁判長は額に汗を浮かべ、慎重にうなずいた。

法廷は再び、冷たい沈黙に包まれた。



「次の証人、花霞州自治省企画部長・榊原正規氏」



廷吏の声とともに扉が開く。

中年の官僚が姿を現した。

小太りで、つやのない背広をきっちり着こなし、歩みは緩やかだが揺るぎない。

表情は事務的で、感情の色が薄い。


証言台に立つと、淡々と宣誓を行い、目線を正面へ向ける。



「本件水族館建設事業は、州の重点施策に位置づけられております。

観光資源の拡充、地域振興、教育的効果……その意義は明白であります」



声は低く、よどみなく続く。



「被告・東條カンパニーの提案は、入札段階で最も効率的かつ信頼性が高いものでございました。

契約条項についても――前例に乏しい点はあれど、公益性を確保するため正当と判断いたしました」



その一言一句に熱はなく、制度上の整合性を並べるのみ。

だが「公益」「重点施策」という言葉が繰り返されるたび、傍聴席に重苦しい空気が沈んでいく。



「事故や天候不順につきましても、発注者側が負担することは不可能であります。

下請け事業者の自己責任として処理するのが当然でありましょう」



その口ぶりはあまりに機械的だった。

まるで「人」を見ていないかのように。



菊乃はペンを走らせながら、全身を震わせた。


(……公益、公益と繰り返す……。

弱き者の声を切り捨てるための言葉にしか聞こえませんわ……)


そのとき、陪席から法子が身を乗り出した。



「なるほど。じゃあ“公益のため”なら、地元の企業が潰れても仕方ないってこと?」



榊原はわずかに瞬きし、眉ひとつ動かさず答えた。



「……制度的には、はい」



法廷の空気が一気に凍りついた。

菊乃の背筋に冷たい感覚が走る。

傍聴席からざわめきが広がり、記者たちのペンが一斉に走り出す。


菊乃は呼吸が詰まり、速記の手を止めそうになる。


(……“制度的には、はい”……それが、この人たちの答え……!)


握ったペン先が折れそうなほど震えていた。


しばらく榊原の機械のような声が法廷を支配していた。

――その時。


菊乃の胸の奥で、何かがはじけた。


(……制度的には、はい――ですって?

制度さえ守れば、人は犠牲になってもよいというのですか……!?

姉様も、この官僚も、誰も“ひとりの痛み”を見ようとしない……!)


次の瞬間、速記ペンが机から転がり落ちた。

カラン、と乾いた音が法廷に響く。



バンッッ!!



菊乃は書記台に両手をたたきつけ、立ち上がった。

顔を紅潮させ、瞳を燃やしていた。



「……もう、黙ってはいられませんわ!」



その声が、法廷全体を切り裂いた。



「“入札は正規に行われた”――何度もそう繰り返されました。

けれど、その“正規”とやらは、一体誰のためのものなのですか!?」



傍聴席の記者が一斉に顔を上げ、ペンを止める。

法廷は息を潜め、ただ彼女の声だけが響いた。



「契約書に判を押した瞬間から、下請けは搾り取られ、疲弊し、倒産寸前まで追い込まれている。

そのような契約を胸を張って“正規”と申されるのなら――!

それは州民を愚弄し、この地域を踏みにじる行為にほかなりません!」



声が反響し、誰もが息をのんだ。



「わたくしは東條家の娘。被告の利益の元に育ってきた身です。

ですが同時に、この裁判所の主任書記官でもあります!」



堂々と二重の立場を口にする菊乃。

震えながらも、声は鋭く響いていた。



「“夢の水族館”と美しく言う前に――その夢を築くために汗を流す人々がいるのです!

その汗が、血のにじむような不条理にまみれている。

州民の未来を語るのなら、まずは彼らを守るべきではありませんの!?

犠牲の上に築いた水槽に、いったいどんな魚が泳げましょう!

その水はすぐに濁り、夢は腐ってしまうに決まっております!」



誰も返せなかった。

裁判長も、陪席も、弁護士も――

ただその声に圧倒され、聞き入るしかなかった。


そして、最後に強烈な一言を吐いた。



「契約自由の原則なんか、くそくらえでございますわっっ!!」



菊乃の演説が終わっても、誰も声を出せなかった。

記者も弁護士も裁判官も、ただ呆然とするばかり。


呼吸すら憚られる沈黙。



――その静寂を破ったのは、法子だった。



「まあまあ、おキクさん、熱弁はそれくらいにしとこうか。

スピーチするなら、次はマイクとBGMも用意しなきゃね☆」


周りの空気などおかまいなしに、法子の「あはは」と笑う声が響く。


だが空気は和らぐどころか、逆にざわめきが広がった。



「書記官が意見を述べるなんて規律違反だ!」


「裁判の公平性が失われる!」



新堂弁護士が声を張り上げ、傍聴席の記者たちも一斉にメモを走らせる。

被告側弁護士、記者、傍聴人が声を張り上げ、法廷が騒然となった。


桐生裁判長は額に汗を浮かべ、震える手でポケットの胃薬を握りしめた。


「……せ、静粛にっ!

本日はこれ以上の進行は不可能……閉廷といたします!

次回は判決言い渡しとなります。期日については追って連絡します」


木槌の音が乾いた破裂音を立てた。

しかしその音ですら、騒然とした法廷を収められなかった。


(つづく)



本件の解説は、近況ノートに掲載してます。

📒https://kakuyomu.jp/users/298shizutama/news/822139836337490050

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