第4話 夢と奨学金と判決
第4話 夢と奨学金と判決
法廷の扉が開く。
黒い布が風をはらむ。
ばさり。
法服の裾を派手に鳴らしながら、判事・司 法子が裁判長席に腰を下ろした。
「令和15年(ワ)第121号、奨学金
いつになく、法子の声は落ち着いている。
原告は、会社社長で被告の連帯保証人、佐久間典夫、58歳。
原告代理人は、56歳のベテラン弁護士、山崎慶一。
被告は、奨学金の借入人・篠原
被告代理人は、法子の司法修習同期・高梨悠人、30歳。
書記官・東條菊乃が起立して出席を確認する。
原告本人は不出廷、代理人のみ。
被告本人および代理人の出席を確認。
「では、弁論を進めます」
山崎が立ち上がる。
落ち着いた声、無駄のない言葉。
「原告は、被告が大学時代に借り受けた奨学金1000万円につき、返済計画――20年
よって、弁済期経過分1,687,932円の求償を請求します」
続いて高梨が立つ。
目が合い、一瞬だけ司法修習時代の顔を思い出す。
「被告・篠原湊は返済の意思を持ち、少額ながら支払いを再開しています。
生活は逼迫していますが、音楽の道――バンド活動と作曲で生きていく夢を諦めておりません。
判決におかれては、その誠意を斟酌いただきたく――」
堪えきれず、被告本人が声を上げた。
「……どうしても、音楽を諦められないんです!」
細い体に不釣り合いな声。
夜のライブハウスで歌ってきたその声は、まだ舞台を夢見ていた。
法子の瞳がきらりと光る。
「いいね。いいねー、どんな音楽やってるの?」
「判事っ! 審理に不要な発言は規律違反ですっ!」
菊乃の声が鋭く響き、法廷がざわつく。
法子は頬を膨らませ、机を指でとんとん叩いた。
「ちょっとくらいいいじゃん。……音楽の話、いいじゃん」
山崎が咳払いし、再び記録に戻る。
こうして第1回期日は粛々と終結した。
裁判所・執務室。
紙とインクの匂いが漂う午後。
菊乃は記録を束ね、深く息を吸う。
「被告の訴え……嘘ではありません。返済を再開していたのも事実。法廷での様子と答弁書からも誠意は確かにございます」
法子はソファに足を投げ出したまま、指先でタバコを転がす。火はつけない。
「誠意? 三年も延滞して? それで必死って言えるの?」
机に手をつき、菊乃は前へ出る。
「猶予をお与えになるべきです! 月々46,887円。若者には重すぎる時期もございます。分割の再調整を……!」
「ここで甘やかすのは、むしろ被告を苦しめるんじゃない?」
法子の声は低く、冷たい。
「――そんなことでは、夢なんか到底掴めないんだよ」
菊乃の目に涙がにじむ。
「そ、それは分かります……しかし――判事、それではあまりにも非情すぎますわ!」
法子は視線だけを菊乃に向ける。
「夢を守りたいなら、現実を叩きつけられても立たなきゃ。借りた金も返せない奴に、音楽で金を稼ぐ資格はない」
張りつめた空気。
菊乃の指先が震える。
そのとき、ノックする音がした。
事務局長・長峰敦子が銀盆を抱えて入ってきた。
「まあまあ。言葉の刃が飛んでおりますよ」
「裁判は厳しくても、お茶の時間くらいは穏やかに」
黒く澄んだコーヒーが注がれる。
湯気が空気を柔らかく変える。
「……熱っ」
法子がむすっと呟き、菊乃は静かに縁を見つめた。
長峰は微笑みながら砂糖を一つ置く。
再び法廷。
――ばさり。
「第2回期日開廷します。それでは、判決を言い渡します」
「……それでは判決を言い渡します」
法子は真剣な表情で前を見据え、よどみなく読み上げた。
[主文]
一 被告・篠原湊は、原告・佐久間典夫に対し、金1,687,932円を支払え。
二 ただし、遅延損害金の支払いを免除する。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
[判決理由]
本件奨学金については、被告が三年間にわたり月々の返済を怠り、延滞額は1,687,932円に達している。
連帯保証人である原告が、既に残額の全額を立替済みであることは、提出された書証および当事者双方の陳述から明らかである。
もっとも、被告が返済を再開している事実も認められる。
その生活状況に鑑みれば、遅延損害金までを負担させることは過酷にすぎるため、これを免除するのが相当である。
よって、主文のとおり判決する。
法廷は静まり返り、すぐにざわめきが広がった。
篠原は机に突っ伏し、高梨は唇を噛みしめ、山崎は淡々と一礼した。
法子は落ち着いた声で告げた。
「……最後に付け加えます。この判決は、被告にとって厳しいことは承知しています。しかし――甘さじゃ夢は掴めない。夢を追うことは自由です。そして、素晴らしい。けれども、借りたものを返さずに夢を語ることはできません。厳しい現実を越えてこそ、初めてステージに立てるのです」
そして声を張る。
「被告は顔をあげなさいっ!」
篠原の瞳から涙が落ちる。
法子はその視線を受け止め、わずかに表情を緩めた。
「きみたちが目指す場所ってさ、何度倒れても立ち上がれる奴だけが立てる世界なんだ。がんばれ」
視線が交差し、篠原は一礼した。
「……閉廷します!」
裾をばさりと鳴らし、法子は退廷した。
執務室。
桐生所長が胃薬を手に待っていた。
「……君の判決は、毎度心臓に悪い」
菊乃は記録を重ね、唇を結ぶ。
「……被告の心情を、少しは酌んでもよかったのでは」
窓辺に立つ法子。
タバコを回し、火はつけない。
「夢を知ってるからこそ、ハードルを高くする。そのハードルを越えなきゃ、いい音は鳴らせない」
菊乃は返せず、その背を見つめる。
(理解できなくはありませんわ……ただ、今回の判決には賛同いたしかねます。――でも、この胸のざわめきは何なのでしょう)
数日後、カフェ・ロッソ。
窓ガラスに午後の光。テーブルには法子、山崎、高梨。
「月25,000円、60回。5年で行きましょう」
高梨が確認し、山崎が頷く。
電話越しに了承を取り、任意の支払計画が静かに固まっていく。
そこへ菊乃が飛び込んできた。
「判事が訴訟外の交渉に介入など、倫理規定違反ですっ!」
法子はにやり。
「交渉したのは代理人たち。わたしは場を貸してシミ数えてただけ」
「ほんとに数えてましたから」
高梨が笑い、山崎も淡々と頷く。
「17個。ついでに“夢”も17画。――立て直せるといいね」
菊乃は頬を膨らませ、言葉を失う。
代わりに「地獄のコーヒー」を飲み干した。
(違反ではありませんけれど……この苦味は、少しだけやさしい)
週末の夜、カフェ・ロッソはバーに変わる。
革ジャンにショートパンツ、派手なニーハイの法子が現れる。
「……ローゼス。ロックで」
琥珀が注がれ、静かに響く。
「おとなしいじゃねぇか、ノリコ」
マスター・西園寺慎の声。
法子は自嘲気味に笑い、グラスを揺らす。
「……最近、らしくないかも」
「少しやってくか?」
首を横に振る法子。
だが、ドラムが鳴り始める。
タン、タタタ、タン――。
指先が無意識にテーブルを叩き、リズムが重なる。
「……ほら」
西園寺の一言に、法子はやれやれと肩をすくめ、ギターに手を伸ばす。
Gibson ES-175。
抱えた瞬間、木の匂いと弦の冷たさを感じる。
小柄な体に不釣り合いなボディから、心地よい重みが伝わってきた。
その懐かしさに、法子の口元にようやく笑みが浮かんだ。
(つづく)
本件の解説は、近況ノートに掲載してます。
📒https://kakuyomu.jp/users/298shizutama/news/7667601420036788505
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