第10話 奪還
一階で、何やら騒ぎが起きたようだ。
怒鳴り声や、どたばたした物音に交じって、
「妻を、返してもらう!」
「
手足を縛られたまま身体をよじって、
「涼音ーっ!」
「ちゅんっ!」
二つの呼び声が、窓の外から引き留める。
「お待たせ、涼音っ!」
窓ガラスをしゅるんっと通り抜けて、飛び込んで来た小さな妖狐。
「
「あったり前や! ちょっとだけ、じっとしとってな?」
手首と足首の周りを、しゅっと周がかすめると。
縛っていた紐が切れて、ぱらりと落ちた。
「ありがと!」
「跡付いとる……痛いやろ?」
小さな両手をちょんと涼音の手首に乗せて、くしゃりと顔を歪める、優しい
「ちょっとだけ。大丈夫、すぐ動けるようになるから!」
何時間も拘束されて、
大丈夫。絶対に動ける。
行ける。
朔夜様の元に。
手の指を開いたり閉じたり、足首もさすって動かしながら、祈るように自分に言い聞かせる。
周がふわふわの尻尾で優しく撫でると、ぐっと痛みが和らいできた。
そういえば。
「ねぇ、前にもそこの木の上から、『もうじきやで』って声かけてくれたの、あれって……」
涼音が周に問いかけたとき、
「ちゅん! ちゅんっ!」
窓の外で、スズメが急に羽をばたつかせて、警告するような鳴き声を上げた。
「どうしたの?」
「しっ、誰か来るで!」
耳をそばだてた周が、低い声で叫ぶ。
涼音はとっさに、手首と足首を縮めて、まだ縛られているかのように、畳の上に倒れた。
さっと窓枠に飛び乗った周は、すっと右手を上げた招き猫のポーズで、そのまま固まる。
と同時に
「いつまで呑気に転がってるんだい、『すずめ』!」
「あんたのおかげで、まーためちゃくちゃだよ! この疫病神!」
義母の香夜子に怒鳴られ、義妹の瑠璃に背中を蹴られて、きっと涼音は顔を上げた。
「一体、何のことですか?」
「お前の旦那と仲間が、また変な言いがかり付けて、暴れてんだよ!」
「せっかく商談がまとまった所なのに、ホントいい迷惑!」
口々に勝手な理屈を並べる二人に、心底呆れながら。
『朔夜様が、来てくださった!』
じんっと
「ほら、早く起きるんだよ! これから横浜に行くんだから」
「横浜……?」
「そこで商売してるって男が、『朝霧涼音』を探しててさ。
『連れてくれば礼をする』って言うから――そいつが新しい旦那様だよ!」
「商売ったって、どうせ娼館でしょ?」
にんまりと瑠璃が笑う。
「だろうね。えらく景気が良くて、謝礼もたんまり弾んでくれたから!
こーんな重たい桐箱、中にはきっと札束がぎっしりさ!」
ひひっと香夜子も、顔をほころばす。
「わざわざ、メイドに変装までして。骨折ったかいがあったよね、お母様!」
きゃっきゃと楽し気な義母と義妹に、
「新しい旦那様……? わたしには朔夜様という、大事な夫がいます! そんな所、絶対に行きません!」
きっぱりと、涼音が叫んだ。
「うるさいねぇ。母親のわたしが認めてないんだ、そんな結婚は無効だよ!」
「良かったじゃなーい? 拾ってくれる所があって」
「まったく吉原じゃ『狐
どうして?
どうしてこんなに、身勝手なんだろ。
「いやだ」と、いくら泣いても叫んでも。
この人たちには『すずめの涙』、これっぽっちも届かない。
だから、全部
笑い方も忘れた。
でも今は、
「勝手な事、言わないで……!」
胸の奥から湧き上る怒りを、思い切り吐き出す。
『そうやって心のままに。
怒っていい。イヤだと言ってもいいと。
朔夜様の優しい声が、背中を押してくれるから。
「なんだって――?」
「なに逆らってんのさ、すずめのくせに!」
「すずめではなく涼音です。そんな所には絶対行きません! わたしは家に帰ります!」
迎えに来てくれた大切な、大好きなひとと一緒に。
キッパリと告げて、さっと立ち上がると。
「お前、いつの間に紐を……お待ちっ――!」
慌てた義母が涼音の左手首を、乱暴に掴んで来た。
ズキンッと走る痛みに顔をしかめながら、ふっと息を吐いて。
握られた方の手のひらを、くっと下に向けると同時に、自分の右手でぎゅっと握り締める。
肘を相手にぶつけながら、すばやく両手を引き寄せると、
「あっ……!」
義母の手から手首が、するっと抜けた。
松江から習った護身術。
成功したっ――!
「あれっ? 今確かに掴んで?」
「ちょっと! 何してんのよ、お母様!」
内輪もめを始めた二人を背に、出来るだけすばやく、廊下に出る。
「ちょっ、すずめが逃げた! 待ちな――痛っ!」
「なにこの、招き猫っ!? 痛い! やめてっ……!」
「やめて欲しいんー? 残・念! やめへんなぁ!」
部屋の中では、一見作り物のように愛らしい小さな妖狐が、義母と義妹を派手に蹴散らしていた。
廊下の壁を支えに進んだ所で、階段を駆け上がってくる足音が聴こえた。
『朔夜様……!?』
ぱっと顔を輝かせた涼音の前に、
「あれっ……あんた、朝霧涼音さん? ちょいちょい、どこ行くのさー?」
ぬっと顔を出したのは、穴だらけの耳に銀の輪っかを付けて、襟元を開けたシャツに派手な縞のスーツ、崩れた洋装姿の優男。
「何で名前を……?」
あっ! さっき聞いた、横浜の娼館の?
一見優しそうに垂れた目で、にっと笑いかけられて。
ぞわりと涼音は後ずさる。
「会えて良かったー! あれれっ、髪ぼさぼさじゃーん」
青ざめた涼音の乱れた髪に、男の手が無造作に伸びた。
そのとき。
「――さわるなっ!」
低い
男の襟首をむんずと掴んで、後方の階段に思い切り放り投げた。
「ぎゃーっ……!」
叫び声と一緒に、ごろごろと転げ落ちて行く男。
それを振り返りもせず。
荒い息を吐きながら、ひたすら涼音を見つめているのは、
「朔夜さま……?」
異能部隊の氷雪軍医。
いつも冷静な、妖狐遣いの朔夜が。
「涼音っ――!」
くしゃりと、まるで泣くのを我慢している子供のように、顔を歪めて。
名前を呼んだ。
「はいっ……!」
迷わずその腕の中に飛び込むと、ぎゅっと痛いくらいの力で抱きしめて来る。
「涼音……涼音!」
本当にここにいるのを確かめるように、何度も何度も、繰り返し呼ぶ声。
その声が、震えている。
それが嬉しくて、愛しくてたまらない。
「好きだ、涼音」
「わたしもです。大好き……朔夜様」
あなたはこの世界中で、ただひとり。
だれよりも愛しいひと。
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