第8話 拉致

 資源堂しげんどうパーラーの2階。

 客席からは離れた、通路を進んだ奥手にある女性用化粧室。

 室内には西洋式のトイレはもちろん、仏欄西フランス製の石鹸が置かれた優美な洗面台。

 それから、ゆっくり化粧直しが出来るよう、大きな鏡の前に籐製の椅子が置かれた、スペースも完備している。


「さすが銀座のパーラー、化粧室も素敵……!」

 他に誰もいない室内を、くるりと見渡した涼音は、まず洗面台で手を洗った。

 ふと鏡に映る、むすっと無愛想な自分の顔を見て。

 石鹸から、ほのかに花の香りが写った両手の指先で、唇の端をむにゅっと上げてみる。


「変な顔……」

 笑顔に見えなくはないけど、不自然だし。

 指を離せば、また元通り。

「朔夜様だってきっと、笑顔の可愛い子のほうが……」

 近くの客席で、笑いさざめいていた令嬢たちを思い出して、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


 深くひとつ、ため息を吐いて。

涼音がしょんぼり、ハンカチを水で濡らしていると。

 コンコン……ノックと同時にドアが開き、制服姿のメイドが入って来た。


 黒いワンピースに白いエプロン、頭にはホワイトブリム(フリル素材のヘッドドレス)を付け、手にはバケツを持っている。

『お店で接客しているのは、ボーイさんだけど。メイドさんもいるんだ?』

 慌てた様にぺこぺこお辞儀をしたまま、顔を伏せている、ふっくらと横幅のあるメイド。


「あっ、お掃除の邪魔してごめんなさい。すぐに出ますから」

 急いで絞ったハンカチを手にして、ドアに足を向けると、

「そんなに慌てて行かなくたって――久しぶりに会ったのに水臭いわぁ、『すずめ』お義姉様?」

 ねっとりとした声が、追いかけて来た。


「えっ?」

 驚いて振り向いた涼音の前で、顔を上げたメイドがにやりと笑う。

 幾度となく見覚えがある、その底意地が悪そうな笑顔。

「瑠璃――!?」

 もう二度と会う事はないと思っていた、義理の妹だった。


 思わずそのまま、数歩後ずさり。

 後ろ手で、探ったドアノブを掴む。

 気持ちが焦っているせいか、滑って上手く回せない。


 ガチャリッ!


 開いたっ――!

 急いで通路に飛び出した涼音の前に、

「おやおや……そんなに急いで。あの男のところに、戻るつもりかい?」

 黒地に赤や白の牡丹柄、金刺繍の帯には特大の、紫水晶むらさきすいしょうが輝く帯留め付き。

 相変わらず派手な和服姿の義母、香夜子がにんまり――三日月型に目を細めて、行く手に立ちふさがった。

「お義母さま……!」


 前にも進めず、後ろにも戻れず。

「誰か、誰かいませんかっ!?」

 助けを求めた涼音の声に、がしゃんっと、耳障りな音が重なる。

 バケツを放り投げた瑠璃が、ぐいっと後ろから手を伸ばして来た。

脇の下から身体を拘束され、身動きが取れない。

「放して――誰かっ!」

 もがいて声を上げようとした口に、香夜子が濡れた布を、ぎゅっと押し当てる。


「うっ……」

 頭がくらくら、甘い匂いに気が遠くなる。

『しっかり、涼音! 朔夜様のとこに帰らなきゃ……』

 いくら自分に言い聞かせても、薬の効果にはあらがえず。


 ゆっくりと瞼を閉じて、意識を手放して行く涼音の耳に、

「おやすみ、すずめ。あの男にはもう、二度と会えないよ」

 最後に届いたのは、にんまりあざ笑う様な、義母の声だった。


 ◇◇◇

 はっと気がついたとき、涼音の目に映ったのは、

 立派な床柱や床の間がある、襖絵ふすまえ等も趣味の良い和室。

 でも掛け軸や花器はもちろん、箪笥などの家具さえ見当たらない。


 両手は後ろで、足首もしごきのような丈夫な紐で、固く縛られて。

 がらんとした部屋の、少しホコリっぽい畳の上に転がされていた。


 幸い着ていた服はそのまま、脱がされたのは靴だけ。

 寝ている間に、何かをされた形跡は無いけれど。

 知らない部屋で、両手両足を拘束されている恐怖が、じわりと身体中に広がって行く。

「だれか……」


 やっとの思いで声を上げると、喉に変な後味がからんで、ごほごほと咳き込んでしまった。

 口と鼻の奥に残る、甘ったるい薬品の味。

『あの布には、やっぱり睡眠薬が? どうして、そこまで?』

 涼音が、ぎゅっと唇を噛んだ。

 その時、


「おーや、お目覚めかい、すずめお嬢様。いや、剣持伯爵家の奥様?」

 ぱんっと勢いよく襖が開き、部屋に入って来たのは、義母の香夜子だった。


 両手を腰に当てて、忌々しげに見下ろしてくる義理の母に、

「お義母様……? ここはどこですか? どうしてわたし、こんな所にいるんでしょう?」

 わざと『世間知らずなお嬢様』の顔を作り、きょとんと首を傾げてみせる。

 これは長年、義母たちと暮らした間に、涼音が身に着けた『知恵スキル』。

 

 義母と義妹がイメージした通りに、『頭が弱くてだまされやすい、間抜けなお嬢様』のフリをしていれば、向こうはご機嫌になり、それだけ風当りが弱くなる。

 時には我慢の限界が来て、つい歯向かってしまうこともあったけど。

 すずが売られそうになった、あの時のように。


「ここがどこかって? ふはっ……ほんっと、お前は間抜けだね! この家は、お前も良く知ってるはずの」

 と言いかけたところで、

「奥様ーっ! お客様がお見えです!」

 階下から使用人らしい、聞き覚えの無い声が響いた。


「おっと、お喋りしてるヒマは無いんだよ!」

 急いで出て行こうとする義母に、

「あのっ、お義母様! 手が痛くて……この紐だけでも、取って頂けませんか?」

 涼音が弱々しく、『お願い』する。

 一瞬考えてから、

「ダメだ、ダメだ! あと少し、そのまま我慢するんだね!」

 言い捨てた義母は部屋を出て、ぴしゃりと襖を閉めた。


「残念……」

 手が自由になれば、松江から教わった護身術で、逃げる事が出来たかも。

 可能性がひとつ消えて、涼音はふーっとため息を吐く。

 

「でもまだ、やれることはあるはず!」

 何も出来ずにただ泣いていた、『すずめ』はもう卒業。

 考えるんだ。

 あらゆる可能性を探って推理し、真相にたどり着く名探偵みたいに。

 朔夜様の元に、帰れる手段を!


 先ほどの会話の、

『この家はお前も良く知ってる』という、義母の言葉が引っ掛かる。

 良く知ってるという事は、元々の朝霧邸と以前通っていた女学校の周辺。

 それとも、あの裏店に移ってから?


 もっと情報が欲しくて、縛られたまま身体を動かし、なんとか窓の傍まで這って行く。

 上半身を起こして、横座りの体勢になってみたけど。

 床から離れた高い位置にある、窓にはとても届かない。

「ここから助けを呼ぶのは、無理かな」

 それでもあきらめきれず、首を伸ばした涼音の目に、真っ赤な実を付けた南天の木が飛び込んで来た。


「あっ、あの木……!」

 確かに見覚えがある。

 前に見た時は、もっと実が青くて。

 つついていたスズメに、『まだ美味しくないよ』って。


「八百屋からの通り道沿いにある、二階家だ……!」

 涼音が閃いたとき、ぱさりと窓に小さな影が映った。


 窓枠に止まり、こちらを覗き込む茶色い頭。

 小さな黒い目が、涼音の琥珀色の瞳を捕らえて、嬉しそうに瞬く。


『見つけた』


 ちゅん。


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