第1話《テンペスタ》

嵐の暗号


 午前の展示室は、まだ人影がまばらだった。

 新設された特別展示コーナーの中央に、ジョルジョーネ《テンペスタ》の高精細複製が飾られている。照明は柔らかく、嵐雲を描いたキャンバスにだけ光が集まり、周囲の壁を沈ませていた。


 麻生玲奈は、最後のチェックを終えてキャプションを直す。手帳に館長の口癖を書き添えた。「説明は短く、視線は長く」。彼女は自分の文字を見て苦笑した。短く済ませられる説明など、名画には存在しない。


 嵐の空。裸婦と赤子。槍を持つ兵士。そして崩れかけた都市。

 ルネサンス期ヴェネツィア派の傑作にして、未だに主題不明の絵画。五百年経っても「寓意か、宗教か、風景か」決着がつかない。


 そこへ、軽快な靴音が展示室に響いた。

「へえ、これが噂の《テンペスタ》か」

 声の主は、スーツに細身のネクタイを締めた青年だった。片手にタブレット、もう片手で髪をかき上げる。


「……関係者の方ですか?」玲奈が声をかける。

「保険調査です。斎藤悠馬。展示警備のリスクチェックに来ました」

 名刺を差し出され、玲奈は受け取る。美術保険会社の調査員──いわゆる“アート探偵”。


「正直、俺にはただの嵐前の風景にしか見えないけどな」

「正しくは“嵐”です。テンペスタはイタリア語で」

「へえ、学芸員さんは説明も嵐みたいに降らせるんだな」

 玲奈は一瞬むっとしたが、言い返さず微笑んだ。こういうタイプは説明すればするほど茶化す。


 悠馬は絵に近づき、眉を寄せた。

「……ん? 影の向き、おかしくないか?」

 玲奈も足を止める。確かに兵士と母子の足元の影が、同じ光源では説明できない方向に伸びている。

「ジョルジョーネの筆致は曖昧ですから」

「いや、これは意図的だろ。影は真実を知ってる」

 軽口のようで、妙に核心を突いていた。


 そのとき、背後から小さな嗚咽が聞こえた。

 振り向くと、一人の女性が絵の前に立ち尽くしていた。黒髪をまとめ、手には古びたパンフレットを握りしめている。


「……この子、守られていない」

 涙声で呟くその人は、出版社編集者の神崎理沙と名乗った。

 玲奈は慌ててハンカチを差し出す。

「大丈夫ですか?」

「兵士は母子を見ていない。母親も気づいていない。嵐が迫っているのに、この子は一人ぼっち……」

 玲奈の胸に重く刺さる言葉だった。兄を事故で失った夜、あの火の中で彼はどれほど孤独だったか。


 悠馬が絵を指さす。

「ほら、裸婦と兵士、互いに視線を交わしてないだろ。これは……二つの時間を同時に描いてるんじゃないか?」

「二つの時間?」玲奈が問い返す。

「兵士が過去を見張り、母子が未来を抱いてる。嵐はその狭間にある。光源の矛盾も、そのせいだ」

 強引な仮説。しかし、否定できなかった。


 玲奈は絵の背景に目を移す。崩れかけた都市。

「当時ヴェネツィアはペストに脅かされていました。ジョルジョーネ自身もペストで三十代前半で亡くなっています」

「未完成の人生が残した、未解読の絵……」理沙が呟く。


 沈黙のあと、玲奈の胸に突き上げるものがあった。

 兄もまた、未完成のまま人生を断たれた。

 この絵は、過去と未来の断絶を描いているのかもしれない。

 視線が交わらないのは、もう交わせないから。


 悠馬が肩をすくめる。

「でもさ、こうやって俺らが勝手に推理してるのが一番面白いんじゃない?」

「……美術は、未解読だからこそ人を惹きつけるのかもしれません」玲奈は小さく答えた。


 理沙は涙を拭き、微笑んだ。

「今日、来てよかった。あの子に声を届けられた気がする」

 玲奈は深く頷いた。未解読の絵が、誰かの心を救うこともある。


 展示室の外から館内アナウンスが流れる。

 玲奈は視線をもう一度テンペスタへ向けた。嵐は今にも降り出しそうだ。


 その夜、美術館の廊下に貼られたポスターを見て、玲奈は足を止めた。

 レンブラント《夜警》特別展、来月開催。

 光と影の集団肖像──次の謎が、もうこちらを見ている。



作者コメント


ここまでお読みいただきありがとうございます!

第1話では、ジョルジョーネ《テンペスタ》を題材に、「影の矛盾」と「未完成の人生」というテーマを描きました。

名画の知識と人間のドラマを掛け合わせる試み、楽しんでいただけたでしょうか?


もし「続きを読んでみたい」「絵画ミステリーって面白い」と思っていただけたら、ぜひ 評価や♡いいね、フォロー をお願いいたします。

みなさんの一押しが、物語を次の章へ運んでくれる大きな力になります。


湊マチ

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