プロローグ「兄のスケッチ帳」

 雨は夜の街を灰色に溶かしながら、窓ガラスを叩き続けていた。

 机の上に置かれた黒いスケッチ帳は、スタンドライトの光を受けて、不自然に静かに見えた。


 麻生玲奈は息を整え、表紙のゴムを外す。乾いた紙の匂いが、火事の残り香を思い出させる。

 二年前、兄の拓海は倉庫の火災で命を落とした。行政の報告書には「事故死」とだけ記されていた。

 だが玲奈はずっと信じられなかった。あの兄が、偶然で死ぬはずがない。


 ページをめくる。

 瓶や刷毛の素描。画材商を営んでいた兄らしい几帳面な線。

 だが数枚目で、玲奈の指は止まった。


 鉛筆の文字が左右反転していた。鏡に映したように。

 読み解ける断片は「m」「o」「n」「a」……。そして日本語で「見ているのに、見えていない」。

 兄がふざけて書くような人ではなかった。これは隠された伝言か。


 さらに別のページには、三つの円が三角形に配置され、横に「0.618」と走り書きされている。黄金比を意味する数字。

 果物のスケッチのようにも見えるが、配置は不自然に幾何学的だ。


 ページの端には、灰色の粉がこびりついていた。指で撫でると、光を帯びる粒が爪の隙間に入る。

 保存修復の現場で使われる特殊な顔料に似ている。

 倉庫の火事に巻き込まれて残るはずのないものが、なぜここに。


 玲奈の脳裏に、火事の夜の映像がよみがえる。

 赤く焼け落ちた倉庫。

 残骸の隙間に残された、誰かの作業靴の跡。

 そして、届かなかった兄のメッセージ。

 ──「今度、面白いものを見せる。驚くなよ」。


 驚くどころではない。兄は何を見て、何を残そうとしたのか。


 机の端には、翌月から始まる展覧会のパンフレットが置かれている。

 そこに印刷された図版──ジョルジョーネ《テンペスタ》。

 嵐の雲。裸婦と赤子。槍を持つ兵士。崩れゆく都市。

 未解読のまま五百年を経たこの絵画は、作者が三十歳で病に倒れたため真意を語られなかった。

 「未完の人生が残した、未解読の絵画」とキャプションに書いたのは、ほかならぬ玲奈自身だった。


 スケッチ帳を閉じ、玲奈は深く息を吐く。

 兄が残した暗号は、まだ扉の向こうにある。

 だが、その扉はすでに軋みを上げている。


 説明は短く、視線は長く。

 館長の口癖を胸の奥で繰り返しながら、玲奈は決意した。

 兄の死を解く手がかりを、絵画の中に探す。

 そして最初に向き合うのは──嵐の絵だった。



 ──そして、ここから物語が始まります。


 兄のスケッチ帳に刻まれた小さな暗号は、やがて数百年の時を越えた名画の謎と重なり合い、主人公たちを思いがけない真実へ導いていきます。


 美術館の展示室で、あなたと同じように絵の前に立つ登場人物たち。

 彼らが見つめる視線の先に、どんな矛盾や秘密が潜んでいるのか──ぜひ一緒に追いかけてください。


 いよいよ第1話、《テンペスタ》の幕が上がります。

 どうぞページをめくって、この“キャンバスに眠る暗号”の扉を開いてください。


湊マチ

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