第7話「信じるという選択」

 非常灯の白が、影の輪郭を一段濃くした。

 私は息を呑み、声を出す前に、足を一歩だけ引いた。距離は武器になる。近すぎれば思い込みで決めつけ、遠すぎれば真実を見失う。

 影はゆっくりと顔を上げた。

 そこにいたのは――山岸尚美だった。


 言葉より先に、職業的反射で彼女の両手を見た。テープの芯が一つ、左手に。右手は空だ。袖口に黒い擦れ。胸の名札はまっすぐ。呼吸は浅いが、乱れてはいない。

 「尚美さん」

 呼びかけると、彼女は小さく会釈した。

 「課長。非常口の表示板が傾いていました。お客様の導線に不安を与えたくないので、すぐに補修を――」

 「夜間の設備エリアは保安課の許可が必要だ」

 「すみません。……急いでしまいました」

 言い訳は短いほど真実に近い。だが短いからといって、真実だとは限らない。私はテープの切断面を見た。刃は鈍い。切り口が毛羽立っている。設備の道具ではなく、フロントの文具室で切ったものだ。


 扉の向こう、E-3通路には白い紙片が二枚、黒い紙片が一枚、風に揺れていた。黒は素材自体が黒い、例の■だ。

 「拾ったのか」

 「はい。……でも、一枚は残しました。課長に見てもらうべきだと思って」

 彼女が顎で示した先、扉脇の床に白が一枚。角が、誰かの爪でわずかに折られている。見覚えのある目印。――稔の癖だ。

 私は無線に低く告げ、現場保存を指示した。尚美を先に通し、保安課へ。椅子を勧め、テープを預かる。

 「昨夜の七秒、そして一昨日の1.9秒――あなたはどこにいた」

 「ロビーです。記録も残っています」

 彼女の目は揺れない。嘘をつく人間は、目を泳がせるより先に喉を固くする。尚美の喉は柔らかい。

 「では、なぜ今夜ここに一人で入った」

 「“Another 19:07”の紙を見ました。……お客様の前で、また同じことが起きると思ったら、居ても立ってもいられなくて」

 私は黙った。正直は、ときに最も危険な動機だ。そこにつけ込めば、人はたやすく舞台に上がる。


 湯川が駆け込んできた。ロガーの時刻を指でなぞり、赤外反射のピークを指した。

 「今、扉の陰で一度、盤の右で一度。……0.31秒のずれ。昨夜よりわずかに長い」

 「ためらいが増えた?」

 「あるいは“見せている”。我々に」

 湯川は尚美を見、私に視線を戻した。「彼女の指先に、電熱の痕はない。押していない」

 私は頷き、尚美に言った。「事情はあとで詳しく聞く。今はフロントに戻ってくれ」

 「はい」

 立ち上がる寸前、彼女は小さな声で言った。「課長――信じてください、とは言いません。信じたいと思ってくださるなら、そのときは合わせます」

 その言い方が、尚美だった。自分の側から信頼を強要しない。相手が決める余地を、言葉の中に残す。私は「分かった」とだけ答えた。


 廊下に出ると、稔が壁にもたれていた。

 「目印は役に立ちました?」

「お前か」

 「白の角を折ったのは私。黒は誰かが混ぜた。――ねえ課長、犯人は“余白を増やす”のと“余白を塗る”のを、同時にやり始めていますよ」

 「観客に、意味を選ばせておいて、最後に決めつけで潰す」

 「そう。舞台で一番残酷なやり方です。観客は共犯になってから、被害者にされる」

 稔の目は笑っていなかった。彼は遊んでなどいない。

 「もう一手、早く打とう」

 「教授の数字は?」

 「二箇所同時。ずれは0.31」

 「なら、片方は“人間”、もう片方は“人間のふり”かもしれない」

 「ふり?」

 「リレーです。押したという音だけを作って、実際の切り替えは別でやる」

 稔の指が空中でカードを切る。「音のタイミングを見せ札にすれば、客は信じる」

 私は頷き、無線に指示を飛ばした。扉の陰と盤の右に、それぞれ臨時の圧力センサー。押し込みの実重量を取る。音と光と電流、そして“力”。人間は力を嘘つけない。


 保安課に戻る途中、片桐が廊下の角で立ち止まっていた。胸ポケットを押さえ、目は涙をこらえている。

 「課長……言わなきゃいけないことがあります」

 小さく息を飲み、彼女は続けた。「一週間前、私はE-3で、副支配人を見ました。テープを貼り替えていて……。でも、あの方はホテルのためにいつも動いてくださるから、疑いたくなくて」

 川嶋。

 「なぜ今まで黙っていた」

 「信じていたかったからです。私の仕事は、“信じていただくこと”だから」

 私は彼女の肩を軽く押し、控室に戻らせた。信じたいという願いは、時に最良の目撃情報を遅らせる。遅れた情報は、価値を失わない。今、言えたことが重要だ。


 高見は備品室の前にいた。指の絆創膏は二枚に減っている。

 「昨夜、何を見た」

 「扉の縁の粉が細かくなっていました。――誰かが道具を替えたんだと思います。……それと、物置の古い電話に短く通電した痕」

 彼女は淡々と途中まで話し、そこで言葉を飲み込んだ。

 「続けろ」

 「“尚美さんが通ったあと、匂いが残らない”と、誰かが笑っていました。誰かは……」

 「言え」

 「副支配人です」

 名指しの緊張が空気を硬くする。私は頷いた。「ありがとう」


 午後、川嶋がふらりと現れた。ネクタイの結び目は完璧、靴先の補修は目立たない。

 「導線、きれいに整っているね、浩介君」

 「整えているのは皆です」

 「皆を整えるのが君の仕事だ」

 彼は微笑み、すぐに視線を外した。完璧な人間は、完璧に視線を外す。

 「昨夜、E-3でテープを?」

 「貼り替えたよ。傾いていたから」

 「保安課に一言あってもよかった」

 「次からそうする」

 約束する人間のうち、いくつが約束を守るか――私は数えないことにしている。数えれば、仕事が嫌いになる。


 稔はバンケットの袖で客の目線を集める練習をしていた。白紙を一枚ずつ配り、何も書かないように、と優しく命じる。命じられる優しさは、観客を止める。

 湯川は制御盤室に新しいロガーを二台設置した。うち一台は、あえて位置を外す。「犯人は君の正確さを予測に使う」と稔が言うと、湯川は少し笑って「だから外す」と答えた。


 視察当日。緊張は空調の音にも乗る。汗の匂いを消すため香りの濃度がわずかに上げられ、コーヒーの抽出時間が一秒延びた。尚美の配慮だ。

 時刻は十九時を回る。

 “Another 19:07”――例の時間。

 暗転は来ない。

 代わりに、スクリーンに白い文字が浮かぶ。

 ――Another 19:07

 観客の視線が上に集まる。視線が同じ一点を向くとき、人は足を止める。稔の仕込みだ。彼は客席の空気を45秒、見事に凍らせた。

 無線が鳴る。「E-3、異常!」

 私は走りながら、耳で自分の呼吸を二つに分ける。廊下の角を曲がる手前、黒い紙が三枚、雪のように落ちていた。扉は半開き。

 「止まれ!」

 影が振り返る。尚美。

 ――違う。

 尚美の制服、尚美の後ろ姿、尚美の背丈。だが匂いが違う。彼女の香りは、香りそのものでなく、「香りの濃度の変化」だ。ここに立つ人物は違う。

 非常灯が点く。顔が現れる。

 高見だった。

 息が一瞬、逆流する。

 「なぜ、ここに」

 「非常灯が点かないから、確認に」

 彼女は正面を見たまま言った。手は空。爪は短い。指の腹に粉が残る。

 稔が背後から低く囁く。「課長、扉の陰の圧力は“ない”。盤の右だけ、実重量が入ってます」

 「押したのは?」

 「数字は示さない。でも、“押したという音”は二箇所から出てる」

 湯川が無線で言う。「盤の右に0.4ニュートン相当。人差し指一本分だ。扉の陰は0.0。音だけ」

 リレー。

 「誰が、音を作った」

 稔は首を横に振る。私は高見の手を見る。「その粉は、扉の縁だな」

 「はい。……課長、私は押していません」

 「知っている」

 自分の声が、思ったよりも柔らかかった。彼女は肩を落とし、涙を堪えた。

 「でも、私、物置の電話に触りました。短く通電して……呼び出し音を。誰かを呼ぶために。言われたとおりに」

 「誰に」

 「分かりません。内線です。……“Anotherの確認”とだけ」

 彼女は震えていた。操られている。私は稔を見る。彼は頷いた。「舞台監督が、袖に“確認の合図”を出す。演者は触るだけ。……舞台は二重です」


 ロビーに戻ると、スクリーンの文字は消え、拍手が起き始めていた。拍手は、恐怖の終わりではなく、恐怖の延期だ。人は拍手をすることで、出来事を“終わらせた”と思いたがる。

 私は拍手が終わる前に、川嶋を探した。見つからない。完璧な人間は、必要な瞬間に姿を消すことがある。

 湯川が紙片を持ってきた。黒の裏に、極薄の刻印。光に斜めにかざすと、線が浮く。

 ――Another:human confirm

 「人が、確認する」

 「機械だけでは完了しない。二人だ。片方は舞台監督、片方は押し手。……あるいは、押し手に見せられた手」

 私は唇を噛んだ。疑う先が、また増える。

 「課長」

 尚美が駆け寄ってきた。息を整え、笑顔を作る。その笑顔は0.6秒で出た。昨日より早い。

 「お客様は落ち着かれました。……ところで、さきほど、私に“黒い紙”を手渡した方がいます」

 「誰に」

「副支配人です。“持っていてください”と」

 胸の奥で、何かが小さく折れた。

 「どこで」

 「エレベーターホール。……“すぐ戻る”と」

 戻っていない。

 私は館内放送の権限を要請し、静かな声でスタッフに告げた。「副支配人の所在確認。――表向きの呼び出しはしない。奥から探せ」


 十分後、倉庫の裏で川嶋が見つかった。逃げてはいない。壁にもたれて、静かに立っている。

 「浩介君。君は私をどう見ている」

 「ホテルを守る人だと思っている」

 「ありがとう。――私は舞台監督でありたかった。完璧な舞台を、何度でも繰り返す監督に」

 「“Another 19:07”は、あなたの言葉ですか」

 「言葉は、いつだって誰かのものだ」

 答えになっていない。

 「黒い紙を、誰に渡した」

 「山岸さんに。……安心のためだ」

 「安心は紙では作れない」

 「演出で作る」

 彼の微笑は、少し疲れていた。

 「あなたは押していないな」

 「押していない」

 「なら、誰が押した」

 「彼らの“信頼”が押した」

 私は川嶋を見つめ、目を逸らさなかった。彼の言葉は、嘘とも真実ともつかない。だが、舞台の裏を知る者の言葉だ。


 夜が深くなる。空調の音が半段落ち、床の光が柔らかくなった。私は保安課に戻り、椅子に座った。

 机の上に、白が一枚、黒が一枚、並んでいる。

 白は余白。黒は決めつけ。犯人は、両方を扱う。

 そこへ、内線の呼び出し。短いノイズのあと、声が落ちた。

 ――「信じたい相手を、間違えないでください」

 声は加工されている。性別は分からない。だが、呼吸の長さが、尚美に似ていた。

 「誰だ」

 返答はない。通話が切れる。PBXのログは、また空白を示す。

 稔がドアを開けた。「舞台は、客席が完成させます。課長、あなたは“客席側”で真実を作れる人です」

 「違う。――俺は、客席を守る人間だ」

 「守るために、あなたは選ばなければならない。誰を信じるか」

 湯川が入ってくる。「数字は、二人を示す。だが、どちらも“決められない”。――決めるのは、君だ」

 私は白と黒を見た。

 信じるのは、証拠ではない。信じたいという願いでもない。信じるという選択だ。

 私は内線を取り、短く指示を出した。

 「E-3の扉の陰、そして盤の右。両方に“人間でしか押せない”仕掛けを」

 稔が目を細める。「握力を要するラッチ?」

 「それと、押した指の腹に付く染料。落ちにくい、だが目立たない色で」

 「舞台の小道具室に、心当たりがあります」

 湯川が頷く。「染料は光で拾える。――よし」

 私は尚美に内線した。「今夜、もう一度だけ頼みがある。客の前で、笑ってくれ。0.6秒じゃなく、0.4秒で」

 「できます」

 返事は迷いがなかった。


 最終の巡回。私はE-3の前に立ち、扉の縁に新しい粉が付着するのを待った。

 暗転が来る。

 一、二、三。

 戻る。

 無線が鳴る。「盤の右、押圧。染料付与。扉の陰、音のみ」

 私は走った。廊下を曲がった先、手の甲に薄い色を残した影が一人、立ち尽くしている。

 「動くな」

 影はゆっくりと手を上げ、光のほうへ差し出した。

 色は、思ったよりも淡い。だが、確かにある。

 顔が上がる。

 私は、息を呑む代わりに、息を吸った。

 吸えば、言葉になる。

 「なぜだ」

 影――その人は、泣きそうな笑顔で言った。

 「課長に、信じてほしかったからです」


 答えになっていない。だが今は、それで十分だった。

 信じるか、信じないか。

 私は選ぶ。

 選ぶ前に、もう一度だけ、暗闇の長さを数える。

 今度の暗闇は、長くならない。こちらが、長くしない。


 ロビーに戻ると、尚美の笑顔が0.4秒で出た。客の足が止まり、空気が少し温かいほうへ流れる。湯川は数字を整え、稔は袖の糸を引いた。

 白は、まだ私の机の上に残っている。黒も。

 私は白を胸ポケットに、黒を引き出しへ。

 信じるという選択は、誰のものでもない。

 ――今夜は、私のものだ。


(第7話 了)

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