第5話「舞台を奪い返す」
暗闇は七つ数えても終わらなかった。
会場の空気は、突然方向を失い、同じ場所に立っているはずの人々が、別々の方向に倒れそうになる。自分の足だけは床を離さぬように、と誰もが無意識に踝へ力を込めた。音は出ないが、音の手前で震える気配が、テーブルクロスの繊維を這いまわる。奇術師の舞台でさえ、明かり落ちは三秒が相場だ。三秒で観客を揺らし、四秒で不安が芽を出し、五秒を越えれば恐怖が根を張る。七秒は、観客が「舞台側の都合」を忘れ、己の身を守るために反射で動き出す寸前の溝である。
暗闇の底で、私は息の長さを変えた。胸の空気を半分だけ残し、そこに指を一本立てるようにして、数を止める。暗闇は、人の内側に潜ると柔らかくなる。柔らかさが戻る前に、光は戻った。
拍手は起きなかった。誰もが拍手の役割を思い出せなかったからだ。代わりに、白と黒がテーブルに散っていた。白は□、黒は■。紙の大きさは同じ、縁の角の丸めも同じ――ただし、黒は素材そのものが黒い。印刷の黒ではない。指先にインクの匂いが残らない。光を吸う黒は、舞台の闇と同質だ。
私の掌にも一枚、白い□が載っていた。いつの間に? 袖口に指を入れると、そこにも一枚、黒い■が忍ばされている。よくできている。無音で、観客の手に小道具を仕込む作業は、袖の暗黙知だ。やったことのある手の、温度がある。私は黒を袖に戻し、白の角だけを爪でわずかに折る。目印は、観客の側にも置くべきだ。
新田浩介は、会場中央で反射的に客の導線を塞いだ。塞ぎ方が上手い。怒らせず、歩かせず、待たせる。待つ人間は、何かに期待している。期待が残っているうちは、舞台に戻れる。
湯川学は、照明の復帰時刻を口の中で反芻していた。目は天井に向きながら、指はポケットの中で何かの数を刻む。科学者は、暗闇の中で数字を見る。私は、暗闇の中で人の息を見る。同じ舞台を、別の方法で照らしている。
私は白と黒のうち、白を十枚、黒を三枚だけ拾って歩いた。拾う姿は見せる。見せると、拾う人が増える。拾うと、人は紙の意味を考え始める。紙の意味は、舞台の意味よりも速く観客の手に渡る。これは、犯人の狙いでもある。だから私は、その流れにほんの少しだけ逆らう必要があった。
「お手伝いします」
山岸尚美が紙袋を持って寄ってきた。笑顔の温度は下げてある。下げた笑顔は、冷やしたスープに似る。香りは立たないが、喉を通る。
「ありがとうございます。白はそのまま、黒は別の袋に」
「分ける理由は?」
「あなたが分けるから、です」
尚美は一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。意味を問う人は、意味を運ぶ人に向いている。私は白を二枚、彼女の紙袋にわざと落とし、足元の一枚を拾わずに残した。拾わない紙は、拾った紙より強い時がある。そこに「見逃した」という物語が生まれるからだ。
控室に引き上げると、従業員が何人か集まって、紙コップを手に震えを飲んでいた。高見の指には新しい絆創膏。片桐奈津子は、例の古いスマートフォンを胸の前で抱きしめている。
「五分だけ、実験を」
私が言うと、全員の視線が一斉に逃げ道を探した。逃げ道は、優しさの形で現れる。「自分以外の誰かが前に出るべき」と、心が丁寧に譲り合う。
「白を三枚。黒を一枚。順番に、どれか一枚を持ってください。私には見えないように」
背を向け、耳だけを前に送る。紙の擦れ、呼吸の深さ、紙コップの底を指が叩く回数――選ぶ人の緊張は、選ばない人の緊張より静かだ。沈黙の密度で分かる。
「持ちました」
「ありがとうございます。では、私が言う言葉を、そのまま心で繰り返してください」
私はゆっくりと、ひとつひとつの音を切り離す。
「この 中 に 犯 人 の 手 が あ る」
その瞬間、片桐の肩が、目に見えない幅で固まった。尚美は笑顔を作りすぎ、頬の筋肉がわずかに攣る。高見は袖を強く握った。川嶋――ここにはいない。副支配人はこういう場にいないことが多い。いないことで、存在感を保つ役割だ。
「持っている紙は、誰にも見せないでください。でも、胸ポケットに入れておいてください。持っている自分を、忘れないために」
私は背を向けたまま言い、扉に手をかけた。
「稔さん、結論は?」と尚美。
「結論は、舞台の上で出します」
扉の外に、見えない客席の気配が広がっている。舞台の空気は、袖の隙間からでも分かる。今、観客は「誰が犯人であってほしいか」を探している。犯人を探す前に、自分の願いを探す。願いが見つかると、人はそれを世界だと思う。
E-3通路に降りる。蛍光灯は安定しているが、空気の比重は少し重い。湿度ではなく、目に見えないものの密度が上がっている。扉の縁には、コインの擦り傷が幾筋も重なり、金属臭は弱い。今夜は、あまり押していないのかもしれない。押す人間が増えたとき、押し方は似てくる。似てくると、癖の違いが逆に目立つ。
床に白が一枚、わざとらしく落ちている。拾わない。白は、落ちているときに力を持つ。黒は、握られたときに力を持つ。
角を曲がると、制御盤の陰に影が動いた。私は足を止めず、ポケットの中のカードを指の背にのせ、ぼんやりと進む人間のふりをした。影は止まらない。止まらないのは、見られない自信があるからだ。
「いい仕事ですね」
私が声にしてしまってから、自分でも驚いた。声は、出すつもりがなかった。だが、影は振り向かない。こちらの存在は、台本にないのだろう。台本にないものは、舞台では存在しないとみなされる。
控室に戻ると、燕尾服がハンガーで眠っていた。衣装に触れる前に、手を洗う。手を洗わない演者は、手品を正しく扱えない。袖に黒が一枚、いつの間にか忍ばされている。仕込みがきれいだ。縫い目に触れず、布の厚みの向こうに薄さを滑らせる感触。
「私を、演者にしたいのか」
独り言は、鏡に向かって言うと音が跳ねて返る。鏡の向こうの男は、頬の筋肉をわざと緩めた。笑顔は、こちらから作ってやらないと、相手のものになってしまう。
黒を机の引き出しに移し、鍵をかける。鍵など意味はないが、意味がないことをするのが、今日の私の仕事だ。
ロビーに降りると、新田と湯川が低い声で情報を交換していた。新田は紙の地図を広げ、ペンで矢印を描く。湯川は矢印の間に数字を書き入れる。二人のやり方には交わる点が少ない。ただ、二人とも「三秒」を身体に刻んでいるのが分かる。
「長かったな、先ほどは」
私が割り込むと、新田が頷いた。「七秒以上。非常灯も入らない。誰かがもう一段階、黒を足した」
「観客は“自分で動け”と解釈し始める」
「動かせないのがホテルの仕事だ」
「動かさないために、動かすふりをさせるのが私の仕事です」
新田は一瞬だけ黙り、薄く笑った。「それ、気に入らないが、今は助かる」
湯川が私の袖を見た。「黒が入っているね」
「入れられた。袖の中に、舞台監督のメモが」
「君が演者にされる」
「なら、舞台を奪い返すだけです」
湯川は口の端を上げ、目は笑わなかった。「演者が舞台を奪うと、劇は変質するよ」
「それでも、客が拍手すれば成立します」
湯川は頷き、新田は地図を畳んだ。「拍手を待っていられない時もある。……稔、君の“ふり”で、客を三十秒止められるか?」
「三十秒?」
「その間に裏で開ける扉がある」
「止めるだけなら。信じさせるのは、あなたがやる」
新田は短く「任せろ」と言い切った。こういう言い方ができるのは、舞台の中央に立てる人間だけだ。
私はバンケットの入り口に立ち、声を少し高く、軽くした。
「皆様、ほんの少し不思議なことを体験していただけますか。こちらの白い紙、どうか一枚だけ、お取りください。何も書いてありません。何も書いていないからこそ、あなたの“今”が映ります」
人は、無料の体験に弱い。しかも短い体験なら、さらに弱い。私は白を配りながら、視線の流れを測り、会場中央の時計の上に目に見えない糸を渡した。糸のもう一端は、私の指に巻きつける。糸は実在しないが、観客が見上げるたび、そこに何かが揺れる。揺れるものがあれば、人は立ち止まる。
「では、その白に、何かを書こうと“しないで”ください。書こうとすれば、誰かの言葉が入ってきます。書かないと、あなた自身の呼吸が入ってきます」
自分でも、少し、言いすぎだと思う。だが言葉は、舞台の上では光と同じだ。置けば、何かを照らす。照らされると、人は止まる。
観客の足が止まり、新田の視線がわずかに横に流れる。流れた先の扉が、内側から静かに開いた。私は糸をさらに指に巻き、白を空中でひらひらさせる。
「白は、あなたを責めません。黒は、あなたを決めます。どちらも、あなたの中にあります」
うまくいった。三十秒は稼げた。裏で何が起きているかは、知らないほうがいいときがある。客席の役割に徹する。観客の拍手は、舞台にしか届かない。
控室に戻る途中、片桐が廊下の角で立ち尽くしていた。胸ポケットを押さえる仕草。白を持っているのだ。
「書いてはいけませんよ」
「書いてません」
「書かないと、何かが入ってくるでしょう」
「入ってきました」
「何が」
「“私のせいにしなさい”っていう声です」
立ち止まる。舞台で、こういう台詞を素で言える人は少ない。
「誰の声?」
「知りません。知っているのかもしれません」
「それを、明日話してもらえますか」
「明日、があれば」
私は笑ってみせた。
「明日がない舞台は、ありません。終われば、また幕が開きます。開けるのは、こちらです」
夜が深くなると、ロビーの香りがさらに薄くなった。香りは、嘘よりも先に人を安心させる。香りが消えると、人は自分の匂いを探す。自分の匂いは、罪悪感を連れてくる。
私は自販機で水を買い、キャップを回す音をわざと大きくした。誰かが、その音に反応する。音は、隠れている人を舞台に上げる。
「喉、乾きました?」
背後から、柔らかい声。川嶋だった。
「喉はいつも乾いています。舞台に立つ前は特に」
「舞台に立っているのは、あなたではないかもしれない」
「舞台は、立っている人が決めるものです」
川嶋の笑顔は、完璧を少しだけ崩した。「演出は、裏で決まる」
「観客が拍手するのは、表です」
「拍手は、時に恐怖の裏返しですよ」
「それでも、拍手は拍手です」
私たちは同じ音を聞きながら、別の意味を話している。彼の靴先の補修は、今日も目立たない。手の甲はよく洗われて乾いている。テープを貼り替える手は、乾いていたほうが仕事が早い。
控室の机に戻ると、引き出しの鍵が開いていた。鍵は机の上に置かれ、黒が二枚になっている。やられた。仕込みは、気づかないときに完了している。
――演者にしたい。
その意図だけは、鮮明だ。観客席から袖へ、袖から舞台へ。観客全員を演者にしてしまえば、犯人はどこにでもいられて、どこにもいない。
なら、やることは一つ。
私は黒を一枚、燕尾服の内ポケットに、もう一枚を袖の中に仕込み直した。仕込みの場所は、演目の序盤で抜く場所と、中盤で落とす場所。犯人が台本を持っているなら、こちらは上演時間を変える。時間がずれれば、同じ手順でも意味が変わる。
鏡に向かい、口角の角度を二度だけ上げる。二度上げると、驚きに見える。三度上げると、作り笑いに見える。舞台で許されるのは二度までだ。私は二度に止める。
「さて」
鏡の向こうの自分に言い、控室の灯りを落とした。
次の暗転は、予告なしで来た。だが七秒は続かない。五秒で戻る。戻った瞬間、私は袖から黒を抜いて、観客の目の前で握り拳に重ねた。
「これは、決めつけです」
黒を開く。
「これは、決断です」
白を開く。
「どちらも、あなたの中にある。どちらか一方を選ばされる前に、選ぼうと“しない”ことを選ぶことはできます」
客席が、少しだけ息を吐いた。息の温度は、時間を戻す。戻った時間に、新田が滑り込む。湯川が横から光を当てる。川嶋は、遠くから人の波を整える。
犯人は、舞台を長くしたがっている。長い舞台は、観客が疲れる。疲れた観客は、意味を他人に預ける。だから、私は短く切る。切って、余白を残す。余白は、こちらのものだ。
閉幕のあと、私の袖からもう一枚、黒が出てきた。先ほど仕込んだ二枚とは別の、角の丸みが微妙に違う黒。
――E-3/A/19:07/■
印字はない。だが、黒の裏に薄く刻印の跡。「Another」。爪でなぞると、指先にかすかな段差。
「もう一つの黒、というわけか」
独り言は、鏡のない場所で言うほうがいい。反射がないほうが、言葉が軽い。
私は黒を胸ポケットにしまい、控室の扉を開けた。廊下の先に、人影がひとつ立っている。光の端で、顔は見えない。
「次の幕は、私が演出する」
相手に聞かせるためではなく、自分に伝えるために言った。言葉は、最初に自分に効く。
影は動かなかった。動かないのは、こちらの言葉に台本がないからだ。台本にない言葉は、犯人にとって、最も扱いづらい小道具である。
私は一歩踏み出し、影とすれ違うふりをして、反対側に曲がった。舞台で正面からぶつかるのは、最終幕の前に一度だけでいい。今は、視線の端で追い詰める。客席の呼吸をこちらに寄せながら、袖の物語を、舞台の中央に引きずり出す準備をする。
舞台は、奪われたら奪い返せばいい。
拍手は、こちらが用意する。
暗闇は、こちらが数える。
そして“Another 19:07”の意味は、こちらが決める。
私はロビーへ戻り、白の束をもう一度両手で広げて見せた。
「今夜の白は、あなたのものです。書かなくていい。捨てなくていい。持っていてください。明日、ここに戻ってきたとき、あなたの白が“何も起こらなかった”という証拠になります」
客席――いや、宿泊客の目に、わずかな安堵が走る。証拠という言葉は、科学の側から来るのではないとき、それでも人の心を支える。湯川が遠くで、わずかに頷いた。新田は目を閉じ、次の導線を頭の中で描いている。
川嶋は、完璧な笑顔で「おやすみなさいませ」と言った。完璧は、長くは続かない。だからこそ、今は強い。彼の完璧が崩れる場所を、私は知りたい。完璧の中にある余白を、今度は私が見つけたい。
自分の袖の中で、黒が浅く鳴った気がした。鳴るはずはない。ただ、鳴るふりを私の指がしたのだ。
舞台監督の座は、もうもらう。
誰が見ていようと、見ていまいと、次の暗転の合図は、私が決める。
(第5話 了)
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