第4話「黒い記号」
朝の光は、大理石の床に均一な艶を与えるはずだった。だが今朝のロビーには、艶の下に薄い曇りが見えた。夜のあいだに撒き散らされた白紙の余白は、拾い集められ、焼却され、記録され、忘れられたふりをしている。ふりであることを、従業員は全員知っていた。いつもと同じ笑顔を浮かべるほど、目の奥の疲労は深くなる。
新田浩介は、正面玄関の自動扉の近くで立ち止まり、空調の吹き出し口の音を数えた。一定のリズム。三秒の暗転を思い出すと、どんな音でも数えたくなる。ホテルは規則でできている。規則が崩れるとき、最初に変わるのは人間の呼吸だ。
山岸尚美が、ベビーカーの家族をエレベーターへ案内していた。言葉は滑らかで、手のひらは柔らかい。笑顔は完璧――のはずが、今日は一瞬だけ、目元が凍る。半拍の遅れが、ほころびに変わる瞬間を、新田は見逃さない。
「おはようございます」
「おはよう。昨夜の件で何か言われたか」
「“紙を見た”というお客様が数名。『悪戯ですよね』と笑ってくださる方もいましたが」
「笑っている間は、まだ大丈夫だ」
「笑っていられるように、こちらが先に笑うんです」
尚美はそう言って、意識して笑った。意識の笑いは、持続時間が短い。無意識の笑いは、滞在を延ばす。ホテルの笑顔は、科学と同じくらい経験則でできている。
社員食堂に寄る。味噌汁の湯気は、いつもより弱い。栄養士が「塩分控えめ週間なんです」と言い訳をした。控室へ戻る途中、廊下の掲示板に貼り出された「白紙持ち出し厳禁」の紙が目に入る。掲示板の四隅の画鋲は、色が揃っていない。赤、青、白、白。揃えたいが、今日の優先度ではない。揃わない四隅が、いまのホテルの心拍に見える。
保安課の扉を開けると、片桐奈津子が机に両肘をついていた。古いスマートフォンを両手で包み、画面は暗い。
「片桐」
彼女は肩をすくめるように立ち上がった。
「昨日、E-3で“見た”と言ったな。誰だった」
沈黙。沈黙は、ノイズより大きい。
「……すみません。言えません」
「言えないのか、言いたくないのか」
「両方です」
新田は、メモ用紙を一枚ちぎって差し出した。
「ここに書け。名前でなくていい。靴、手、匂い、癖。思い出せる輪郭だけでも」
片桐はペンを持ち、白の上を数ミリ動かし、止めた。次の瞬間、紙はしわになって彼女の手の中で消えた。
「……書いたら、戻れない気がして」
「戻らないほうがいいこともある」
言いながら、彼女がどこに戻ろうとしているか、新田にはまだ見えなかった。
ハウスキーピングの高見が、在庫表と格闘していた。手には新しい絆創膏が増え、指の動きは速い。
「また傷か」
「配管で、ちょっと」
視線は合わせない。声の高さは平常。呼吸は半拍速い。
「設備室への入退室ログが残っている」
「点検を頼まれたんです。誰に、は……」
「言えないのか」
「今は」
今は、が未来形であることを、この仕事は何度も教えてくれた。
「手の消毒を一回減らせ。脂がなさすぎて、物を落とす」
「はい」
彼女は素直に答え、だが返事の最後は小さく溶けた。嘘をつく人間より、嘘を抱える人間のほうが、声は小さい。
十時。副支配人の川嶋が、完璧な結び目のネクタイで現れた。
「課長。サミット関係者の到着が前倒しになりました。警備は予定どおり、表では見せず、裏で万全に。安心を第一に」
「安心が崩れかけている」
「安心は演出です。崩れたら、また演出すればいい。舞台と同じです」
「演出が過ぎれば、仮面だと見抜かれる」
「見抜かれるまでの時間が、大切なんです」
川嶋は、一拍だけ視線を落とし、ふと笑う。笑いは短い。彼の笑いの短さは、毎日磨かれて短くなった種類のものだ。
「昨夜、ロビーでお年寄りに紅茶を渡していましたね」
「覚えておられましたか」
「完璧な動きだった。完璧な動きは、完璧に覚えられる。犯人も、完璧を目指しているのかもしれない」
「完璧は退屈です」
「退屈を好む客は、少なくない」
二人の会話は、どこかで噛み合いながら、どこかでかすれた。噛み合いと擦れの比率は、危険の指標になる。
昼過ぎ、湯川学がやって来た。薄いノートと小型ロガーを持ち、数字の列を紙の上で並べ替える。
「三秒の暗転は、人為的。ログは“十九時七分”に固定されるよう仕組まれていた。基板は既製品の組み合わせで、犯人は電気を仕事にしているわけではない。それでも、道具の扱いは丁寧だった」
「犯人は誰だ」
「証明はできるが、指名はできない。科学の限界だ」
「科学の限界は、ホテルの限界でもある」
湯川はわずかに眉を動かした。「もう一つ。紙片の『A』は、AllでもAnonymousでもなく、Anotherかもしれない。もう一つの時刻、もう一つの選択、もう一つの舞台。それを示唆する痕跡が、設備室に残っていた」
「もう一つの舞台」
「ホテルが表舞台なら、E-3は裏舞台だ。犯人は、両方に同じ脚本を上演しようとしている」
稔は、燕尾服ではなくシャツ姿で現れた。袖を肘までまくり、カードを五枚だけ持っている。
「観客は、余白に意味を入れる生き物です。白紙が怖いのは、そこに自分の顔が浮かぶから。犯人は、観客の顔を使って舞台を完成させている」
「遊びだと言ったな」
「遊びですよ。だからこそ残酷になれる。ほら」
稔は白いカードを一枚、こちらに向けて立てた。
「表か裏か、当ててください」
「表」
「裏でした」
「……当てにならない」
「当てにならないと思った瞬間、人は信じたくなる。人の心は、科学よりも正確に揺れる」
湯川がわずかに笑い、新田はその笑いを見なかったことにした。
午後のロビー。スーツケースのローラー音が床に細い線を引き、案内板の矢印が客の群れを滑らかに分ける。新田は警備の配置を一歩ずつ見直した。目立たせない増員。カメラの死角の手直し。スタッフに無線ではなく、紙の合図。紙は切り替えの速度では劣るが、記録として残りやすい。犯人が紙に固執するのは、紙が人の手触りを通して意味を増幅するからだ。
「課長、VIPの一行が到着しました」
尚美の声は安定している。安定の下に、微かな緊張が流れる。
「受け入れは通常どおり。ただ、案内の途中でE-3の前は通らないように」
「承知しました」
少し遅れて、高見が駆け寄ってきた。息は上がっていない。
「さっき、E-3の扉の縁で小さな擦り傷を見つけました。コインで擦ったような痕」
「数は」
「指先で数えられるくらい。古いのも新しいのも混じってます」
「その情報は、今はここだけに」
高見は頷き、手の絆創膏を気にする様子を隠した。隠し方には、慣れがいる。慣れているのは、いいことではない。
サミット準備会の会場は、人の熱で僅かに温度が上がっていた。天井のシャンデリアは光の粒を撒き、白いクロスの上のガラスは音を立てない。ステージ脇の非常灯は、今は正しく緑に光っている。
新田は、会場の隅に立って全体を見る。視線は、右上、正面、左下の順に回す。目の動きで、頭の速度を一定に保つ。背後で稔が小さく「三、二、一」と数えた気がした。気のせいかもしれない。気のせいは、予告の一種だ。
暗転は、予告なしに来た。
光が抜け、音が立ち上がる。息を呑む気配は、音にならない音だ。三秒。戻る。
戻ると同時に、テーブルの中央に白い紙が滑り込んでいる。滑り込む――この動詞は、誰かの手が今しがた動いたことを意味する。
新田は歩幅を変えずに紙を取った。指先に、黒の感触。インクの匂いはない。黒は印刷ではなく、コーティングに見える。
印字は一行。
E-3/A/19:07/■
□が、塗りつぶされている。余白は、ない。
新田は、紙の裏を見、光に透かした。透けない。紙ではなく、薄い合成繊維だ。破れないための素材。簡単にはちぎれない。
「……余白を、奪った」
声は自分のものに聞こえなかった。
周囲では、ざわめきが膨らみ、すぐにしぼむ。スタッフが動き、客は視線を宙に置き、尚美は笑顔を戻す。笑顔は戻るが、余白は戻らない。余白は、選択の場だ。信じるか疑うか、待つか走るか、話すか黙るか。犯人は、その場を黒く塗った。
稔が近くに来て、小声で言う。「幕が変わりましたね」
「観客は、どうする」
「拍手するか、帰るか」
「帰らせない」
「なら、見せ続けるしかない。こちらの幕を」
会場の出口で川嶋が、相変わらず完璧な笑顔を湛え、客を見送っている。完璧な笑顔は、完璧な壁になる。彼の壁は、厚い。
新田は黒い四角を胸ポケットにしまい、保安課へ戻った。黒は軽く、存在だけが重い。机に置くと、紙は音を立てない。その無音に、内線のベルが割って入った。外部回線への転送。受話器を取ると、ノイズの向こうで誰かが囁いた。
――「Another 19:07」
声は機械のようでもあり、人のようでもあった。性別を計るには、短すぎる。
「どこから掛けている」
応答はない。通話は切れた。PBXの記録を遡る。内線の特定はできる。だが、発信元は移動中の小部屋だった。従業員用の電話が持ち出され、短時間だけ接続され、また切断されている。持ち出しは規則違反だが、規則の網目は完全ではない。
E-3の前は、すでに設備担当が養生テープで封鎖していた。新田はテープに触れ、指腹に残る灰色の細い繊維を取る。朝、高見が報告した類のもの。扉の縁には、コインの薄い傷が幾筋も重なっている。手袋で押すと滑るから、硬貨で押す。押す人間は、毎回少しだけ力加減を変える。傷の深さが、それを教えてくれる。
暗転は、本来、偶然では起きない。意図が繰り返し押されるときに起きる。押す人間は、一人か、二人か。新田は、そういう問いに、まず「一人である」と仮定する癖を持っている。複数犯を想定すると、責任が分散し、捜査の足が遅くなるからだ。だが、今回の紙片は、複数の手が同じ癖を真似ているようにも見えた。
事務室に戻ると、湯川が記録を整理していた。
「『■』を見た」
「見た。余白の消去だ」
「電話で“Another 19:07”が来た。発信元は移動」
「もう一つの時刻を、もう一つの場所で、もう一人が押す――それが“Another”の意味だとしたら、舞台は二重化されている。表と裏、客席と袖、ホテルと通路。『同じ瞬間に二つの真実』が成立するように」
「真実は、二つあっても構わないのか」
「観測者が二人なら、観測値は二つでも不思議ではない」
科学者の言い方だ。新田は、科学の語彙で人が救われたところを何度も見てきた。だが、救えなかったところも同じ回数見ている。
「犯人の目的は、“信じさせない”ことだ」
「それは、科学の敵ではない」
湯川は否定しなかった。科学は、信じる前提を嫌う。それでも、人は何かを信じなければ眠れない。
夕方、一通の投書が届いた。宛名は新田、差出人不明。中には、きれいに折られたコピー用紙。広げると、四隅にだけインクが滲んでいる。中央は白いまま。端に、小さな活字。
――裏切り者は客です。
――信じたい相手を間違えないでください。
既視感は、警報のひとつだ。投書が届くタイミングは、会場の暗転から逆算してちょうど一時間後。暗転の後処理が終わる頃合い。
尚美が、温かいお茶を紙コップで差し出した。
「課長、少しだけ座ってください」
「すまない」
「座ったという記憶が、心を落ち着かせますから」
「笑顔と同じだな」
「笑顔は、座るより難しいです」
尚美の声は冗談めいていたが、目は冗談ではなかった。
「君は、誰を信じたい」
「お客様です。信じたいから、この仕事をしています」
「信じたい相手を間違えないで、と誰かは言った」
「それでも、信じます。間違えるのは、私の責任であって、相手の責任ではないから」
尚美は穏やかに笑い、すぐに仕事へ戻った。笑顔は、余白を用意する。相手が息をする場所を確保する。犯人は、その場所を塗りつぶした。
夜。廊下の照度が一段落ち、床磨きの機械の音が低く響く。新田は、E-3の並行するサービス通路に足を向けた。扉の小窓越しに、中の影を見る。誰もいない。扉の縁の粉を指で集め、封筒に入れる。封筒の内側に繊維が貼り付き、濃淡を作る。濃淡は、人の手の濃淡だ。
背後から靴音。柔らかいゴム底。足音は一度止まり、また一歩近づく。
「課長」
片桐の声だ。
「さっき、電話の音を聞きました。小さな部屋から。掃除用具の物置の中に、古い受話器が」
「見せてくれ」
二人で物置に入ると、壁に古い電話機の跡があり、コードが切られて床に垂れている。コードの断面は新しい。誰かが短時間だけ繋ぎ、切った。床にコインの粉が落ち、光に鈍く反射する。
「誰かを、かばっていないか」
片桐は首を振り、目を閉じた。
「かばう、という言葉を使うと、誰かが犯人になります。私は、誰かを選びたくない」
「選ばなければ、選ばれない。選ばれなければ、余白に流される」
「流されるほうが、楽な人もいます」
彼女の言い方は、責めていなかった。現実の観測に近い。
「明日の朝、もう一度、見取り図を一緒に見る。君が通った導線を、全部なぞる」
「はい」
返事は細いが、届いた。細いものは、しばしば強い。
保安課に戻ると、机上に黒い四角がもう一枚置いてあった。誰が置いたのか、見張りの記録にはない。紙は、音もなく増える。
黒の表面を指で軽く撫でる。指に黒は移らない。塗料ではない。素材そのものが黒い。誰かがわざわざ調達し、同じサイズに裁ち、同じ角を作っている。角の丸みが、三枚とも微妙に違う。角を丸める力加減の差は、手の癖だ。
「誰か」を、角で見分ける。ホテルの捜査は、そういう細部から始まる。
深夜、館内放送の音量が半段落ち、夜の気配がホテルを一枚覆う。窓の外の都市は、音で呼吸している。新田は、窓に映る自分の輪郭を見た。顔色はよくない。だが、まだ戦える。
内線が震えた。設備から。「暗転の制御盤の近くで、また白が散っています」。
現場へ駆ける。扉の向こうに、白が降っている。白い雪ではなく、白い紙。□は、そこら中に浮いている。黒はまだ混じっていない。犯人は、余白を増やし、すぐ後で塗りつぶすと決めているのだろう。
新田は一枚一枚を踏まないように歩き、制御盤の前に立つ。盤の陰に、また小さな紙。活字はない。ペン跡もない。ただの白。
「あんたの余白は、誰のためだ」
言って、我ながら変な質問だと思った。ホテルは、誰かのための余白を用意する場所だ。犯人は、その余白を利用している。
背後で、稔が無言で紙を拾い上げ、袖に滑らせた。
「舞台の掃除は、演者の仕事です」
「犯人の仕事でもある」
「ええ。だから、だんだん筋が良くなる」
稔は笑い、笑いの影で目を細めた。笑いは練習でうまくなる。目の細め方は、練習ではうまくならない。そこに素の感情が出る。
明け方、短い仮眠から覚めると、外が雨になっていた。ガラスに水の筋。ロビーの香りは少し重くなる。尚美が香りの濃度を下げ、代わりにコーヒーの抽出時間をわずかに延ばした。香りの配合で、客の滞在時間は数分変わる。数分は、犯人にとっても、こちらにとっても貴重だ。
川嶋が、いつもと変わらない足取りで現れた。爪先の補修は、昨夜より目立たない。
「黒の四角が、また出ました」
「ええ。余白の終わりの宣言でしょう」
「宣言は、まだ宣言でしかない」
「宣言は、事実になる前に効きます」
「あなたは、宣言が好きだ」
「宣言しなければ、人は動きません」
川嶋の言い方には、あたかも客の動線と同じくらい、従業員の心の動線を知っている自負があった。自負は、積み重ねがないと身につかない。積み重ねは、時に重さになる。
新田は胸ポケットの黒を指で押さえ、歩き出した。押しても、黒は沈まない。沈まないものに、こちらが沈むわけにはいかない。
「信じたい相手を、間違えない」
自分にだけ聞こえる声で呟く。呟きは、決意の前段階だ。決意は、余白の中央に書くものだ。犯人がどれほど黒を増やしても、その中央だけは、こちらが押さえる。
エレベーターホールの奥で、バルーンを手にした子どもが、母親の手を引いていた。昨日の約束を覚えているのだろう。君のバルーンは、明日まで割らない。約束は、余白の一種だ。
ホテルは、余白の数で強くなる。犯人は、それを知っている。ならばこちらは、犯人が知らない余白を、もう一つ増やせばいい。ホテルには、まだ増やせる場所がいくつもある。
新田は、そう思った。思っただけでは、まだ何も変わらない。だが、思わなければ、何も始まらない。
夜がもう一度来るまでの短い昼のあいだに、やるべきことは山ほどあった。各部署の導線の再確認、外部との情報の擦り合わせ、E-3周辺の臨時施錠、非常灯の回路の仮補助、PBXの発信制限、スタッフへの呼吸の訓練。呼吸は、笑顔より早く整う。整った呼吸は、三秒の暗転をやり過ごす。
そして夜。
暗転は、いつも通りの三秒で来なかった。
光が抜け、五つ、六つ、七つ、と数えても戻らない。非常灯の緑は、点かない。誰かが、もう一段階、黒を足した。
新田は走り出した。走り出す前に、心の中で一度だけ、白い中央に言葉を書いた。
――信じる。
その一行は、黒に消されない。そう決めたのは、犯人ではなく、こちらだ。
(第4話 了)
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