第1話「仮面の下に流れるもの」

 ホテル・コルテシア東京の朝は、計算された静けさから始まる。ガラスの自動扉が開閉するたび、ロビーの空調は外気の温度差を正確に埋め、アロマは一時間ごとに濃度を変える。照明は十五分単位で色温度を調整し、従業員の足音は靴底の素材で吸われる。安心は、手間の総和だ。

 新田浩介は、その安心の継ぎ目を探す職業についている。元刑事、今はホテルの保安課長。昨夜、スイートで見つかったブラウン投資家の冷えた手の感触と、シーツに挟まれていた紙片――「E-3/A/19:07/△」――が、まだ掌に残っている気がした。


 社員食堂の湯気は、朝の心を曇らせすぎない程度の温度で漂っていた。焼き鮭の皮を割り、味噌汁を一口すする。塩気はわずかに控えめ、胃にやさしい。

「課長、よく眠れました?」

 栄養士の女性が笑う。

「音の少ない夜でした」

「それは良かった……と言いたいところですが、昨夜は上の階が騒がしかったそうで」

「騒ぎは大きくしないのが、ここの作法です」

 軽口を返しながらも、頭の奥では紙片の四つの記号が順に点灯していた。E-3。従業員通路。A。誰か。All? 19:07。時刻。△。上向きの矢印。


 食堂を出ると、ハウスキーピングの朝礼に顔を出した。ベテランの高見が欠伸を噛み殺し、若いスタッフに配車を指示している。

「高見さん、倉庫まわりの漂白剤の使用量を昨日から落としてくれ」

「いつも通りですけど……」

「匂いが残っている。誰かが濃度を上げた」

「了解。誰が触ったかログを見ます」

 高見は相好を崩して頷いた。彼女の手の甲には小さな擦り傷があり、白い粉末が爪の間に残っている。漂白剤のものか、別のものか。新田は目でだけ記録した。


 ロビーでは、山岸尚美が小さな女の子と目線を合わせていた。バルーンを手渡し、母親の不安を笑顔で受け止める。笑顔はいつも完璧だ。だが、やはり今朝も半拍だけ遅れる。

「課長、メディアから問い合わせが続いています。『心臓発作』で統一とのことでよろしいですか」

「今はそれでいい。『ホテルの安全体制は万全』も加えてくれ」

「はい」

 尚美は控えめに会釈し、次の客へ歩きだした。笑顔の弧が、ほんの瞬間だけ割れた。夜の疲労か、それとも。


保安課に戻ると、新人の片桐奈津子が扉の前に立っていた。名札が少し曲がっている。


「課長。昨日のE-3通路のカメラ、やっぱりブラックアウトの時間が固定じゃなくて……」

「可変?」

「はい。十九時台に数分、二十一時台に数秒、今朝は五時三分にも。で、そこだけ音声のノイズが増えていて」

「音声も?」

「はい。『チリ』っていう、静電気みたいな」

 片桐の両手は制服のポケットの中でこわばり、古いスマートフォンの角が布越しに浮き出ている。

「報告書は紙で。システムは当面信用しすぎない」

「わかりました」

 彼女の返事には、昨夜の「信じてください」の震えがまだ残っていた。


 十時の全体会議。副支配人の川嶋が、いつもの完璧な結び目のネクタイで現れた。

「サミット前日の運営方針です。外部への発表は『急性心不全』で統一。ロビーの動線は通常どおり、臨時検問は目立たせない。安心は舞台装置です。舞台裏は舞台裏のままで結構」

 新田は手を挙げた。

「E-3通路の監視障害が出ています。設備点検の優先度を上げたい」

「通常のメンテナンス手順で十分でしょう」

「通常ではありません」

 視線が交わった。川嶋の黒目の奥に、微かな怒りと、微かな疲れが層のように重なっている。

「……課長のお考えに従います。ただし、客前では一切見せないように。私たちが売っているのは部屋ではなく、物語ですから」

 川嶋は配られた紅茶の箱を手に取り、手慣れた所作で一つを懐に戻した。昨晩、老婦人に手渡したのと同じ銘柄だ。ほんの一瞬、彼の横顔に柔らかい影が宿る。誰かを喜ばせたいと願った若い頃の影。だが、すぐに硬い輪郭がその上にかぶさった。


 昼前、厨房。

「温度は?」

「六十一度に安定」

 料理長の声に重なるように、低い声が答えた。

「六十一なら凝固しすぎる。五十九で二分保てば、肉汁の保持率は――」

 湯川学教授は、温度計の数字と肉の断面を往復しながら、穏やかに、しかし容赦なく厨房の科学を更新していく。

「教授、料理は科学だけではありません」

「もちろんだ。しかし『美味しい』という体験にも再現性はある。信頼とは反復可能性だ」

 湯川がこちらを見る。

「昨夜のボトル、外装フィルムの熱歪みは再現した。手順は三通り。いずれも十九時〇七分のログと合致する。誰にでもできる。それが厄介だ」

「誰にでも、ですか」

「ええ。All。Aだ」

 A。新田の胸の奥で、紙片の二番目の記号が暗く点る。


 午後、宴会場のリハーサル。

「では、五枚のカードから一枚選んでください」

 黒い燕尾服の男――蒲生稔は、観客役のスタッフを笑わせながら、指先で空気を薄く切り取るように動く。

「人は“選んだ気になる”だけです。見たいものを選ぶ。――ホテルも同じ。お客様は『安心』を選んでいる。選ばせている、と言い換えてもいい」

「ショーにする気はないが、言い方は参考にします」

「課長。あなたは『信じたい』タイプですね。素晴らしい。けれど舞台の上では、信じる人から先に騙される」

「ホテルは舞台ではない。人生の一部だ」

「舞台のほうが、正直ですよ」

 稔は片目でウィンクし、袖に消えた。スタッフの笑い声が残る。軽やかさは、緊張を薄めるための薬だ。薬は時に、毒にもなる。


 保安課に戻ると、紙の報告書が山になっていた。端を揃え、端を叩く。紙は正直だ。手触り、インクの匂い、余白の取り方。どれもが書き手の呼吸を伝える。

 片桐の報告書は几帳面で、ところどころに消しゴムの細かな粉がこびりついていた。書いては消し、消しては書く――迷いの跡だ。

 最後のページに、小さな付箋。「E-3通路点検の立会い希望」。その字は、わずかに震えている。


 夕刻、設備担当とE-3通路へ降りる。

 従業員専用の灰色の扉。カードキーをかざすと、ひんやりとした空気が流れ出た。コンクリートの壁、配管の匂い。照明は少し古く、蛍光灯が低く唸る。

通路の途中、天井のプレートの片隅に、灰色の布テープが貼られているのを見つけた。新しい。剥がして指で触る。細い繊維が指腹に残った。

「ここだけ最近触った跡がある。誰だ?」

「メンテナンスの記録は……」

設備担当がタブレットを取り出しかけて、こちらの目に気づき、慌てて紙の帳票をめくった。「先月の定期点検のみです」

 床の隅に、薄い輪染み。直径十センチほど。洗剤か、薬剤か。鼻を近づけると、昨日感じた漂白剤とは違う、もっと鋭い匂いが微かに残っていた。

「高見さんを呼ぼう」

 内線に出た高見は、珍しく一拍置いてから「今向かいます」と答えた。


 待つ間、通路の先で、誰かの影がよぎった。

「――片桐さん?」

 呼びかけると、影は立ち止まり、すぐに曲がり角の向こうに消えた。

 追おうとして、足を止める。追うべきか、呼ぶべきか。刑事の癖が疼く。だがここはホテルだ。人を追い詰める場所ではない。

 戻ると、床に白い紙片が一枚、いつの間にか落ちていた。拾い上げる。活字は黒々として、簡潔だ。


 裏切り者は客です。


 稔の声が脳裏で笑った気がした。――「人は見たいものを選ぶ」。

 紙片を封筒に入れ、ポケットにしまう。そのとき、指先にざらりとした感触。封筒の内側に、灰色の繊維が数本、張りついていた。


 高見が駆け込んできた。

「お待たせしました、課長。さっきまで十階の浴室の排気口を――」

 言いかけて、彼女は床の輪染みを見つけ、眉をしかめた。

「これは……塩素じゃない。もっと……強い」

「換気は?」

「ここは弱い。奥のダンパーで調整できるはずですけど」

 高見がダンパーのレバーに手をかける。レバーは固く、わずかに歪んでいた。

「誰かが、ここを通して何かを通した可能性がある」

 言葉に出すと、通路の冷気が、ほんの少し温度を下げた気がした。


 夜。ロビーに戻る。

 ピアノの音が小さく流れ、シャンデリアは暖色に安定している。

 尚美が外国人客に道案内をしている。言葉は滑らか、表情は柔らかい。だが、その笑顔の半拍の遅れは、やはり消えない。

 すれ違うとき、彼女が囁いた。

「課長、倉庫の温度ログ、もう一つ見つかりました。十九時〇七分の少し前、十九時五分に一度、急上昇しています。――二回加熱した痕跡」

「ありがとう」

 二回。誰かが慌ててやり直したのか、確認のためだったのか。

 湯川の言葉が蘇る。反復可能性。信頼は反復で作られ、反復で壊れる。


 事務室で報告書をまとめ、時計を見ると二十二時を少し回っていた。

 机の引き出しを閉めると、カサ、と紙が滑る音がした。

 引き出しの隙間に、白い紙片。拾い上げる。活字は、あの形式だ。

 E-3/A/19:07/△

 ――また、△。

 誰が、どうやって。引き出しに鍵はかかっている。事務室に入れるのは、限られた人間だけ。

 ポケットに入れようとして、ふと気づく。もう一枚、机の上に。

 E-3/A/19:07/▽

――今度は、▽。

 上向きの次は、下向き。上げて、落とす。信頼のグラフのようだ。


 内線が鳴った。

『課長、宴会場の非常灯が一瞬だけ消えました。お客様は気づいていません。ログはこれから確認しますが、時刻が――』

「十九時〇七分か」

『……はい。ええと、でも今は二十二時です』

「記録の時刻が、ずれている」

 背筋を汗が伝う。設備の時計を操作できる人間は限られる。限られた人間の中に、誰がいる。

 川嶋の横顔、湯川の温度計、稔のカード、尚美の笑顔、片桐の古いスマートフォン。ピースは増えるのに、輪郭は遠ざかる。


 廊下を歩いていると、片桐が壁にもたれていた。制服の袖口は新しいものに替えられ、漂白剤の匂いはもうしない。

「課長、さっきの『客です』の紙、私のロッカーにも入ってました」

「誰が見つけた」

「私です。……誰にも見られてません」

「見られてないと、君はどうして言える」

 片桐はうつむき、唇を噛んだ。

「……すみません」

 新田は言葉を探して、やめた。叱責は簡単だ。信頼は、簡単ではない。

「明日の朝、ロッカーを一緒に確認する。――今日は上がれ」

「でも、私も立会いを」

「立会いはする。だから、休め」

 片桐は小さく頷き、去っていった。彼女の背中は、制服のサイズにまだ馴染んでいない。


 深夜。ロビーの照明はさらに落ち、床磨きの機械が低い音を立てている。

 新田は一人、最上階へ向かうエレベーターに乗った。スイートの前で立ち止まり、昨夜の空気を思い出す。冷たさ、静けさ、空調の平坦な呼吸。

 扉の前には今夜もルームサービスのカートが置かれていたが、銀のドームは空だ。配膳係のイニシャルと時刻を書いた小さな札が差さっている。十九時〇七分。札の数字は、今朝見た倉庫のログの数字と同じ形で、同じ癖で書かれていた。

――同じ手。

 札を外し、ポケットに入れた瞬間、背中で空気がざわめいた。

 非常灯が、一度、明滅した。次の瞬間、通路の照明がほんの一拍遅れて追随し、すぐに復帰する。瞬断。三秒もなかった。

 耳が、あの音を拾う。チリ。静かな、しかし確かな、電気の弾ける音。

 床に目を落とすと、扉の下の隙間から、白いものがゆっくり押し出されてくる。

 新田はかがみ込み、拾い上げた。紙片。

 今回は活字ではなく、手書きだった。震えのない、達者な筆跡。

『課長。信じたい相手を間違えないでください』

 それだけ。署名も、記号もない。

 呼吸が浅くなる。扉の向こうから、人の気配はしない。

 新田は耳を当て、空調の音に紛れた何かを探る。何もない。

 紙片を胸ポケットに入れ、背を伸ばした。

 ――信じたい相手。

 頭に浮かぶ顔は、ひとつではなかった。


 エレベーターに戻る途中、E-3通路への扉の前を通る。そのドアノブに、薄い粉が付着しているのに気づいた。ライトで照らすと、白ではなく、灰に近い。

 指先で触れると、ざらりとした感触。鼻を近づけると、漂白剤とも洗剤とも違う、金属を削ったような匂い。

 ポケットから封筒を取り出し、粉をそっと集めて入れる。封をすると、封筒の口の内側にまた二、三本の灰色の繊維がくっついた。

 ――灰色の布テープ。

 通路の天井から剥がしたテープ片。封筒の繊維。客のメモ。倉庫のログ。札の筆跡。

 点は増え、線はまだ遠い。


 ロビーに降りると、ピアノはもう止んでいた。カウンターの奥で、尚美が一日の締めの点検をしている。

「お疲れさまです、課長」

「君も」

「……大丈夫ですか」

 問いは、こちらにではなく、ホテル全体に向けられているように聞こえた。

「大丈夫にする。それが仕事だ」

 尚美は、微笑んだ。今度は、遅れなかった。

「明日、子ども連れの予約が多いんです。バルーンを増やしておきます」

「頼む」

 人を安心させるものは、時に、ただの風船で足りる。時に、何も足りない。


 事務室に戻る。椅子に腰を下ろし、灯りの下で紙片を並べる。

 E-3/A/19:07/△

 E-3/A/19:07/▽

 裏切り者は客です。

 『信じたい相手を間違えないでください』

 封筒の灰色の繊維。ドアノブの灰の粉。

 十九時〇七分を中心に、すべてが吸い寄せられる。

 時計を見る。二十三時三十八分。

 明日のサミット開幕まで、あと十二時間少々。


 机の端に置いた内線が、鳴った。

『課長――E-3通路です。今、誰もいないはずなのに、動体センサーが……』

 言葉がノイズに飲み込まれ、途切れた。

 同時に、事務室の照明が一度だけ脈打つように明滅した。非常灯は――やはり、点かない。

 暗闇が一枚、重なる。三秒。長い三秒。

 復帰した光の中、机の上に、見覚えのある白。

 また、紙片。

 今度の記号は、四つめだ。


 E-3/A/19:07/□


 空白。

 新田は紙片を指で撫でた。そこには、何も書かれていない。だが、確かに何かがある。

 ――何も書かれていないからこそ、何でも書ける。

 信頼は、証明ではなく、選択。

 胸ポケットの上で、心臓が一度、強く打った。

「……E-3へ行く」

 新田は立ち上がり、懐中電灯を掴んだ。

 ドアに手を伸ばす。外の廊下は、さっきよりも静かに見えた。

 扉を開ける直前、机上の内線がもう一度鳴った。

『課長、通路の先で――』

 その声は最後まで届かなかった。今度の暗転は、三秒では終わらなかったからだ。


(第1話 了)

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