毎日22時更新『マスカレード・トラスト』

湊 マチ

プロローグ「信頼は音もなく」

 朝の社員食堂は、湯気で曇った窓と、味噌汁の匂いで満ちている。

 新田浩介はプラスチックの盆を手に、焼き鮭の端を箸で折りながら、新聞の見出しを斜めに追った。国際金融サミット開幕まであと二日。会場は――ホテル・コルテシア東京。紙面は期待と不安を同じ分量で並べ立てていた。

「課長、今日も早いですね」

 味噌汁をよそいながら、栄養士の女性が笑う。

「落ち着くまでは、胃薬代わりです」

 新田は味噌汁を一口すすり、温度と塩気のバランスを測るように舌で確かめた。刑事だった頃と同じ癖だ。何かを信じる前に、事実を口の中で転がす。


 食後、磨き上げられた黒靴のつま先を廊下の光に傾ける。手持ちのIDストラップの端は少しほつれており、交換するリストに自分の名前を小さく書き足した。こういうほころびから、信頼は崩れる。

 出勤途中、宴会部の扉が半分開いていて、中から湯気とも笑い声ともつかない温度が漏れてきた。覗くと、コック長が若いパティシエにまかないのオムレツを切り分けているところだった。

「課長、味見します?」

「勤務中ですから」

「なら匂いだけでも。今日のゲストの好み……温度、六十一度がベストって教授が」

「教授?」

「理工学部の先生らしいですよ。明日本番のレセプションで講演の前座を」

 新田の頭に、昨夜の名簿が浮かぶ。帝都大学・湯川学。ホテルマンにとっては、肩書もまた扱うべき“手荷物”の一つだ。


 ロビーに降りると、山岸尚美の笑顔がいつもの位置にあった。笑顔は鏡のように客の不安を跳ね返す。彼女は小さな女の子にバルーンを手渡し、膝を折って視線を合わせる。

「お客様、ひとつお願いしてもいいですか? このバルーンは、明日まで割らないって約束です」

 女の子がうなずく。母親が安堵の息を吐く。

 尚美の口角は完璧だった。だが、新田はわずかな遅れを感じた。笑顔が整うまでの、ほんの半拍。疲れか、あるいは別の何かか。

「課長」

 背後から、控えめな声。新人の片桐奈津子が、制服の袖口を気にしながら立っていた。名札が少し曲がっている。

「すみません、これ……」

 片桐は小箱を差し出した。スイートルーム宛に届いた差出人不明のワイン、だという。外装フィルムは新品のように見えるが、指で撫でると薄く波打っている。

「搬入経路は?」

「業者口からですけど……監視カメラ、E-3通路の一部が、昨日から時々ブラックアウトしてて」

「どうして報告が上がっていない」

「私、気づいてはいたんですけど、修理の申請の……」

 言葉が細る。片桐の手は、ポケットの中で古いスマートフォンを握りしめている。背面にひび。カメラのふちに、色の褪せたシール。彼女の兄の形見だと、以前誰かが言っていた。


 新田はワインの外装をもう一度確かめ、尚美に視線で合図した。

「倉庫で一旦預かります。搬入記録と合致するか後で照合を」

「承知しました」

 尚美の笑顔に、あの半拍はもうなかった。


 副支配人の川嶋がエレベーターホールから現れた。背筋を伸ばし、ネクタイの結び目は寸分の緩みもない。

「保安課長。サミット前に余計な騒ぎは起こさないでください。私たちが売っているのは、部屋ではなく安心ですから」

「安心を売るなら、裏側のほつれを先に縫うべきです」

 川嶋は、ふと視線をロビーの片隅に落とした。そこでは車椅子の老婦人が寄りかかるように座っており、付き添いの息子らしい男が靴紐を結び直している。

「昨日、あの方……チェックイン時にお連れ合いの話をされましてね」

 川嶋はポケットから小さな封筒を出し、老婦人に手渡した。

「ご主人がよく召し上がった銘柄の紅茶です。サービスの範囲で」

 老婦人の目に、うっすら光が見えた。

 川嶋の横顔に、ほんの一瞬だけ別の顔が差した。

 ――この人はかつて、心から誰かをもてなしたことがある。

 新田の胸に、説明のつかない確信が触れた。だが同時に、川嶋の瞳の奥に沈む硬い影もまた、見えた気がした。


 昼過ぎ、宴会場のリハーサル。

 舞台袖では、黒い燕尾服の男がカードを指の上で踊らせていた。蒲生稔。

「開演五分前、非常口ランプの位置、少し変えられます?」

「保安基準がある。変えられません」

「じゃあ、観客の視線だけ変えます。安心してください、嘘はつきません。嘘を“信じてもらう”だけです」

 稔は親指と人差し指で空中の何かをつまむと、係の若いスタッフの耳元から白いハンカチを取り出して見せた。

 スタッフは思わず笑い、緊張がほどける。

「ね? 人は“見たいもの”しか見ない」

 新田はやんわりと笑みを返した。

「見せたくないものを隠すのが、ホテルのもう一つの仕事です」

「それは似て非なるものですね」

 稔は肩をすくめ、袖に消えた。


 夕刻。レストランの厨房。

「温度は?」

 銀縁の眼鏡を光らせ、真顔でソースの温度計を覗き込む男がいた。湯川学――と、隣のシェフが囁いた。

「五十九度。分子運動の観点からすると、あと二度上げたい。肉汁の保持率が落ちる」

「教授、ここは学会ではなくレストランでして」

「承知している。私は単に、最も“美味しい”を科学で保証したいだけだ」

 湯川はナイフの刃先でステーキの切断面を示し、肉汁の滲み方を静かに比較してみせた。

 新田は思わず咳払いした。

「教授。お客様にとって大事なのは、数字だけではありません」

「そうだ。だが“数字を信頼する”客もいる。信頼は多層的だ」

 湯川の視線は温度計から新田へ滑り、そこで止まった。

「あなたが守ろうとしている“安心”は、何度で保てる?」

 新田は答えなかった。料理は温度で管理できる。だが、人の不安と信頼は――。


 夜になり、ロビーの喧騒は艶のある静けさに変わっていく。

 新田は日中の報告書をまとめ、E-3通路のカメラ映像を確認しようとした。ところが、指定時刻の前後が砂嵐のまま固まっている。

 机上の受話器が鳴る。保安課の内線。

『課長。スイートのブラウン氏、ルームサービスが戻ってきません。ノックにも応答がなく……』

「上がります」

 フロントを抜けるとき、尚美が一歩寄ってきた。

「課長、先ほどのワイン……倉庫で外装の熱歪みを確認しました。温度計のログが数分だけ急上昇しています」

「タイムスタンプは?」

「十九時〇七分」

 新田は足を止めた。数字が、耳の奥で冷たい音を立てた。

「その時間の作業者は?」

「……片桐さんが倉庫鍵の受け取りログに」

 尚美の唇が、言葉の終わりでわずかに揺れた。

「ありがとう。後で」

 新田はエレベーターに乗り、最上階のフロアに滑り込んだ。

 廊下の端から端まで、空調の風が一定のリズムで流れている。扉の前に立つと、ルームサービスのカートが無防備に佇んでいた。銀のドームの中身はもう冷めている。


 ノック。応答なし。

 マスターキーを差し込もうとしたとき、背後で気配がした。

「課長……私、鍵のことで」

 振り向くと片桐が立っていた。制服の袖口が、漂白剤の匂いをかすかに残している。彼女はポケットから手袋を取り出し、震える両手を覆った。

「さっき倉庫で、誰かが……」

「後だ。入る」

 新田はチェーンを切り、扉を押し開けた。

 冷気が一枚、顔に触れた。

 照明は落ちている。カーテンの隙間から、都心の光が薄い帯になって床に伸びる。

 ベッドの端に、男の靴。テーブルにワイングラス。赤い液が、底に指一本ぶん。

 そして――。

 そこにあるべき気配が、ない。あるのは、静まり返った空間と、空調の一定の呼吸だけだ。

「電源を」

 片桐が壁のスイッチを探る。カチ、カチ。灯らない。

 新田は携帯ライトを点け、ベッドサイドへ進む。白いシーツに黒い影が重なる。

 ――冷たい。

 直感が、胃の底を掴んだ。

 シーツの裾に、細長い紙片が挟まっている。取り上げると、活字が四つ、印字されていた。


 E-3 / A / 19:07 / △


 新田は息を吸い、吐いた。

 耳の奥で、厨房の温度計のピッという音が蘇る。

 誰かが、このホテルの“裏側”に触れている。

 背後で片桐が、小さく呻き声を漏らした。ライトの光が彼女の頬を照らす。頬は青白く、瞳は何かを言いかけている。

「課長……信じて、ください」

 その声は、頼りなく、しかし真っ直ぐだった。

 信じる、とは何度で保てるのか。

 返事をする前に、部屋の奥で音がした。

 ――チリ、という小さな電気の弾ける音。続いて、天井の非常灯が一瞬だけ明滅し、すぐに死んだ。

 暗闇が、ほんの短い時間だけ深くなる。

 その刹那、扉の隙間から、もう一枚の紙がスッと滑り込んできた。

 拾い上げると、活字はたった一行。


 裏切り者は客です。


 ライトの光が紙を白く浮かび上がらせる。

 新田は視線だけで部屋を一巡させ、扉の向こうの廊下へ耳を澄ました。誰かの足音は、もうしない。

 呼吸を整え、紙片をポケットに収める。

 振り返ると、片桐は立ったまま、ポケットの古いスマートフォンを強く握っていた。指の関節が白くなるほどに。

「大丈夫だ。ここはホテルだ。守る」

 新田はそれだけ言い、内線のボタンを押した。

「保安課、新田。至急、スイートに応援。医務と設備も。――それから」

 言いながら、彼はふとロビーで見た川椅子の老婦人の顔を思い出した。あの紅茶。あのひとときの温度。

 信頼は、音を立てずに壊れ、そして音を立てずに、誰かの手で守られる。

「――E-3通路のカメラ復旧を、最優先だ」


 電話を切る直前、受話器の向こうで別の内線が割り込んだ。

『課長、停電系のログ、非常灯回路が十九時〇七分に一瞬だけ――』

 ノイズが混じり、途切れた。

 新田は受話器を見つめ、それからゆっくりと置いた。

 扉の下には、紙片がもう一枚。いつの間に、と考える前に、彼は拾い上げていた。


 E-3 / A / 19:07 / ▽


 矢印は、下を向いている。

 信頼の温度が、いま、音もなく下がっていく。

 新田はポケットの中で紙片を揃え、片桐の方を見た。

「片桐さん」

「……はい」

「明日の勤務、時間を変える。君は今日、もう上がれ」

「でも」

「上がって、休め。――それから、明日、君の話を聞く。全部だ」

 片桐の喉が小さく上下し、「はい」とだけ言った。

 ドアの外の廊下に出ると、エレベーターの角に副支配人・川嶋の姿があった。こちらに気づくと、彼はごく短く会釈した。

「騒ぎは最小限に。明日の朝刊はどこも見出しが決まっている。私たちが変えられるのは、紙面ではなく、ここで起こる次の出来事です」

 言葉は正しい。正しいが、冷たい。

 新田は「承知しました」とだけ返し、エレベーターの表示が降りていく明滅を見送った。

 その背に、一瞬の揺らぎ――若い頃の、誰かに感謝状を手渡された川嶋の姿が、なぜか重なって見えた。

 信頼は、誰かの中で誇りへ、誰かの中で仮面へと変わる。

 ロビーでは、尚美がまだ笑顔を保っている。バルーンは割れていない。厨房では、まかないの皿が空になっていく。宴会場の袖では、稔がカードを指の背で弾き、湯川は温度計の数字を静かに見つめる。

 コルテシア東京は、いつも通りの顔で、いつも通りに夜を迎えている。

 ――その仮面の下で、何かが静かに動き始めていた。


(プロローグ了)

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