第4話 タクシーで交わす背徳の唇
閉店時間が近づくと、店内の熱気はゆっくりと吐き出され、代わりに夜の冷たい空気が隙間から忍び込んでくる。
最後の客を見送り、氷のバットを空にし、シンクの水を落とす音が小さく響いた。
アルコールと香水、タバコの匂いが入り混じった夜の空気に、乾いた秋の涼しさがほんの少しだけまざっている。
カウンターの木目に反射する光も、どこか沈んだ色に変わっていた。
「途中まで送るよ」
背後からかけられた声に振り返ると、繁和が薄手のジャケットの袖を整えていた。
夜風に当たったのか、首元がほんのり赤い。
「妻とはもう何年も、こんな夜を過ごしていない」
と彼がぽつりと漏らした。
その声に、かすかな寂しさが滲んでいた。
川崎に置いてきた息子の顔が、一瞬だけ胸をかすめた。
──あの子を置いてきた自分が、こんな夜を歩いている。
「いいの?タクシー拾うつもりだったけど」
「じゃあ、一緒に乗ろう」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねる。
夜のすすきのは、すでに夏の匂いを手放し始めていた。
通り沿いの銀杏の葉はわずかに色づき、街灯の下で静かに揺れている。
タクシー乗り場には誰もおらず、停まっていた一台がすぐにドアを開けた。
繁和が先に後部座席へ滑り込み、私も隣に腰を下ろす。
ドアが閉まると、すすきののネオンライトと雑踏が、まるで別の世界へ押しやられるように遠ざかっていった。
車内には新しい内装の香りと、空調のわずかな風の匂いが混ざっていた。
窓の外では、色づき始めた街路樹が街灯に照らされ、流れるように後方へ消えていく。
繁和からは外の冷気と、ほのかな香水の残り香が漂ってくる。
──この距離、この空間。
逃すわけにはいかない。
私はそっと彼の腕に指先を触れ、そのまま軽くつかんだ。
驚いたように視線を向ける彼に、唇だけで微笑みを返す。
そして何も言わず、腕を組む。
布越しに伝わる体温が、想像以上に熱い。
心臓が、車の振動に合わせてゆっくりと早くなっていく。
「……涼しくなってきたね」
「……ああ」
短い返事に拒む気配はなかった。
信号で車が止まり、街灯の光が彼の横顔を照らす。
その一瞬、私は体をわずかに傾け、自分の唇をそっと彼の唇に重ねた。
触れたのはほんの一秒。
温かく、わずかに甘い感触が胸の奥を揺らす。
離れた瞬間、彼の瞳がわずかに見開かれ、小さく息がこぼれた。
私は唇の端を上げ、耳元に顔を寄せる。
「……続きは、また今度」
吐息をかすかに触れさせ、微笑みだけを残して夜の涼気へと足を踏み出した。
マンションの前でドアが閉まる音を背中で聞きながら、唇の温度と心臓の鼓動だけが、まだ消えなかった。
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