第5話 妻の来訪と冷たい視線
妻の視線が刺さった夜、すすきののネオンはいつもより冷たく見えた。
夜の空気は乾いて澄み、カウンター越しに見える通り沿いの銀杏が、街灯の下で金色に揺れていた。
秋の夜の札幌は、空気が冷たいぶん、ネオンの光が輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
そんな景色を横目に、私はカウンターの端でロックグラスを揺らす中折れハットのヒロシを見ていた。
「やっぱり、この店は落ち着くな」
低く掠れた声。
グラスを置く分厚い指が、琥珀色(こはくいろ)の液体を小さく揺らす。
私は営業用の笑みを浮かべながら氷を足した。
「今日はお一人なんですね」
「たまにはな。
……で、貴代美さん、男の影はないのか?」
探るような視線が、表情の奥からじわりと這い上がってくる。
軽く笑ってかわす。
「さあ、どうでしょう」
ヒロシは口の端を上げ、何かを言いかけた──そのとき、ドアベルが鳴いた。
入口には、ベージュのコートをまとった女性が静かに立っていた。
肩までの黒髪、整った顔立ち。
控えめな表情の奥に、冷ややかで鋭い光が潜んでいる。
彼女の指がコートを握る手に力がこもっていた。
まるで、夫の裏切りを見ずに流したかったかのように。
──見覚えがある。
繁和のスマホの待ち受けに映っていた女性。
間違いない、奥さんだ。
だが、今それを顔に出すわけにはいかない。
「いらっしゃいませ」
笑顔を作り、空いているカウンター席を手で示す。
女性は静かに腰を下ろし、「ウーロン茶を」と短く告げた。
グラスに氷を落とし、茶を注ぐ。
「今日は寒いですね」
「ええ……朝晩はもう秋の空気ね」
それだけの会話。
言葉は柔らかいのに、瞳は一点から動かない。
まるで心の奥まで覗き込もうとしているかのようだった。
「このお店、繁和から聞いたことがあって」
「そうなんですか。
……お知り合いだったんですね」
女性は口元だけで笑い、視線を逸らさずに言った。
「ええ……古い付き合いだから」
その言葉とともに、瞳の奥にひらりとした刃のような光が閃く。
カウンターの端を見ると、ヒロシが無言でグラスを傾けている。
視線はこちらに向いたまま、会話の一言一句を逃すまいとしているようだった。
その薄い笑みが、背中に冷たいものを走らせる。
時折見せる柔らかさが、かえって底知れぬ匂いを放っていた。
「また寄らせてもらうわ」
女性は会計を済ませ、背筋を伸ばしたままドアの向こうへ消えていく。
開いたドアから流れ込んだ夜風が、銀杏の葉の匂いをかすかに運んできた。
その香りとともに、彼女の残した視線が胸に刺さる。
扉が閉まる音が妙に重く響いた。
残されたカウンターに、ヒロシの低い笑い声がにじむ。
それは、これから何かを仕掛けてくる前触れのように思えた。
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