第2話 再会が呼ぶ禁断の火種
カウンターの上で、琥珀色の液体に沈んだ氷が、静かに音を立てる。
あの男が現れた夜、私の心に小さな火種が灯った。
スナック「彩香」の夜は、秋雨に濡れたネオンを連れてくる。
雨粒がガラスをすべり落ちる音が、店内の低いBGMにとけていた。
ガラス越しに見える通りでは、街路樹の葉が金色に染まり、雨で黒く濡れた舗道に貼りついている。
湿った空気がわずかに冷え、足元からしんと昇ってくるようだ。
私はグラスを磨きながら、常連客の笑い声を半分だけ耳に入れていた。
すすきのに来て十年。
川崎で生まれ育ち、二十代後半で結婚したが、長くは続かず、今はバツイチ。
ひとり息子は実家に預けたまま、ここで夜を生きている。
今はスナック「彩香」でチーママとして、ママの隣に立ち、常連には冗談を、新規には笑顔を──その両方を自然に使い分ける日々だ。
今年で38歳、もう若さだけでは夜の世界は渡れない。
離婚の痛みも、パトロンを切った夜の余韻も、もう深く考えはしない。
男との距離感は、秋風を避ける仕草のように自然に測れる──そう思っていた。
ドアベルが鳴き、ひやりとした風が足元を抜けた。
顔を上げた瞬間、手にしていたグラスがわずかに滑りかける。
「……繁和?」
三年ぶり。
親友のみどりの元カレ──今は四十二歳ぐらいになっているはず。
以前より肩の力が抜け、グレーのスーツがやけに馴染んでいる。
外から入ってきたばかりの彼のコートには、雨粒がきらめいていた。
左手の薬指には結婚指輪。
落ち着いた雰囲気の中に、昔感じた微かな緊張感がまだ残っている。
「久しぶりだな、貴代美」
低めの声が、胸の奥を静かに揺らす。
その後ろから、場違いなほど馴れ馴れしい笑みを浮かべた男が現れた。
中折れハットを深くかぶり、つばの影から鋭い視線を送ってくる。
額の薄さが店内の琥珀色(こはくいろ)の照明を反射して一瞬光った。
青白い肌、分厚い胸板──見た目、六十歳前後ぐらいだろうか。
この時はまだ、彼が元刑事だとは知らなかった。
「おう、ここが噂の店か。いい雰囲気じゃねえか」
繁和が軽く笑って言う。
「ヒロシだ。昔からの知り合いだ。よく飲むやつでな」
男は握手も求めず、私を頭の先からつま先まで、濡れた落ち葉を踏みつけるような目で見た。
(この男、ただの酔っ払いじゃない──)
胸の奥に、かすかな警戒が走った。
「何を飲まれます?」
「ウイスキーのロック。
……それと、俺と飯でもどうだ?
すすきののうまい店、知ってるぜ」
「営業中ですから」
笑ってかわすと、ヒロシは肩をすくめてウインクをした。
(この男の視線、ただの下心じゃ済まない気がする──)
湿った空気に混ざって、彼のスーツからわずかに雨の匂いが漂う。
その間に、私は繁和へ軽く視線を送った。
「結婚生活、幸せなんですか?」
彼の表情が一瞬だけ固まり、すぐに笑みが戻る。
「まぁ……それなりに」
曖昧な返事。
そのわずかな隙間に、何かが入り込めそうな気配を感じた。
ヒロシは繁和の肩を叩きながら言う。
「お前、こんないい女を放っとくなよ」
私は笑顔を崩さず、グラスを磨き続ける。
外の雨音と、氷の澄んだ音が重なり合う。
その奥で、面倒事と甘い夜が同時に転がり込んでくる予感があった。
──その時はまだ、耳の奥で小さく鳴る不穏な音に気づいていなかった。
この中折れハットの男が、私と繁和の距離を無理やり縮める“火種”になることを。
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