間話 執事長
「因縁……ですね」
帝国女学院の事件から三日後の夜。平坂家の書斎はいつもと変わらぬ静寂に包まれていた。磨き上げられたマホガニーの机には一冊の古い洋書が開かれたまま置かれている。暖炉の炎がパチリと音を立て、壁に掛けられた当主様の肖像画を柔らかく照らしていた。
私は重厚な革張りの椅子に腰掛け、グラスに注いだ琥珀色の液体を静かに揺らしていた。私の視線の先には、肖像画の隣に立てかけられた一枚の古びた写真があった。
セピア色のその写真には若かりし日の五人の男たちが写っている。皆軍服に身を包み、未来への希望に満ちた、どこか傲慢さすら感じさせる笑みを浮かべていた。私はその写真の縁を指先でそっと撫でる。写真の中の若き日の私は他の四人から一歩引いた場所に立ち、その眼差しには、拭い去れない不安と、この先に待ち受ける悪夢を予感させるような影が宿っていた。
「懐かしいものですね、当主様……」
私は肖像画に向かって静かに語りかけた。グラスの中の液体が暖炉の炎を反射して鈍く光る。私の脳裏にあの熱狂と狂気に満ちた日々が鮮やかに蘇ってきた。
これは、平坂家執事長を務める私、宗次(そうじ)の記憶。
◇
それは、大正五年、まだ私が軍の科学研究部隊に所属していた頃のことだった。当主様、そして花守清人殿、木崎吉良殿、そして黒瀬清隆(くろせ きよたか)殿。彼らと共に私たちは後に世間を震撼させることになる極秘プロジェクト「精神統制」の主要メンバーだった。
「精神統制」。それは、特定の高周波を利用して、人間の聴覚と平衡感覚を狂わせ、肉体を麻痺させる技術。さらに脳に直接作用することで、命令を絶対的なものとして植え付けることを目的とした恐るべき研究だった。
私はその優れた頭脳で研究に貢献しながらも、常に倫理的な危険性に疑問を抱いていた。「人の心を操る」というこの技術がいつか取り返しのつかない悲劇を引き起こすのではないか、という漠然とした不安が常に私の胸を締め付けていた。実験室に充満する焦げ付くようなオゾンの匂いと、耳をつんざく高周波の音は、まるで脳髄を直接揺さぶるかのようで、吐き気を催すほどの不快感を私に与えた。その狂気に満ちた空間は、まさに人間の尊厳が蝕まれていく様を映し出し、私に言いようのない悪寒を掻き立てていた。
◇
「成功だ! 宗次! 木崎! これこそが、我々が求めていたものだ!」
花守殿は興奮冷めやらぬ様子で私の肩を叩いた。彼の瞳はもはや科学の探究心ではなく、常軌を逸した野心と名声への渇望にギラギラと光っていた。
実験室は熱気に満ちていた。薄暗い部屋に並ぶ無機質な機械、耳をつんざくような高周波の音、そしてモニターに映し出される高周波に反応する生体組織のグラフ……。その日、私たちはついに高周波が人間の神経伝達を歪め、思考を書き換える可能性を証明した。
「馬鹿なことを!」
花守殿の言葉に私は怒声を上げた。
「これが成功だと? これは悪魔の技術です! こんなものを軍に差し出せば、帝都は、いや、世界は、人の尊厳を失った傀儡の街と化してしまう!」
「宗次、落ち着きなさい」
横から黒瀬殿が私の肩に手を置いた。彼の瞳もまた、花守殿とは異なる熱を帯びていた。
「宗次の言う通り、これは危険な技術だ。しかし凍結すべきではない。この力を悪用される前に、私たちが手にすべきだ」
「何を言っているのですか、黒瀬殿! あなたまで、花守殿と同じことを……!」
私は黒瀬殿の言葉に深い絶望を感じた。友人であったはずの彼らが、私の知る彼らではないように感じられ、胸を締め付けられた。
「違う! 私はこの力を、社会の支配者層の腐敗を暴き、罰を与えるための『正義の力』として利用できると信じている。世の中は力を持つ者によって歪められている。その歪みを正すためには、我々もまた力を持たねばならないのだ!」
彼の正義感は狂信的とも言えるほどに強かった。その言葉は、まるで周囲の者を巻き込み、全てを焼き尽くす炎のように響き、私と当主様は背筋が凍るのを感じた。そしてその場の誰もが彼の言葉に耳を傾けるように、静まり返った。
しかしその静寂を破ったのは、花守殿に追随していたはずの木崎殿だった。
「……花守君の言う通りだ。宗次君、君はただ、怖くなっているだけだ」
木崎殿は花守殿の言葉に賛同しながらも、その表情はどこか苦々しかった。彼の花守殿への追随は尊敬からではなく、いつか彼を追い越し、その才能を証明したいという執着からくるものだと、私は見抜いていた。その眼差しには、隠しきれない粘着質な嫉妬の炎が宿っていた。
その言葉に私はもう反論する気力も失った。私たちの意見は、決して交わることがなかった。いや、最初からまとまるはずがなかったのだ。
◇
「宗次、この研究は人の手におえる代物ではない」
当主様もまた私と同じ懸念を抱いていらっしゃった。当主様は鋭い洞察力でこの技術の本質を見抜き、兵器として悪用されることを強く危惧されていた。
私はその言葉に深く頷いた。私たちは、この研究の凍結を主張することで一致していた。
しかし他の三人の考えは異なっていた。
花守清人殿。彼もまた天才的な頭脳の持ち主だったが、研究への純粋な好奇心と軍という巨大な後ろ盾を利用して己の地位を築こうとする功名心に突き動かされていた。彼の目は常に名声と権力に向いており、技術の危険性には目もくれなかった。
「この研究を完成させれば、我々は歴史に名を残す。軍の英雄となれるのだぞ!」
花守殿は目を輝かせながらそう豪語した。彼の背後には彼と通じる軍の高官たちの影がちらついていた。
そして木崎吉良殿。彼もまた優秀だったが、常に花守殿という天才の影に隠れ、正当な評価を得られないことに深い劣等感を抱いていた。木崎殿は花守殿を強く羨み、そして憎んでいた。彼の花守殿への追随は尊敬からではなく、いつか彼を追い越し、その才能を証明したいという執着からくるものだった。
「……花守君の言う通りだ。この技術があれば、帝国の力は揺るぎないものとなる」
木崎殿は花守殿の言葉に賛同しながらも、その表情はどこか苦々しかった。私は彼の内なる嫉妬の炎がいつか彼自身を焼き尽くすのではないかと感じていた。
そして黒瀬清隆殿。彼の思想は他の誰とも異なっていた。
「私はこの力を正義のために使いたい」
黒瀬殿はそう言って私たちを驚かせた。彼はこの技術を、社会の支配者層の腐敗を暴き、罰を与えるための「正義の力」として利用できると信じていたのだ。彼の正義感は狂信的とも言えるほどに強かった。当主様と私は花守殿や木崎殿とは異なる種類の危うさを彼の熱を帯びた眼差しの中に感じていた。
「怪人ジゴマ」。
その正体が、まさかこの男だったとは……。
私は静かに呟いた。帝国女学院の事件で愛梨嬢は「怪人ジゴマ」を模倣した。しかし彼女の動機は花守家に全てを奪われた個人的な復讐心からくるものであり、その行動は木崎殿の私怨と結びついた結果だった。本物である黒瀬清隆殿が掲げていた社会の闇を裁くという狂信的な正義感、そして彼なりの美学には遠く及ばなかったことを、私は見抜いていた。
黒瀬清隆殿ならば、あのような計画は立てなかっただろう。もっと冷酷で、もっと完璧な計画で帝都の支配者たちを震え上がらせていたはずだ。あの事件は本物のジゴマの行動をいびつに歪めて模倣したに過ぎなかったのだ。
プロジェクトの終焉は突然訪れた。研究は成功を収めるが、当主様と私はその危険性から研究の完全な封印を強く主張した。しかし花守殿と木崎殿、そして黒瀬清隆殿の三人はこれに反発。三人の意見はそれぞれ異なる方向に向かっていた。
◇
花守殿は研究の継続を望み、軍の高官たちと密約を交わそうとしていた。木崎殿は花守殿の影から抜け出すために、この技術をさらに強力なものにすべく独自の研究を秘密裏に進めることを決意した。そして黒瀬清隆殿は研究の成果を携え、自らの正義を貫くために軍を去り、社会の闇に潜伏することを決意した。
「私たちは、彼らとは相容れない」
当主様はそう言って三人の男たちとの決別を決意された。私もまた親友であった花守殿が道を踏み外していく姿を静かに見送ることしかできなかった。
軍を去った私は行くあてもなく彷徨っていた。そんな私の元に当主様が訪れてくださった。
「宗次、君の知性と誠実さが必要だ」
当主様はいつかこの技術が悪用されることを予見していらっしゃった。その眼差しは、遠く未来の闇を見通すかのように鋭かった。
「もしもの時のために、この技術に対抗できる研究を平坂家で進めてほしい」
私は当主様の真剣な眼差しに深く頭を下げた。しかし当主様は少し照れたように、言葉を続けられた。
「それに……あやめのことも頼む」
当主様の声は先ほどとは打って変わって、どこか柔らかく、父としての優しさを滲ませていた。
「あの子は私に似て少々探究心が強すぎる。恐らく将来私と同じようにこの帝都の闇に足を踏み入れることになるだろう。特に、彼女の持つ『殺芽の眼』の力が、その闇の深淵へと彼女を誘い込むのではないかと、私は常々案じていた。手を焼くかもしれないが……どうかあの子のそばで、その才覚を見守ってやってほしい。君だけが私の隣でこの闇と戦い、そして私の娘を守ってくれると信じている」
私は当主様の言葉に胸が熱くなるのを感じた。この上なく重く、尊い命だった。当主様が託してくださった使命は単なる「研究」ではない。それは過去の因縁から大切な人々を守り、そして未来を担う娘を守るという、あまりにも重い、しかし誇り高き使命だった。その使命は、私にとって生きる意味そのものとなった。
私はその誘いを受け入れ、平坂家の執事となった。執事としての仕事と並行して、当主様の秘密裏の命を受け、「科学班」を結成。高周波の無力化や毒ガスへの対策研究を始めた。
◇
私は書斎の窓から中庭に目を向けた。
そこには簡素な着物に着替えたお嬢様と書生の姿があった。書生が手に持った木皿には湯気を立てる素朴なひっつみが盛られている。お嬢様はそのひっつみを無邪気に口に運び、書生に向かって「美味しい」と微笑みかけていらっしゃった。その笑顔は事件の闇とは無縁の、ただただ温かく穏やかな光景だった。過去の陰鬱な実験室の光景が脳裏をよぎるたび、この穏やかな時間は、私が何を守るべきかを示す道標となっていた。
私はその光景に安堵の息を漏らした。当主様が私に託されたお嬢様を守るという願いが、まさに今この瞬間に叶えられている。かつて当主様が用意された「備え」がお嬢様と書生を事件の危機から救い、二人の間に確かな絆を生んだ。それは当主様の愛と私の誠実さが結実した、奇跡のような光景だった。
しかし私は、過去の負の遺産を完全に防ぎきれなかったことへの拭い去ることのできない自責の念も抱いていた。愛梨嬢の事件はほんの序章に過ぎない。本物の怪人ジゴマ、黒瀬清隆殿という男がいつか帝都全体を揺るがすであろう「闇」がすぐそこまで迫っていることを予感していた。その闇は、この帝都の歴史の深い根に絡みつき、やがて全てを覆い尽くすだろうという、恐ろしい予感だった。
私は再び肖像画に向き合った。
「当主様、お嬢様は貴方が残されたこの帝都の闇をきっと晴らしてくださいます。私もまた執事として、彼女の盾となり剣となりましょう……」
私は静かに、しかし力強く誓った。
書斎の窓から夜明けの光が差し込む。その光が私の顔を照らし、私の目に宿る未来への確固たる決意を浮かび上がらせる。
これは当主様が残された『因縁』を断ち切る戦い。そして未来を担うお嬢様をこの身に代えても守り抜くという、私の『覚悟』なのだ。
過去の因縁が今再び動き出す。そしてその闇に立ち向かうお嬢様の隣に、私と書生はこれからも静かに、しかし力強く寄り添い続けるだろう。
私にとってそして平坂家にとって、本当の戦いはこれから始まるのだ。
間話 完
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