第六話 明かされる殺意、そして夜明け

 怪人ジゴマが現れた。


 ホールは時間そのものが凍り付いたかのようだった。絢爛なシャンデリアの光も、彩り豊かなドレスも、歓声も、すべてが漆黒の高周波と麻痺ガスの霧に飲まれ、静止した絵画と化した。


 警官たちは、盾を構えたまま、あるいはきらめをかばうように、意識はありながらも石像のように固まっている。彼らの目には、恐怖と混乱が張り付いていた。きらめもまた、絶望に顔を歪ませ、指一本動かせずにいる。


 その異様な沈黙の中を、たった二つの影が、ゆっくりと動き出した。


「……書生」


 お嬢様の声は、装着した防毒マスクの中で僅かにくぐもっていたが、僕の耳にははっきりと届いた。特製の耳栓が、不快な高周波を完璧に遮断しているのがわかる。


 周囲の警官たちが苦悶に満ちた表情を浮かべているのを見ても、僕たちだけが動けるという事実に、改めてお嬢様の用意周到さに背筋が伸びた。


 「お嬢様……まさか、本当に僕たちだけが……」


 僕もまた、マスクの奥で息を呑む。この超常的な現象の中を、意思のままに動けることの異様さ、そして得体の知れない高揚感が、僕の全身を駆け巡った。それは、姉を奪われたあの日の無力さとは、真逆の感覚だった。今ならば、僕は、この手で姉を守ることができたのかもしれない……。そんな、あり得ない妄想が、一瞬、僕の脳裏をよぎった。


 僕たちは、静かに、そして慎重に、ジゴマと化した愛梨へと歩み寄った。



 ◇



 ジゴマと化した愛梨は、黒いマントを翻し、きらめの目前に立っていた。彼女の右腕には、銀色の光を鈍く反射するナイフが握られている。その切っ先はきらめの喉元へと、ゆっくりと、しかし確実に向けられていた。


「花守の娘よ……これで、全てが終わりです……」


 変声器を通したジゴマの声が、ホールに響く。それは、愛梨の可憐な声とは似ても似つかぬ、冷酷で、しかしどこか深い悲しみを秘めた響きだった。


「待ちなさい、ジゴマ」


 お嬢様の声が、静止した空間に響き渡った。ジゴマのナイフの動きが、ぴたりと止まる。


 黒いマントの奥から、冷たい視線が僕たちに向けられた。ジゴマは、僕たちのマスクと耳栓に一瞬目を留めたようだったが、すぐにその視線は、僕たちの動きそのものに向けられた。


「……貴様ら、なぜ動ける!?」


 初めて、ジゴマの声に動揺の色が混じった。その動揺は、僕たちの「切り札」が、彼女の完璧な計画に綻びを生じさせたことを物語っていた。


「あなたの粗雑な奇術など、このあやめの眼にはすべてお見通しですわ、ジゴマの偽物」


 お嬢様は、一歩前に踏み出した。その足取りは、堂々として揺るぎない。


「いえ、愛梨さん、と呼ぶべきかしら?」


 ジゴマの体が、微かに硬直した。彼女の握るナイフの切っ先が、わずかに震える。


「貴様……なぜ!?」


「簡単なことですわ。あなたともう一人の協力者しか、ここまでの巧妙な仕掛けを用意できませんから。 『時間停止』のトリックは、確かに巧妙でしたわ。まず、活動写真の映写機に隠された特殊な高周波発振器。あれが、人の聴覚と平衡感覚を狂わせ、肉体を麻痺させる元凶ですわね」


 お嬢様は、冷静に語り続けた。


「ですが、一つだけ分かりません。恨みのある理事長だけでなく、なぜきらめお嬢様をも標的にしたのか」


 するとジゴマの顔から変声器が外され、愛梨の素顔が露わになる。彼女の瞳は涙と怒りに歪んでいた。


「なぜ、ですって!? なぜって、きらめお嬢様の父親が、私から全てを奪ったからですわ」


 愛梨の悲痛な叫び声がホールに響き渡る。彼女はきらめの父親、花守理事長の罪を告発する。


 「巷を騒がす『怪人ジゴマ』。彼の『罪を償え』という言葉は、私の心を捉えました。彼のように、隠された罪を暴き、罰を与える存在になりたかった。だから、私は、ジゴマを模倣したのです。この学園で、最も華やかな祝典の場で、世にも恐ろしい活動写真を上映するがごとく、理事長の罪を世に晒し、罰を与え、そして次に、花守家を象徴するきらめお嬢様を罰することで、この手で因縁を断ち切ることで、復讐を完遂するつもりでしたわ」


 愛梨は再びきらめお嬢様にナイフを向ける。その刃先は、かすかに震えている。


「待ちなさい、愛梨さん!」


 今度は僕が前に出る。お嬢様の背後から一歩踏み出し、愛梨の目を見据える。


「愛梨さん、あなたの悲しみは、僕にも痛いほどわかります。理事長の罪は決して許されるべきものではありません。しかし、その憎しみが、あなた自身を、そしてきらめお嬢様をも、闇に引きずり込むことは、本当に望んでいることなのですか?」


「黙れっ。お前になんて、わかるはずがない。偽善者ぶらないで。あなたたちに、私の苦しみがわかるはずがないでしょう!」


 愛梨は僕にナイフを突きつけ、激しく叫んだ。その声は涙でくぐもっている。ナイフを握る彼女の指先は小刻みに震え、まるで何かを振り払おうとしているかのようだった。


「書生に分からなくても、わたくしにはわかります。貴女、本当はもう、きらめを殺す気がないはずです」


 お嬢様の『殺芽の眼』は、愛梨の内に秘められた殺意が、もはや失われていることを既に見抜いていた。


「どうして、それを……!」


 愛梨は驚愕に目を見開いた。彼女のナイフを握る手がまるで呪縛から解かれたかのように、ガタガタと震え始める。


「簡単ですわ。貴女の『殺意』は、もはや純粋なものではないから」


 お嬢様は、まるで手術台の上の患者を診断するかのように、冷徹な声で告げる。


「貴女は、確かに花守きらめへの憎しみを抱いています。ですが同時に彼女への友情、そして自らの罪悪感という、相反する感情にも苛まれています。その心が、きらめを殺すことへの躊躇を生んでいるのです」


 お嬢様の瞳がまるで宝石のように強く輝き、愛梨の心の奥底を、すべて見抜いているようだった。その『殺芽の眼』は、愛梨の心の中で、復讐心と罪悪感が激しく葛藤している様子を、見事に捉えていたのだ。


 愛梨の握るナイフの切っ先が激しく震える。彼女の心は、まだ完全には決まっていない。


 お嬢様の言葉に、愛梨の目は大きく見開かれた。彼女のナイフが、チャリン、と音を立てて床に落ちる。愛梨はその場に膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。


「わ、わたしは……私は……」


 その声は、絶望と安堵、そして深い後悔が混じり合った、幼い少女の慟哭だった。


 彼女は、自らの手で全てを終わらせることのできない、弱く、そして哀れな人間だったのだ。


 きらめは動けない身ながらも、その姿を見守っていた。事件は、解決した。誰も、これ以上、傷つくことはない……そう、誰もが安堵した。


 はずだった……。



 ◇



 その時、愛梨の背後から副理事長である木崎吉良が、嘲るような笑みを浮かべながらゆっくりと動き出した。


「おやおや、お嬢様。感傷に浸るのはおよしなさい。まだ、お芝居は終わっていない」


 木崎は懐からもう一つのリモコンを取り出すと、カチリ、とボタンを押した。ホールの空気が、一瞬にして再び張り詰める。


「えっ!?」


 お嬢様は驚きに声を上げた。僕の耳を、再び、皮膚の奥から響くような不快な高周波が襲う。耳栓が、何の役にも立っていない。僕の体は、意思とは無関係に硬直していき、指一本動かせなくなった。


「まさか、周波数を変えた……!?」


 マスクと耳栓は、科学班が総力を挙げて開発したもの。通常の高周波はもちろん、あらゆる妨害電波にも対応できるはず。だけどこの不快感は、これまで感じたものとは明らかに異なる……。共振周波数自体を変えているのか? あるいは、全く別の原理を利用しているのか……?


 お嬢様も僕と同じように動けなくなっていた。彼女の顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。


「その通りですよ、あやめお嬢様。あなた方の知恵を拝借し、私もまた新たな『舞台装置』を用意しておきました。あなたの科学がジゴマの奇術を打ち破るなら、私の科学が、あなたのその傲慢な知性を打ち砕くでしょう」


「な、ぜ……」


 お嬢様の声に、これまでの冷徹な知性からは想像もつかない動揺が混じっていた。その表情は僕が今まで見たことがない、怯えにも似たもので、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。


「なぜ、ですって? くくく……おやおや、まさかお忘れで? あなたのお父様が支援し今は平坂家執事にとどまる男と花守理事長や私たちが、かつて軍の科学研究部隊で取り組んだ、あの『極秘プロジェクト』を……。

 あの素晴らしい『精神統制』の研究を! 軍という後ろ盾を得て進めた研究成果を。 私だって、昼夜研究に没頭し、誰よりも成果を上げているというのに! あの男はそれを台無しにしようとした」


 木崎の口から出た言葉に、お嬢様の顔色がさっと変わった。 


 僕は、そのプロジェクトが何なのかを知らない。しかし、それがお嬢様にとって、平坂家にとって、触れてはならない秘密であることは、その場の空気で嫌でも伝わってきた。耳栓を突き抜けるこの不快感は、もはや脳そのものに直接語りかけてくるようだった。


「あの実験は、人間をまるで意のままに操るかのような効果をもたらす技術。満州で兵士を統率する際に、指揮官の命令を瞬時に、絶対的なものとするために使われた、恐ろしい代物だ」


 木崎は、懐からもう一つのリモコンを取り出すと、その裏側を僕たちに見せつけた。そこには、蛇が鎌を巻き付けたような、不気味なシンボルが刻まれている。


「あなたのお父様は、その成果が悪用されることを恐れ、終息後は平坂家の科学班で、執事となったあの男に厳重な対策を練らせておられたようですが……」


 木崎は、さらに一歩、お嬢様へと近づく。


「私は違います。あの男の作った程度の対策など、あってないようなものだ。 私はさらに深く、人間の神経系、その根源に迫る研究を誰にも知られることなく秘密裏に進めてきたのだ。 幾度となく実験を繰り返し、失敗と試行錯誤の果てに、ついに完成させたのだ。あなたの父親や、あの男が作り出した甘い対策など容易く打ち砕く、私の『呪われた遺産』ですよ! この周波数は、平坂家の、いや、この世の誰にも止めることはできない!」


 木崎は高らかに、狂ったように笑った。その笑い声は、科学の名の下に人間の尊厳を踏みにじる、恐ろしい「闇」を象徴しているようだった。


「ですが、まだ足りません。『呪われた遺産』が、あなたという存在を屈服させることが、私にとっての何よりの快楽になる」


 木崎は冷たい笑みを浮かべながら僕たちをゆっくりと見渡す。そして、倒れている警官たちを嘲笑った後、お嬢様へと近づいていく。


「あやめお嬢様、あなたは聡明でいらっしゃる。しかし、他人の舞台に土足で踏み入る愚かさをお持ちだ。その罰として、まずはその高貴なドレスを汚して差し上げましょう」


 木崎は、お嬢様の体を軽々と持ち上げ、ホールの壁に吊るされた鎖に彼女の手足を縛り付けた。冷たい金属が、お嬢様の細い手首と足首を締め付ける。


 動けない体で、あやめは必死に首を振った。その美しい唇がかすかに、しかし確かに「嫌……」という形を結ぶ。


「私とあなたのお父様は、同じ研究者だった。だが、結局は私など、影でしかなかったのだ。そしてお前は、その男の才能を受け継ぎ、私の前に立ちはだかる。その屈辱、今、この場で晴らしてやろう」


 木崎の激昂した声がホールに響き渡る。彼の言葉は、個人的な嫉妬と復讐心に満ちていた。


「私の計画は完璧だったんだ。あと少しで、愛梨さんの悲願は達成できた。あなたが、あなたのその愚かな正義が、それを邪魔したんだ」


 木崎の激昂した声がホールに響き渡る。その言葉は、僕の胸を強く締め付けた。愛梨への協力が彼の本当の目的だったのか……。


 木崎は、嘲弄の色を深くしながら、お嬢様の華やかなドレスに手をかけた。上質な絹が、引き裂かれる音が生々しく響き渡る。まるで、お嬢様の尊厳そのものが、引き裂かれる音のようだった。


「箱入りの令嬢にしては、肉付きの良い身体をしているじゃないか」


 そして、木崎は汚い指で、あやめの下着に絡みつく。


「やめろ……っ」


 僕の喉から、か細い声が漏れた。しかし、高周波に縛られた僕の体は動かない。


「あなたのその聡明な頭脳もこの美しい肢体も、もはや私の憂さ晴らしの道具だ! 計画を潰した罪を味わえっ!」


 木崎の執拗な言葉が、お嬢様の精神を抉っていく。屈辱に歪むお嬢様の表情……それは、幼い頃、無力な僕が見るしかなかった、姉の悲劇的な姿と重なって見えた。あの時、何もできなかった無力感と、今、目の前で繰り返される暴挙に対する激しい怒りで、僕の視界は真っ赤に染まった。


『離して! やめて! 助けて!』


 姉の絶叫が耳朶に焼き付いた。あの時、何もできなかった悔恨と今、目の前で繰り返される暴挙に対する激しい怒りで僕の意識は沸騰寸前だった。


「貴様ぁあああああああああああああああああああ!」


『やめて書生! いけないわ、あなたは……』


 お嬢様は僕を止めようと必死に叫んでいる。その声は、高周波によってか細く震えながらも、僕の耳に確かに届いた。それは、僕の命を案じてのことか、それとも僕の暴力性が、彼女自身の知性によって引き起こされたことへの、深い責任と葛藤の現れなのか。


『殺す人だから……』


 お嬢様の言葉が、再び脳裏に突き刺さる。抑え込んできた獣が、ついに咆哮を上げた。


 僕の体が動いた。硬直していたはずの体が、まるで呪縛から解き放たれたかのように、自由にそして衝動的に動き出す。僕は、木崎に向かって猛然と駆け出すと、その醜悪な顔面を、躊躇なく、力の限り殴りつけた。


 ガオン!


 鈍い破裂音と共に、骨が砕けるような硬い手応えが拳に走った。それは、積み重なった怒りの重みそのものだった。

 

 木崎は、悲鳴すら上げられず、昏倒する。僕は、倒れた彼の体に跨がり、血の匂いを嗅ぎつけた獣のように、狂ったように拳を振り下ろし続けた。


 あと一撃。あと一撃で、こいつを殺してやる。そう思った瞬間、


 カチャカチャ……!


 壁に繋がれた鎖が、信じられない音を立てて揺れ始めた。高周波が依然としてホールを満たす中、お嬢様の体が強い意志の力で、わずかに、しかし確実に動き始めたのだ。


「書生……!」


 限界まで力を振り絞ったお嬢様の叫びが、僕の耳に届いた。その声に呼応するように、お嬢様の指が、懸命に鎖の留め金を弄んでいる。そして、ついに、パチン!という音と共に、鎖が外れた。


 よろめきながらも、お嬢様は僕に向かって駆け出すと背後から僕の体を強く抱きしめた。


「こいつは、あなたが殺す人じゃない……から」


 その声は震えているのに、不思議なほど強い力を持っていた。その言葉を聞いた瞬間、僕の中で暴れ狂っていた怒りの炎が急激に鎮火していくのを感じた。そうだ、お嬢様の言う通りだ。木崎は、確かに憎むべき人間だが、姉を奪った連中とは違う。彼を殺したところで姉は帰ってこない。僕が暴力を振るうことは、お嬢様の信じる道に背くことになる……。


 お嬢様はただ僕を止めようと、その細い腕が僕の振り上げた拳をしっかりと掴む。その温もりが、僕の胸に張り付いた氷のような怒りを、静かに溶かしていくようだった。


 お嬢様は木崎が殺意を持った人間でないことを見抜いていた。


 木崎は、意識を失い、ただ血を流していた。お嬢様は僕を抱きしめたまま、倒れた木崎から彼の犯罪の証拠となるリモコンや書類を回収した。


 杉浦巡査たちがゆっくりと意識を取り戻し始める。高周波とガスの効果が薄れていくのだ。彼らは、目の前の光景に呆然とし、しかしすぐに状況を理解した。


 杉浦巡査が、木崎を確保しようと駆け寄る。しかし、お嬢様は僕を抱きしめたまま、静かに、しかし毅然とした態度で言った。


「杉浦巡査。その男は、愛梨の共犯者です。彼を『殺人罪』で連行してください」


 杉浦巡査は、お嬢様の言葉に戸惑いつつも力強く頷いた。


「承知いたしました、お嬢様!」


 やがて、新たな周波数に対応した警官たちが駆けつけ、木崎を確保した。愛梨も、罪を自供し、連行されていく。その背中は、小柄でありながらも、背負ってきたものの大きさを感じさせた。彼女の姿がホールの出口に消えていくまで、きらめお嬢様はただその背中を見つめ続けていた。


 きらめは、父親の罪という重すぎる真実を突きつけられ、茫然と立ち尽くしていた。しかし、僕の横に立つお嬢様は、彼女の瞳の奥に絶望だけでなく、深い悲しみと共に、何か強い決意のような光が宿っているのを、静かに見据えているようだった。きっと、彼女は、この悲劇を乗り越え、より強く、より優しい淑女になるのだろう。


 杉浦巡査は木崎を連行する際、お嬢様に一言「お見事でした」と言って深々と頭を下げた。彼の目には、もはや困惑はなく、あやめお嬢様という存在への、確かな信頼が宿っていた。


 僕たちは静かにホールを後にした。夜明けの空はまだ薄暗い。



 ◇



 事件は解決した。だが、僕の胸には、拭い去ることのできない、暗い感情が渦巻いていた。あの時僕を動かしたのは、本当に「お嬢様を守りたい」という気持ちだけだったのだろうか。あるいは心の奥底に封じ込めていた「殺意」が、姉の姿と重なったことで、暴走しただけなのではないか……。


 僕は自分の手のひらを見つめた。そこには、固く握りしめた拳の跡が、未だに残っていた。熱を持った拳の痺れが、僕が犯した暴力の痕跡として、いつまでもそこにあるように感じられた。


 お嬢様はそんな僕の様子に気づいたかのように、静かに、しかし力強く、僕の肩を叩いた。


「書生……」


 お嬢様は僕の袖を小さく引いた。


「わたくしたちは、これからも、この帝都の『闇』と向き合っていかねばなりませんわね」


 僕は、力強く頷いた。お嬢様の隣で、僕はこれからも、彼女の「殺芽の眼」が照らす道を、共に歩むだろう。この大正という時代が、どれほど眩い光を放とうとも、その裏側には、必ず深き闇が潜んでいる。


 僕たちの、謎めいた探求は、まだ始まったばかりだ。


 夜明けの空は、馬車の窓から差し込み、お嬢様の横顔を柔らかく照らしていた。


 お嬢様は、窓の外をぼんやりと眺めていたが、やがて僕の方を振り返り、ふぅ、と長い息を吐いた。


「それはそうと、今回はなかなか骨の折れる事件でしたわ」


 彼女の声には、先ほどの絶望も恐怖も感じられない。いつものお嬢様がそこにいた。


「正直、ひどく疲れましたわ。こんな日は、ひっつみが食べたくなりますわね」


 そう言って、お嬢様は無邪気に微笑んだ。華やかなドレスはもうない。僕が用意した簡素な着物姿で、それでも彼女は、堂々とした気品を失ってはいなかった。


「かしこまりました、お嬢様。屋敷に戻ったら、腕によりをかけてお作りします」


 僕がそう言うと、お嬢様は満足そうに頷き、再び窓の外に視線を向けた。夜明けの光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。


 この大正という時代がどれほど眩い光を放とうともその裏側には、必ず深き闇が潜んでいる。そして、その闇に立ち向かう彼女の隣で、僕の探求はまだ始まったばかりなのだ。


 第六話 完

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