第48話 夜を渡る舟

白い野原を越えた先に、突然、暗い水面が広がっていた。

月も星もなく、ただ黒々とした夜の湖が静かに横たわっていた。

岸辺には一艘の舟が浮かんでおり、灯りも櫂もなく、ただ水に揺れていた。


私はためらいながらも舟に足をかけた。

その瞬間、水面が震え、舟は自ずと漕ぎ出した。

誰も漕いでいないのに、舟は確かな方向へと進んでいく。


水は深く静まり返っていた。

だが、耳を澄ませると、底から無数の声が響いていた。

それは囁きとも、呻きともつかぬ声で、過去に失われた言葉が混じり合ったもののようだった。

私は喉を震わせ、声にならぬ声で応えた。

すると、水面に淡い光が浮かび上がった。

それは小さな魂のようで、舟の周囲を漂いながら道を示していた。


やがて湖の中央に近づくと、水面がざわめき始めた。

黒い影が水底から立ち上がり、舟を取り囲んだ。

彼らはかつて声を喪った者たちなのか、口を開けても音が出なかった。

その沈黙がかえって恐ろしく、湖全体を凍りつかせた。


影の一人が舟に手を伸ばした。

冷たい指先が私の足首に触れた瞬間、胸の奥から強烈な焦燥が噴き出した。

私は声を持たぬ喉を必死に震わせた。

音にはならなかった。

けれど、その震えは波紋となって湖に広がり、影たちを遠ざけた。


舟はさらに進み、やがて遠くに灯りが見えた。

それは微かな炎であり、夜を裂く唯一の明かりだった。

炎の側に少女が立っていた。

彼女は静かに舟を見つめていた。


だが、舟は岸に着かなかった。

炎の手前で止まり、湖上に留まった。

少女は手を伸ばしたが、その距離は埋まらなかった。

「まだ……」

唇がそう動いたのが見えた。

声は届かなかったが、意味は確かに胸に刺さった。


舟は再び向きを変え、炎から遠ざかっていった。

私は身を乗り出そうとしたが、影の残り火が舟を押さえつけ、動けなかった。


少女の姿は次第に遠のき、炎だけが夜に揺らめいていた。

私はその灯を胸に刻み、舟の揺らぎに身を委ねながら、静かに目を閉じた。

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