第44話 水底の影

目を開けたとき、私は水の中にいた。

呼吸はできていたが、肺の奥まで冷たいものが満ち、身体は浮かぶでも沈むでもなく、ただ揺らめいていた。

上下の感覚はなく、光と闇が入り混じり、境界は曖昧だった。


手を伸ばすと、水は柔らかい膜のように指先を押し返した。

その奥に、影が漂っていた。

人の形をしているようでいて、輪郭は絶えず崩れ、また結ばれていた。

まるで私自身の沈黙が形を得たように見えた。


私は喉を震わせた。

水の中では声は届かないはずだった。

けれど、その震えに呼応するように、影は近づいてきた。

触れられる寸前、影は波紋となって散り、再び暗がりへと溶けていった。


その奥に、白い布のような揺らめきが見えた。

少女の衣だった。

彼女は確かにここを通った。

私は胸の奥で強くそう確信した。


水底を進むたび、足元から泡のように記憶が立ち上った。

見覚えのある風景、かつての教室、笑い声――

それらは一瞬で弾け、消えた。

この世界は記憶を「泡」として浮かべ、すぐに呑み込んでしまうのだ。


やがて前方に、黒い水の柱が立ち昇っていた。

その中で、無数の影がもがいていた。

彼らは声なき声で叫び続け、しかし水に封じられていた。

その姿は未来の私自身のようでもあり、声を失った者たちの群れのようでもあった。


私は恐怖に足を止めた。

だが、その瞬間、白い光が柱の中から漏れた。

少女の影が、その奥に立っていた。

彼女は私を見ていた。

言葉はなく、ただ両手を差し伸べていた。


私はその手に向かって泳ごうとした。

しかし水は急に重くなり、体は沈み始めた。

影の群れが絡みつき、足を引きずり込もうとした。

私は必死に腕を振り払い、喉を震わせた。

声にならない叫びが水を揺らし、泡となって立ち昇った。


その泡に触れた瞬間、影は一瞬だけ退いた。

私はわずかな隙を掴み、光の方へ身を投じた。


だが次の瞬間、光も闇も混じり合い、世界は再び渦を巻いた。

私は上下を見失い、ただ流れに飲まれた。


最後に感じたのは、少女の指先が水越しに触れたかもしれないという、かすかな温もりだけだった。


私はその余韻を抱きながら、静かに目を閉じた。

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