第38話 川の祈り

雨が続いた数日後、村を流れる川は豊かに膨らみ、その音は森全体に響き渡っていた。

雪解けと雨が混じり合い、透明でありながら底知れぬ力を湛えていた。

人々はその川を「祈りの道」と呼んだ。

水は常に流れ、留まることなく姿を変える。

それゆえ、すべての願いや記憶を運ぶものと信じられていた。


少女は川辺に立ち、小石をひとつ投げ入れた。

水面は波紋を広げ、その音は川の流れと一体になった。

彼女はその仕草を繰り返しながら、目を閉じていた。

それは遊びにも見えたが、私には祈りの儀式のように思えた。


私は声を失った喉で川の音に耳を澄ませた。

水は絶えず語っていた。

石にぶつかる音、枝を巻き込む音、深みに落ちる音――

それらは人の言葉ではないが、確かに「意味」を運んでいた。


――私はここにいる。

川の祈りはそう告げていた。

生まれ、流れ、やがて消える。

それでも確かに「ここを通った」という事実だけが残り続けるのだ、と。


少女は掌ですくった水を空へ放った。

水滴は光を帯び、きらめきながら散った。

その姿は一瞬で消えたが、胸には確かな残像を刻んだ。

私は息を吐き、その残像を追いかけるように目を閉じた。


夕暮れ時、村人たちは川辺に集まり、瓶に水を満たした。

それは家々の祭壇に置かれ、影を鎮め、未来を守るとされた。

瓶を抱えた人々の姿は、ひとつの流れの一部のように見えた。


私は少女と並んで川を見つめた。

その流れは終わりなき祈りであり、私自身の沈黙とも重なっていた。

声を持たずとも、流れ続ける水が私の言葉を代わりに運んでくれる。

その確信を胸に抱きながら、私は川音に包まれて静かに目を閉じた。

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