第9話 影との遭遇
その夜、月は欠けていた。
闇は村をより深く覆い、焚き火の灯りさえ頼りなく揺れていた。
私は眠りにつけず、藁の寝床を抜け出した。
外は冷たく、空気の粒が胸に突き刺さるようだった。
森の方から気配がした。
これまで幾度となく耳にした犬の吠え声もなく、ただ静寂の中に、低く湿った音が混じっていた。
足音とも呼べぬその響きは、大地の奥から滲み出るように近づいていた。
私は足を止めた。
影が、そこにあった。
それは形を持たなかった。
闇より濃い闇として、揺らめきながら立ち上がっていた。
風に溶け、夜に紛れながらも、確かに「いる」と分かった。
目を凝らせば凝らすほど輪郭は曖昧になり、しかし存在感は増していった。
胸の奥で、記憶がざわめいた。
父の背中、母の声、教室の匂い――すでに薄れかけていたものが、一斉に浮かび上がった。
けれどその像は影の前でさらに揺らぎ、手を伸ばす前に崩れていった。
まるで影が、私から記憶の最後の欠片を奪い取ろうとしているかのようだった。
私は声を出そうとした。
しかし喉は固く閉ざされ、音にならなかった。
足を動かすこともできなかった。
ただ影と向き合うしかなかった。
そのとき、背後から小さな光が近づいた。
松明を掲げた少女がそこにいた。
光は震え、彼女の手もまた震えていた。
けれど彼女は影を見据え、私の隣に立った。
言葉を発したが、意味は分からなかった。
それでも、その声が震えながらも確かに「生」を告げていることは伝わった。
影は微かに後退した。
松明の炎に押されるように、揺らぎ、やがて森の奥へと溶けていった。
残されたのは、焦げた匂いと、心臓の鼓動だけだった。
私はその場に膝をついた。
少女は黙って私を見下ろし、やがて手を差し伸べた。
その手は冷えていたが、確かな温度を持っていた。
私はその手を取った。
その瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった。
勇者ではなくともよい。
剣を持たずともよい。
ただ、この手を取るために、私はここにいるのだと思えた。
夜空を仰ぐと、星々は変わらず瞬いていた。
影が迫ろうとも、世界はその光を絶やさなかった。
私はその光に小さな救いを重ねながら、静かに目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。